2022年12月14日

雪の降る12月、北から南へ、困難な避難の道のり 「今日よい貴人に会うだろう」 《金元弼先生》




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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「朴正華さんと共に南下」です。


そうこうするうちに、平壌の人たちは
みな避難してしまいました。

ところが先生は、そういう一刻を
争う時であるにもかかわらず、今度は、
「君、これから朴正華さんを連れてきなさい」
と私におっしゃるのです。

それで私が朴さんを訪ねると、朴さんの家族は、
「自分たちの避難に差し支える」と言って、
自転車1台と犬1匹を残して、
先に行ってしまったというのです。

取り残された朴さんは、先生までも
自分を捨てて行ってしまったのではないか
と思って泣いていたのでした。

ところがそのような先生のお気持ちを知って、
あまりのうれしさにどうすることもできないほど喜びました。

早速、彼を自転車に乗せて、先生の所に連れていくと、
先生がその自転車を押していくことをお決めになり、
私はその後から荷物を背負ってついて行きました。

それは雪の降る寒い冬の日でした。


こうして私たちの避難生活は
12月4日から始まりました。

あまりに急いだので、婦人たちを残して男子だけが避難しました。
その時は数日後にはまた帰って来れると思っていたからです。

大きな道は作戦上国連軍が遮断してしまったので、
私たちは山道を行かなければならなくなりました。

中共軍の介入で砲声が耳元に聞こえ、
避難民と国軍がみな下っていったので、
人々の心は非常にあわただしくなりました。

そんな時、坂道を越える前に休んでいると、
朴正華さんが「先生、このままでは私のために
2人共死んでしまいます。
私を残して先に行ってください」と言うのです。

すると先生は、「神のみ旨で因縁をもった私たちは、
死んでも一緒に死ぬし、生きるのも
共に生きなければならない」と言われました。

私たちはその言葉に希望を得て、
再び立ち上がったのでした。

 
私たちは、黄海道青丹(ファンヘドチョンダン)(海州(ヘヂュ)
延安(ヨンアン)の間)にある龍媒島(ヨンメド)から
船で仁川(インチョン)に直行するために、
3キロ余の道のりを休まず歩き、
青龍半島南端にある確山里(ファㇰサンリ)村に着いたのは、
早朝2時か3時ぐらいでした。

そこから龍媒島までの400メートルほどの泥道を、
寒い冬、ズボンをまくり上げて、
私は自転車を背負い、先生は朴さんをおぶって渡り始めました。

電気がないため暗く、海の向こうの島の、
綿に油をつけてともしたかすかな灯を目標にして進みました。

満潮になると渡れないので、引き潮の時に渡りましたが、
それでも水が所々にたまり、また砂でなく泥なので滑りやすく、
足が吸い込まれそうで非常に危険でした。

また朴さんはギブスをした足をつっぱっているので、
おぶって歩くのは大変なことでした。

途中で一度でも倒れてしまえば、医師もいないので
治すこともできない、そういう状態の中を、
やっとの思いで渡りました。


しかし、着いてから乗ろうと思っていた船に乗ることができず、
仕方なく再び確山里に戻ることになったのです。

おなかはすき、寒い中を、
また海を渡らなければならないことを思うと、
朴さんも私も非常に心細くなってきました。

すると先生は、それに気付かれて私たちに、
「きょう、私たちを接待してくれる良い貴人に
会うだろう」とおっしゃいました。

その話にとても元気を得て、再び海を渡ったのです。
村に着いた時は、すっかり日が沈み、
一段と寒くなっていました。


ところが、その村を守る人たちが先生を
人民軍の敗残兵と間違って殴りつけてきました。
南韓の軍人は髪が長いのですが、
人民軍は髪を短く切っていたからです。

それで先生は、荷物の中から聖書を出して、
自分は牧師だが刑務所で
髪を切られたのだと説明しました。

村人たちは、先生が本当の牧師で
あるかどうかを知るために、聖書を開いて
聖句の内容をいろいろと尋ねましたが、
先生は聖書を見もしないで、すべて話されたので、
やっと帰してくれました。

途中、道端の明かりを訪ねて戸を叩くと、
若い夫婦が迎えてくれ、
良い部屋と温かい食べ物を用意してくれました。


次の日、私は昨日先生がおっしゃった言葉どおりだ
ということに気付きました。

昨日、私たちは弱い心をもってしまって、
先生に「ご苦労さまでした」と慰めの言葉を
言えなかったので、あのような言葉を
先生に言わせてしまったということを悟ったのです。

その「良い貴人」に会うには会えましたが、
先生が村人たちから殴られたことを考えると、
私たちが受けなければならない鞭を、
先生が代わって受けられたのではないかと思うのです。

このようなことを見る時、すべての恵みは、
先生がその苦難を受けられた代価として
私たちに与えられる、ということを悟るようになりました。

 
朝は早く起きて食事をとるとそのまま歩き、
日が暮れて方向がつかめなくなると、
どこの家でも構わず入って御飯をつくって食べる
というのが避難の日課でした。

ある時、夜明け前に空家で休むことになり、
御飯をつくるための薪を探したのですが見当たりません。
冬なので乾いた草もなく、その家でも壊さない限り、
木がないので困り果ててさまよっていると、
我知らずその村の共同墓地に着いていました。

ふと見ると両側に木のついたかますの
担架があったので、喜んでその木を引っ張ってきて
火をたき始めました。

ところがその担架はその村の死人を運ぶのに
使われたものだったのです。

先生と朴さんは寒い部屋の中に座っておられたのですが、
先生が部屋の中から戸も開けずに、
私に「何を燃やしているのか」と尋ねられました。

それでわけを話すと、先生は
「どんな木でもすべて燃やすのではないよ」
とおっしゃいました。

先生は部屋の中におられながらも、
不浄な木を燃やしていることを知っておられたのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「朴正華さんと共に南下」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


戦争の最中、南に下るのも大変なのに、
足の折れた朴正華氏とともに下って行かれたお父様。

この人を背負わずに、人類を救うことができようか。
まさに、朴氏を人類の代表として、
下っていかれたといいます。

また、証しにあるように、
想像を超えるような困難な状況の中であっても、
神様が必死に導いておられ、
貴人に会うなど、すべて準備して
守ってくださったのだと思います。

元弼先生がおっしゃるように、
再臨主、真の父に侍る立場としては、
弟子の方が慰めるべきなのでしょうが、
あのような限界の中では、
ついていくだけでやっとだったに違いありません。

元弼先生がいなければならなかったし、さらに、
足の悪い朴氏がいなければならなかったのでしょう。

元弼先生は、先生をとても助けたに違いないし、
さらに、足でまといに思える朴氏が
いたからこそ、頑張って進むことが
できたのだと思うのです。






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posted by ten1ko2 at 10:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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