金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「朴正華さんと共に南下」です。
☆
そうこうするうちに、平壌の人たちは
みな避難してしまいました。
ところが先生は、そういう一刻を
争う時であるにもかかわらず、今度は、
「君、これから朴正華さんを連れてきなさい」
と私におっしゃるのです。
それで私が朴さんを訪ねると、朴さんの家族は、
「自分たちの避難に差し支える」と言って、
自転車1台と犬1匹を残して、
先に行ってしまったというのです。
取り残された朴さんは、先生までも
自分を捨てて行ってしまったのではないか
と思って泣いていたのでした。
ところがそのような先生のお気持ちを知って、
あまりのうれしさにどうすることもできないほど喜びました。
早速、彼を自転車に乗せて、先生の所に連れていくと、
先生がその自転車を押していくことをお決めになり、
私はその後から荷物を背負ってついて行きました。
それは雪の降る寒い冬の日でした。
☆
こうして私たちの避難生活は
12月4日から始まりました。
あまりに急いだので、婦人たちを残して男子だけが避難しました。
その時は数日後にはまた帰って来れると思っていたからです。
大きな道は作戦上国連軍が遮断してしまったので、
私たちは山道を行かなければならなくなりました。
中共軍の介入で砲声が耳元に聞こえ、
避難民と国軍がみな下っていったので、
人々の心は非常にあわただしくなりました。
そんな時、坂道を越える前に休んでいると、
朴正華さんが「先生、このままでは私のために
2人共死んでしまいます。
私を残して先に行ってください」と言うのです。
すると先生は、「神のみ旨で因縁をもった私たちは、
死んでも一緒に死ぬし、生きるのも
共に生きなければならない」と言われました。
私たちはその言葉に希望を得て、
再び立ち上がったのでした。
☆
私たちは、黄海道青丹(ファンヘドチョンダン)(海州(ヘヂュ)と
延安(ヨンアン)の間)にある龍媒島(ヨンメド)から
船で仁川(インチョン)に直行するために、
3キロ余の道のりを休まず歩き、
青龍半島南端にある確山里(ファㇰサンリ)村に着いたのは、
早朝2時か3時ぐらいでした。
そこから龍媒島までの400メートルほどの泥道を、
寒い冬、ズボンをまくり上げて、
私は自転車を背負い、先生は朴さんをおぶって渡り始めました。
電気がないため暗く、海の向こうの島の、
綿に油をつけてともしたかすかな灯を目標にして進みました。
満潮になると渡れないので、引き潮の時に渡りましたが、
それでも水が所々にたまり、また砂でなく泥なので滑りやすく、
足が吸い込まれそうで非常に危険でした。
また朴さんはギブスをした足をつっぱっているので、
おぶって歩くのは大変なことでした。
途中で一度でも倒れてしまえば、医師もいないので
治すこともできない、そういう状態の中を、
やっとの思いで渡りました。
☆
しかし、着いてから乗ろうと思っていた船に乗ることができず、
仕方なく再び確山里に戻ることになったのです。
おなかはすき、寒い中を、
また海を渡らなければならないことを思うと、
朴さんも私も非常に心細くなってきました。
すると先生は、それに気付かれて私たちに、
「きょう、私たちを接待してくれる良い貴人に
会うだろう」とおっしゃいました。
その話にとても元気を得て、再び海を渡ったのです。
村に着いた時は、すっかり日が沈み、
一段と寒くなっていました。
☆
ところが、その村を守る人たちが先生を
人民軍の敗残兵と間違って殴りつけてきました。
南韓の軍人は髪が長いのですが、
人民軍は髪を短く切っていたからです。
それで先生は、荷物の中から聖書を出して、
自分は牧師だが刑務所で
髪を切られたのだと説明しました。
村人たちは、先生が本当の牧師で
あるかどうかを知るために、聖書を開いて
聖句の内容をいろいろと尋ねましたが、
先生は聖書を見もしないで、すべて話されたので、
やっと帰してくれました。
途中、道端の明かりを訪ねて戸を叩くと、
若い夫婦が迎えてくれ、
良い部屋と温かい食べ物を用意してくれました。
☆
次の日、私は昨日先生がおっしゃった言葉どおりだ
ということに気付きました。
昨日、私たちは弱い心をもってしまって、
先生に「ご苦労さまでした」と慰めの言葉を
言えなかったので、あのような言葉を
先生に言わせてしまったということを悟ったのです。
その「良い貴人」に会うには会えましたが、
先生が村人たちから殴られたことを考えると、
私たちが受けなければならない鞭を、
先生が代わって受けられたのではないかと思うのです。
このようなことを見る時、すべての恵みは、
先生がその苦難を受けられた代価として
私たちに与えられる、ということを悟るようになりました。
☆
朝は早く起きて食事をとるとそのまま歩き、
日が暮れて方向がつかめなくなると、
どこの家でも構わず入って御飯をつくって食べる
というのが避難の日課でした。
ある時、夜明け前に空家で休むことになり、
御飯をつくるための薪を探したのですが見当たりません。
冬なので乾いた草もなく、その家でも壊さない限り、
木がないので困り果ててさまよっていると、
我知らずその村の共同墓地に着いていました。
ふと見ると両側に木のついたかますの
担架があったので、喜んでその木を引っ張ってきて
火をたき始めました。
ところがその担架はその村の死人を運ぶのに
使われたものだったのです。
先生と朴さんは寒い部屋の中に座っておられたのですが、
先生が部屋の中から戸も開けずに、
私に「何を燃やしているのか」と尋ねられました。
それでわけを話すと、先生は
「どんな木でもすべて燃やすのではないよ」
とおっしゃいました。
先生は部屋の中におられながらも、
不浄な木を燃やしていることを知っておられたのです。
平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「朴正華さんと共に南下」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第六章 興南解放と釜山伝道
「朴正華さんと共に南下」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
戦争の最中、南に下るのも大変なのに、
足の折れた朴正華氏とともに下って行かれたお父様。
この人を背負わずに、人類を救うことができようか。
まさに、朴氏を人類の代表として、
下っていかれたといいます。
また、証しにあるように、
想像を超えるような困難な状況の中であっても、
神様が必死に導いておられ、
貴人に会うなど、すべて準備して
守ってくださったのだと思います。
元弼先生がおっしゃるように、
再臨主、真の父に侍る立場としては、
弟子の方が慰めるべきなのでしょうが、
あのような限界の中では、
ついていくだけでやっとだったに違いありません。
元弼先生がいなければならなかったし、さらに、
足の悪い朴氏がいなければならなかったのでしょう。
元弼先生は、先生をとても助けたに違いないし、
さらに、足でまといに思える朴氏が
いたからこそ、頑張って進むことが
できたのだと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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