金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「悔い改めは出発の時と同じ」より
「恵みと試練」です。
☆
アブラハムは祭物で失敗しました。
しかし、二番目にイサクを通じて勝利しました。
これは祭物をささげていない立場と同じだというのです。
一敗して一勝した、ヤコブを通じてもう一勝した、
そういうところに立って、初めて
祭物の献祭に勝利した立場に立ったというのです。
☆
私たちが神の前で約束したということは、
一つの祭物をささげるのと同じことなのです。
私たちはこういうことが分からないので、
悔い改めてそれで勝利したと思っていますが、
本当は勝利ではありません。
五年、七年、十年たっても、結局行っているところは
元の点でしかないのです。
ですから常にサタンは、執拗に
私たちを神の前に帰そうとしないというのです。
☆
あるAという人と仲が悪いとします。
そういう人を勝利していかなければならない私であると
教えられているのですが、なかなか和合ができません。
和合ができないから“あっ、それは悪かった、
仲良くしていかねばならない”と悔い改めます。
悔い改めた時は、勝利したような気持ちです。
ところが相手に会うと、
お祈りの中で心に決めたようにはなかなかうまくいきません。
それでまた駄目になってしまいます。
その原因を追求し、分析し、そしてその原因をとらえて、
悔い改め決意します。
そうすると同じことがまた再現されます。
再現された時に勝利して初めて、
その人と必ず和合してみせると決意したことが
成就していくというのです。
☆
何にでも同じことがいえます。
ですから私たちは、普通こういう集会を通じて心霊が上がります。
その状態というのは悔い改めて決意したのですから、
勝負をつける資格を獲得した時点だというのです。
☆
相撲して一敗したとします。
それからすぐには勝負しないでしょう。
まずその人の一番の長所を知って、
これに対して私はどうすればいいかということを考え、
そして練習します。
鍛えてその次に、二番目の勝負をつけるわけです。
そして勝った時になって初めて
最後の勝負をつける資格を獲得したというのです。
例にとって話したのですが、信仰でもそういうことがあります。
その点を十分に考え知っていかねばならないと思います。
☆
ですから、恵みがあった後に
サタンの試験があるということはそういうことなのです。
恵みの後に、必ずサタンの試験があるということは、
恵みがある前に私は負けていたということです。
だから恵みが必要な人間であったということなのです。
恵みを受けた立場は、先ほど話したように、
象徴的に勝利しうる条件にしかならないのです。
そしてそのことが必ず再現されます。
そこで勝利して、勝負をつける資格を
得ることができるというのです。
☆
ですから、恵みを受けてから試験を勝利した時に、
その恵みがそのまま自分のものにはなりません。
その恵みが本当に自分のものになるには、
もう一度試験に勝利しなければなりません。
大抵は恵みの後の試練に勝利した時点で、
その恵みが自分のものになったような気分になりますが、
皆さんは、今説明したことをまず頭に入れておいてください。
☆
悔い改めたり、感激したという時は、心が非常に盛り上がります。
そうなれば信仰が一段高くなったように考えやすいのですが、
高くなったのではなく、高くなる象徴的条件となるのです。
それを考え違いをしている人が多いのです。
だから、そういう恵みを得ると、そこで満足しやすいというのです。
そこで満足してはいけないのです。
自分のものにはまだなっていないのですから。
(「悔い改めは出発の時と同じ」
1975年11月2日 川崎・楚麗邑)
1975年11月2日 川崎・楚麗邑)
☆
恵みと試練。。。
昨日紹介した徳野会長のみ言、
「小さい山の頂点に到達して、
次の大きな山に登るとき、
一度は山を降りなければならない」
そのみ言と通じるものがあると思いました。
私たちはロープウェイのごとく、
すぐに次の山に到達できると思ってしまいます。
しかし、一度降りなければならないのです。
真のお母様も今回、基元節7周年を中心として、
一つの節目を立てられました。
しかし、新たなる7年路程に向かって、
また一歩一歩踏みしめておられます。
私たちもそんなお母様に倣い、
新しい出発をする立場であると思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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