2022年12月03日

日曜は、聖なる日 礼拝にきれいな服で参列する理由 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》 




171118 19650131.jpg


今日は、李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言より、
「聖日礼拝を守ろう」です。

清く謙虚な心で

聖日は、清く謙虚な心をもち、
自らを神様にささげられる
聖なる供え物となるようにしましょう。

旧約時代に神様は、
「あなたたちは世に属しているけれども、
聖なる一日をささげることによって、
悪なる主権のもとでも聖別された子女となり、
この一日を通して神様と永遠なる因縁を
結ぶようになる」とおっしゃいました。

皆さんは聖日をどのように守っていますか。

たとえきのうと同じ服を着たとしても、
靴下一足でも履き替えるという
基準を保ちましょう。

聖日の礼拝には、自分自身を神様にささげる
供え物として聖別するのです。

聖日を厳しく守られる文先生

文鮮明先生は、聖なる心を神様にささげるために、
聖日の朝食を断食されました。

また、土曜日に体を清潔にされ、
聖日には、きれいに洗濯した下着を着用されました。

教会の草創期、文先生は洋服を一着しか
もっておられませんでしたが、
聖別する儀式においては、
いつも同じ基準を保たれました。

文先生は共産統治下の監獄の中においては、
土曜日の夕食後に配給されるわずかな水を、
監視人の見ていないすきを見計らい口いっぱいにふくみ、
監視が通り過ぎてからタオル(手ぬぐい)にその水をふくませ、
聖日の朝早く、そのタオルで冷水摩擦をされたそうです。

そして、全国で礼拝の行われる時間、
床の上に座られ、祈祷をされたということです。

このように文先生は、いかなる事情、
環境圏にあっても聖日を厳しく守られ、
神様の前に祈祷をささげ、誠を尽くされました。

このような文先生の姿に感動した同じ獄中の人々は、
自然に頭が下がるようになっていたそうです。

外的なことのみに気を奪われたイスラエル

イスラエルの民は、安息日そのものが
聖なるものであると思っていました。

本来、神様は人が聖なる者となるために
安息日を定めたのですが、安息日の根本的な意味を忘れて、
外的なことのみに気を奪われました。

外的な供え物や献金の準備に追われ、
そのため安息日に大切な用事があっても、
それを遂行しませんでした。

人間は心霊基準が下がると、気紛れになりがちです。

七日断食を決意して始めたとしても、
途中で「ああ、御飯が食べたくなった。
いつ断食が終わるかなあ」と思えば、
精神的に断食に失敗したことになります。

マラソン選手が出発前に必ず勝利すると決意したなら、
ゴールインするまでその決意を貫かなければなりません。

たとえスピードが落ちても、
精神的に弱くなってはならないのです。
礼拝を受けることも、マラソン選手と同じです。

動機を忘れないための記念品
ところで、外国から食口たちが韓国に訪れると、
文先生は一人一人に指輪を下さることがあります。

指輪は、「あなたと私は一つである」
という関係を結んでくれるものです。
先生が下さるプレゼントには特別な意味が含まれているのです。

夫婦においても同じです。
夫は妻に、妻は夫に結婚式の際、指輪をはめますが、
その指輪は一生を通じて、初愛の基準の印となるのです。

動機を忘れないために記念品が必要なのです。

文先生から頂いた指輪を朝はめるたびに、
お祈りしながらそれを下さった
先生のみ心を常に考えなければなりません。

私たちのことを憐れみ、さらに覚えてくださった
先生からの記念品ですから、
それを頂いた人は感動せざるを得ないのです。
その指輪は、私たちの心をいつも照らしてくれるのです。

条件を立てて礼拝に参加する

聖日には、下着を着替え、きれいな服を着て
礼拝に参加する習慣をつけましょう。

聖日を名節のように貴く聖なる心で迎えるならば、
貴いものであると感じるようになります。
条件物とはこのように大切なのです。

聖日はみ言を聞いて恵みを受ける日です。

「神様を恋しいと思う心をさらにもてるように
導いてください」と祈るのです。

何の条件もなく、
「神様の息子、娘となれますように」
と祈ってはいけません。
自分自身から先に条件を立てるのです。

聖別された人は、礼拝を大切にし、
神様の前にしかるべき条件を立てて礼拝に参加します。
(『統一世界』一九九〇年九月号より翻訳転載)

17.聖日を守ろう
「清く謙虚な心で」
「聖日を厳しく守られる文先生」
「外的なことのみに気を奪われたイスラエル」
「動機を忘れないための記念品」
「条件を立てて礼拝に参加する」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
一部編集、文責:ten1ko


家庭連合では、キリスト教と同じように
毎週日曜日を聖日として、
欠かさず礼拝を行ってきました。

今回、赴任された教会長は、
特に日曜礼拝に対して、準備して臨むように
毎回、強調されます。

今は、40日原理講義の期間なので、
説教は原理講義ですが、
それでも、備えて臨まれていることを感じます。

そんな中で、ちょうどヨハネ先生のみ言に出会いました。

何よりも、お父様ご自身が、毎回聖日を迎える前に、
内外に準備しておられる姿があったということです。

「礼拝は、神様に出会う場である」
というみ言もあります。

明日、また今後の日曜礼拝を迎える前、
しっかりと精誠を捧げて、
神様と出会っていきたいと思います。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 09:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック