数回にわたり大谷先生ご夫妻の証しを紹介しましたが、
今回は、李相軒(イ サンホン)先生が聖和された際、
大谷先生が「ファミリー」に寄稿された証しを紹介します。
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1997年3月22日、李相軒先生(36家庭)が、82歳で昇華されました。
李先生は、勝共理論・統一思想を体系化されるなど、大きな功績を残されました。
この寄稿は、20年以上、李先生のもとで歩まれた
統一思想研究院の大谷明史副院長に
「李相軒先生を偲んで」のテーマで編集部が依頼したものです。
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去る(1997年)3月20日からの2日間、韓国の鮮文大学校において
第九回国際統一思想シンポジウムが行われました。
1日目の開会式で、李相軒先生は開会のスピーチをされました。
しかしそのとき、李先生の身体は相当悪く、階段を上るときは
両腕を支えなければならないような状況でした。
私も一方の腕を支えましたが、数段上ると休まれ、
激しい息遣いでした。
そして2日目の3月21日の早朝4時に突然倒れられて、
救急車で病院に運ばれたのです。
思いがけない事態に至り、私の頭は混乱し、
シンポジウムの内容はほとんど頭に入らなくなりました。
初めは意識もしっかりしているようでしたが、
連絡が来るたびに事態はどんどん深刻になってゆきました。
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2日目のシンポジウムが終わるや、ソウルの大学病院に駆けつけると、
李先生は全く意識がなく、人工呼吸器で機械的に呼吸している状態でした。
担当の医者は、もうほとんど手の施しようがないと言っていました。
私はあまり温かくない李先生の足にさわりながら、
「李先生!」と心の中で叫びました。
そして、翌日3月22日午前1時半に息を引き取られたのです。
私はこの事実をどう受け止めたらよいのか、茫然自失の状態でした。
☆
昨年暮れより、李先生は日を重ねるごとに健康を害されていきました。
特に心臓が悪く、身体全体がむくんでおり、足もはれて、
それまでの靴が履けなくなり、大きな靴を買われたほどです。
そのような李先生を見かねて、先生の二人の息子さんと一人の娘さんは
「お父様、お願いですから病院に行ってください」と訴えたほどでした。
息子さんたちのお嫁さんも、泣きながら訴えたそうです。
しかし、李先生は「私は医者だ。
自分のことは自分で良く分かる。心配するな。
私は絶対に病院には行かない」ときっぱりと拒絶されたのです。
教会の幹部の方も見かねて、李先生に病院に行かれるように
勧めましたが、やはり固辞されました。
李先生が入院されていれば、もっと長く生きておられたに違いありません。
しかし李先生は病院のベッドに横たわる道を選ばれなかったのです。
最後までみ旨の最前線で歩むという気概でいっぱいであったと思います。
そして、国際統一思想シンポジウムの期間に倒れられた
李先生の姿は、正に戦場で倒れた将軍のよう見えました。
本当に壮絶な最期でした。
今、私は清平の四十日修練生として祈祷と役事と
『原理講論』を学ぶ日々を送っていますが、
李先生が最後の力を振り絞って、シンポジウム会場の
階段を上られた姿が目に浮かび、涙を禁じえません。
☆
私は李先生に20年以上指導されて、統一思想研究院の仕事に携わってきました。
今、その間のことが、いろいろと思い出されます。
李先生は、本来、儒教精神の権化のような厳格なかたで、
規範をはずれたり、自分勝手に行動したりすると厳しくしかられました。
そのため、統一思想シンポジウムでの運営や
式次第など、私たちはいつも戦々恐々としていたものです。
私は李先生に厳しく訓練され、何度も激しくしかられました。
しかし、そのおかげで李先生のなされた偉大な業績に
同参できたと、心から感謝しています。
☆
李先生が初めて日本に統一思想を伝えてくださったのは
1972年ですが、本格的には1974年からです。
このとき、全国各地で四日間の講義をされました。
その時私は、初めて正式に統一思想を学ぶことができたのです。
1975年ごろ、初めて統一思想の仕事で
李先生から招かれて韓国へ行きました。
そのとき国際勝共連合のオフィスの片隅に統一思想研究院があったのです。
そのころ、李先生は毎日早朝6時前に出勤され、
