2020年03月10日

真の父母のご馳走のみ言を、おいしく頂くためには?! 《み言の消化・金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「理想的な出会い」を紹介します。


  
み言の消化について

きょう皆さんは、このベルベディアの聖日礼拝に、
「きょうはどういうお話を聞けるだろう」
という期待をもって来られたことと思います。

先生がこの場でみ言を語ってくださっていた時には、
私も常に、
「先生はどういうお話を私たちに聞かせてくださるのだろう」
という期待をもって、このベルベディアに来ていました。

そのように、常に私たちは「次はどういうお話だろう」
というふうに考えて来るのです。

それ以上に私自身が先生のみ言を承る立場に立っている時に
常に考えたことは、
先生の語ってくださったみ言と自分は、
どのように一致化しているだろうかということでした。

それが成されていないと、
それ以上のみ言を理解するのが、なかなか難しいのです。


例えていいますと、み言と一致化できていない自分の状態というものは、
食事をしたけれども、自分の体の調子が
食べたものを消化できる状態になっていないので、
消化不良を起こしてしまうようなものです。

そういう状態の中で自分に必要なみ言は、消化できるみ言であって、
いかに消化できるかということが問題なのです。

消化できない状態で、おいしいものをまた食べるというのは、
かえって消化を難しくすることではないか、と私はそう考えたのです。

それはつまり、自分自身が
本当にみ言を消化できていないということが分かるということです。

ですから次に受けるみ言は、今まで消化できていなかった自分を
消化させることのできるものとして取り替えていくのです。
これが非常に重要であるわけです。


ところで私たちは、おいしい食事
―それは先生からいただく霊的な食事のことですがー
それを先生からいただいているのですけれども、
まだ消化できていないんですね。

そういう状態で、またおいしい食事を与えられます。
そうするとおいしいのでまた食べてしまうのです。

ところが消化できていないところに、
おいしい食事をまた食べるのですから、
また消化できません。

そしてまたおいしい先生のみ言を賜わると、
おいしくておいしくてたまらないので、
また食べたくてしょうがないのです。
それでまた食べます。

するとおいしいものをいつも食べていながらも、
消化できないので、家に帰ると非常に悩む、
ということが続くようになるわけです。
皆さんは、そういう体験をしませんか。


そこで次第に、先生のおいしい食事に招待されても、
食事に出ていくのが、非常に怖くなってくるのです。
なぜなら、消化できなくて痛いのにまた食べたら、
もっと痛くなるだろうということを考えるからです。

それを考えると招待されても行くのが怖いのです。
先生の聖日礼拝に参加してみ言を受けるのが怖いのです。
何か裁かれるように感じるのです。

そういうことを非常に感じるということは
何を意味するのかというと、消化できないところに
おいしい食事をまた食べなければならないので、
負担を感じるということなのです。
そうではないですか。

先生のみ言を最初は「非常に素晴らしい」と言いながらも、
何度かみ言を承るために出て行っていると、
いつも裁かれるように感じるようになるのです。
そうではないでしょうか。

私がこういう話をしているのは、私自身がそういうふうであった、
ということを話しているのです。

そこで、先生のみ言と自分をいかに一致化させるかということが、
常に私の課題になっているのです。


私たちは次から次に聞くみ言が消化できないと、
み言を聞くのが非常に苦しくなります。
だからといって「行かない」というわけにはいきません。

そこで、私たちは先生のみ言を聞くに当たって、
常に、自分が消化できていない原因をみ言の中からどんどん見付け出し、
消化させていく方向に切り替えていくようにしなければなりません。
これが非常に大事になってくるのです。

つまり、み言に自分を引き付けていくのではなく、自分にみ言を引き付けて、
自分を消化させていくようにしなければならないということです。

消化できないながらも、どんどん食べるのです。
み言をたくさん受けていきながら、
それを自分に引き付けて消化させる努力をしなければなりません。

もし、苦しいからといって食べなくなってしまったら、
それは今まで盲目の人が常に鈴の音を聞いて歩いていたようなものだったのに、
その鈴の音が全く消えてしまったということになります。

いったん鈴の音が消えてしまうと、どこへ行ったらよいのか、
行くべき方向を消失してしまうのです。
そういうことを考えながら、出会いについて少し考えてみたいと思います。

(「理想的な出会い」1981年9月27日ベルベディア)



元弼先生は、
み言を受けることを、食事をすることに例えて、
わかりやすく説明してくださいました。

父母様が言われる内容を、受けても
そのままにしておいては、消化できないというのです。

み言の消化は、「み言との一致化」ということは、
いかにみ言と一つになるかということですね。

つまり、み言で言われたとおりに
実行し、実践し、実績を残すことでしょうか。
そのごとく勝利することではないかと思います。

み言を受けることも当然重要です。
しかし、実践しなければ、消化不良を起こしてしまう、というのです。

消化不良だけではなく、
頭で物事を考えていたら、
いつの間にか、方向性がずれてしまう場合もあります。
み言を知的にのみ理解しようとすると、
恐ろしい方向に行きかねません。

元弼先生は、み言をさらに聞くことを通して、
『自分が消化できていない原因をみ言の中からどんどん見付け出し、
消化させていく方向に切り替えていく』
ことができると言われています。

み言通りに勝利するためには、
さらにみ言を求め続け、実践し続ける、
できなければさらにみ言を聞く。。。

その善なる実践の究極は、
神氏族メシヤ活動であると思います。
そして、み言を通して、お母様が願われる方向に合わせていく。

現時点では、新型コロナウイルスの問題で、
表立った活動は、できませんので、
外部伝道は、一対一などで、
こつこつ進めるしかありませんが、
内部伝道や、身の回りの人たちに対して、
み言の実践を意識していく時だと思うのです。






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posted by ten1ko2 at 07:40 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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