2017年06月01日

病気になったのは、私が神を捨てたから?! 原因と克服法2 《李ヨハネ先生のベスト・アンサー》



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李ヨハネ先生のみ言。
『み旨をやりながら病気を治すべきか、
それとも治してからみ旨に励むべきでしょうか?』
続編です。


イエス様は、自分が死んでも「神様、生きています」と。
弟子が逃げても神様が捨ててもイエス様は、神様を捨てなかった。
そうしたら、神様のほうから責任をもたざるを得なくなったのです。

結局は、自分が自分を救うようになるのです。
神様の責任ではない。
自分が自分を救え! 
自分から堕落したんだから。


自分が動機を失った原因は何か。
神様が私を捨てたのかと疑い始める。
「自分が神様を捨てたのか」と見なくてはならないのです。

自分が神様を捨てたということも知らずに、
自分が迷ってしまうのです。
訳が分からなくなってしまうのです。

自分が価値を捨てた! 
だから、自分が病気になっている時にもう一度探せばいいのです。
そこで探して喜べば、病気は去っていくのです。


そういうところに、「神様は、私の神様だ」、
「私は神様のものだ」という実感をするのです。

「私は私でない」、「神様は生きている」と、告白するようになる。
いないと思っていた神様が確かに生きていると。
それを体験しないと神様は本当に生きているという実感がこないのです。

病気で、痛く、つらい気持ちを味わった時は、
イエス様のつらかった心情から、
先生が一人で開拓されてきた苦労の心情を味わおうとすることです。

そうすれば力がわいてきます。


イエス様は「死んでも生きている」ということを見せてくださっています。

いくら病気で弱いからといって、病気に支配されてはいけません。
なぜならば、私たちは、「死んでもいい」と公的に供え物になっているからです。
「公的な供え物になる」と覚悟してきているのです。
皆の前に、栄光を見せるために来たのではありません。

私たちは、死んでもどうでもいい人間、つまらない人間なのです。
結局、信仰者というのは、自殺しそうだった最後の立場で、
よみがえった人のことをいうのです。
死亡線を乗り越えているのです。



イエス様も真の父母様も
「神の代身である・・・」
そのような責任心情を持たれて歩んでいるので、
すべてを公的なものとして、
捉えていかれるのだと思います。

重要なのは、「私」を公的視することだと思います。
そうすれば、外的には、病気で大変だとしても、
内的基準は決して下がらないのだと思います。

もう一度、続きます。







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