夜12時に家に帰られる生活をされていました。
ビルの管理人が朝6時にエレベーターを動かすのですが、
すでにエレベーターの前で、李先生は待っておられたのです。
ビルの管理人も驚いていたに違いありません。
ご夫人は、李先生が朝早く出掛けられ、夜中に帰ってくる生活を
続けられたので、「私はあなたを泊める下宿のおばさんですか」
と愚痴をこぼしておられたそうです。
そのように統一思想や勝共理論のために精誠を尽くされた李先生でした。
☆
1977年に日本のメンバーが訪韓し、漢江のほとりにあるマンションで、
李先生より新しい統一思想の講義をうけました。
そのとき、初めて認識論、論理学、方法論などを学びましたが、
医学を専攻された李先生らしく、脳の図表を掲げて
説明されたのがとても新鮮でした。
セミナーが終わった後、俗離山に登りましたが、
当時63歳の李先生は息を切らずに先頭に立って、
どんどん登られました。
頂上で一同、歌を歌ったことが懐かしく思い出されます。
☆
1979年には、突然、真のお父様の指示により、
「特別講師統一思想修練会」と「特別講師勝共理論修練会」が
韓国と日本のリーダーに対して行われました。
日本では、9月から10月にかけて伊豆の川口記念セミナーハウスにおいて、
2週間の統一思想、一週間の勝共理論の修練会が行われたのです。
李先生はすべてを投入して講義、筆記試験、講義試験などを執り行われ、
参加者一同、寝る暇もなく、勉強しました。
それは天からの思想的洗礼を受けるという意義深い修練会でした。
この修練会を契機とし、日本において思想的に大きな飛躍がなされたのです。
☆
1989年8月には、アメリカのリーダーに対する
21日間の統一思想セミナーが、
ベリータウンの統一神学校で行われました。
アメリカのリーダーは、大部分が学位(博士号)を持っている
メンバーでしたが、お父様が「統一思想を理解しなければ、
先生は君たちを用いない」と言われて、修練会が行われたのです。
始めは100日間と言われたのですが、結局は21日間になりました。
この修練会によって、アメリカのリーダーも
統一思想を受けいれて思想的に自信を深めたのです。
このセミナー後の9月5日、
李先生は76歳(数え年)の誕生日を迎えられました。
御父母様からお祝いをしていただき、本当にうれしそうでした。
☆
その後、李先生はドイツ、フィリピン、モスクワにも行かれて、
リーダーたちに統一思想を熱心に講義されたのです。
そうして統一思想が世界に伝播されていきました。
教授たちに対しても講義をされました。
1986年11月には、済州島で四日間にわたって日本の教授40人に、
韓国の教授20人も加わって、統一思想と勝共理論の講義がなされましたが、
日本の教授は真剣に学び、李先生を心より尊敬したのです。
セミナー後、李先生はとてもうれしそうでした。
そして、「自分は日本の教授たちに恋をしたような心境だ」
と語っておられました。
セミナー後に李先生の夫人も来られて、
私の妻と息子も一緒に済州島を観光させていただいたことは、
一生涯忘れられない思い出です。
翌1987年7月には、フィリピンで約120人の教授が
1週間統一思想を学びましたが、
フィリピンの教授はとても純粋で熱心に学び、
これもまた感動的なセミナーでした。
寄稿 大谷明史
統一思想研究院 副院長 777家庭
「李相軒先生を偲んで」
統一思想研究院 副院長 777家庭
「李相軒先生を偲んで」
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李相軒先生は統一思想、勝共理論を体系化された、
人類歴史においても、功労者であられます。
大谷先生は、長年侍っておられたのですが、
証しにもあるように、とても厳しい方だったのですね。
また、ご病気になられたころのことも書かれていますが、
医者であるので、病状がわからないはずがありません。
それでも病院に行かれなかったのは、
先生の哲学、というか、み旨に徹する心情、
そういうことがあったのかもしれません。
大谷先生も晩年、お体が悪かったのに、
誰に告げることもなく、変わらない生活をされたのも、
何か、李相軒先生の影響があったのかな、
そんな風にも思いました。
証しの後編もありますので、お楽しみに。。。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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