2021年09月18日

(証し)神童、神明が、信仰の道に導かれるまでの軌跡 《神明先生信仰手記 前》



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神明先生のエッセイは以前に紹介しましたが、
先生の導かれた証しを紹介します。
今回は、少年期の証しです。


  UTS(米国統一神学大学院)第二代総長を務めた神明忠昭さんは、
  長年、真の父母様に直接侍る中で、お父様の願いを受けて、
  公的な場で何回か、入教時の証しをしました。
  その内容を紹介します。(文責・編集部)



私は、福島県会津地方の姥堂(うばどう)村という所で、
一九四四年に四人兄弟の三男坊として生まれました。
周りは田んぼが広がる所です。
今は喜多方市に合併されています。

十三代前の先祖が会津藩主・上杉景勝公に仕えた侍でしたが、
一六〇〇年の関ケ原の戦いで豊臣勢にくみして敗戦した後、
侍の身分を捨て、農地を開墾して土着して以来、
名字帯刀を許される庄屋・肝煎り(江戸時代の村役人である地方三役の一つ)
立場でやってきました。
地主だったので、私の祖父と父は学校の教師の仕事をし、
その後は村長になったりしていました。


少年時代に私なりの神体験がありました。
小四の時です。二人の兄は中一と中二でした。

ある冬の日、雪が多く降り、家の屋根にも
たくさん積もったので、二人の兄は祖父に頼まれて、
スコップで屋根の雪を下ろす作業をしました。
それを終えた後、兄たちは祖父から褒められて、
駄賃をもらいました。

私は、二人の兄が駄賃をもらっている現場を、
少し離れた所から偶然に目撃してしまい、嫉妬しました。
私はいつも皿洗いや部屋と廊下の掃除などの手伝いを
誰よりもしていたのに、駄賃など一度ももらったことがなかったからです。

傷ついた私はしばらく悲しみに沈みましたが、
そのうち私の心には、ある考えが生じました。
その考えとは、次に雪がたくさん降れば、
小学生の自分は屋根の雪下ろしは無理でも、
家の周りの道に積もった雪を除く「雪踏み」はできるので、
それをしようということです。

祖父や皆から褒められるためではなく、
それをすること自体が皆のためになり、
良いことだからしようというのです。
そのように思うと、次第に自分の嫉妬心と傷心が
小さくなっていくように感じました。

数日後の早朝、四時頃、起床して外を見ると、
雪が四十センチくらい積もっていました。
私は誰にも気づかれないようにして、
足に「踏み俵」を履いて家の外に出ました。
大人用の踏み俵なので私にとっては、だぶだぶでした。

私の家は屋敷が広いので、東側と西側の村道に通じる
敷地内の道は合計すると百メートル以上はありましたが、
まだ暗がりの朝、雪を踏み締めながら進みました。

そうすると、両脇に雪がかき分けられると同時に、
下にある雪も踏みつけられます。
そのようにして人の歩ける道になるのです。
雪が下に踏みつけられるとき、「キュウ、キュウ」と軽い音が出ますが、
私はその音を聞きながら進む中、このように考えました。

「自分のやっていることは誰からも知られなくていい。
祖父から褒められなくてもいい。駄賃も要らない。
尽くしているという事実は誰も知らなくとも、
その事実は消えずにどこかに覚えられて残ってそれだけでいい」

そのように思うと、私は泣きそうになりました。
誰も聞いてくれないので、それを宙に向かって語りたい気持ちでした。

すると、見よ、何か不思議な力がどこからともなくやってきて、
それによって自分が支えられているのを私は感じたのです。

それで、もっと雪踏みの仕事に打ち込めました。
体は少し汗ばんできて、心は喜びに変わりました。
まだ少しばかり降り続ける冷たい雪が私のほてった顔に当たると、
その喜びはもっと実感されました。

それからだいぶたって、大学生になって入教したときのことです。
あのときに感じた不思議な力が神様の愛であった、ということを知ったのは。


私は、本当は大学に行けない身でした。
大学に行くために通過する普通高校には進学せず、
工業高校に行って早く就職し、親を安心させるように、
と母から懇願されて、工業高校の電気科に進んだのです。

中三のとき、一家の大黒柱であった祖父が
六十五歳の若さで急死したという家庭の事情のためでした。
東京に長期出張していた父に、経済的には頼れませんでした。

それで、私は会津若松市にある会津工業高校に進学しました。
中学時代の同級生の中には、将来大学に進むために
同じ市内の有名な普通高校・会津高校に進学した人が何人かいました。

彼らはさっそうとした姿で通学しました。
しかし私は、同じ通学列車の中でも、独り肩をすくめて
列車の端の方に座り、自分の運命を悲しんでいました。

「ああ、もし普通高校に進んで大学に行けたらな。
彼等に負けないし、誰にも負けないで頑張れるんだがな」
と、ため息をついていたのです。

しかし、これは自分にとって非常にいい体験であったと思います。
なぜならば、それまで期待していた、
普通高校から大学へ行く夢が無残にも破れたので、
人生は自分の思いどおりにはならないということを
十五、六歳の多感なときに強烈に知らされたからです。

後に「原理」を聴いたとき、悠久なる歴史を通して
ご自分の思いどおりにならなかった神様の悲しい事情を知らされて
何時間も泣いたのも、このためであったのではないかと思います。

工業高校電気科では、電気回路の実習だけでなく、
英語、数学、物理、化学、電磁気理論などの全ての科目で、
いつも満点かそれに近い点数を取っていました。

それで、先生がたも驚き、一年生の終わり頃に私の親が学校に呼ばれて、
「おたくの息子さんは絶対に普通高校に進むべきです」と説得されたのです。

(実は、私は中三のとき、福島県主催の高校入学模擬試験では
成績最優秀として、新聞に名前がいつも載っていました)

その結果、工業高校を退学し、心機一転、会津を去り東京に出て、
都立高校(新宿区の戸山高校)を一年遅れて受験して合格し、
そこを通過した後、東大に行くことになりました。

そして、大学で「原理」に出合ったのです。

信仰手記 霊界に導かれて
(「世界家庭」2017.7/P.86〜93)
 米国・ベルベディア教会 神明忠昭(七七七家庭)


原理に出会う前に、神様がすでに導いていておられた・・・
そんなことを感じました。

また、ために生きる素晴らしさも
身をもって実感しておられます。

ご苦労されて東大に入学された
その経緯も神様の心情を味わうための
ご経験であったことを感じます。
やはり、物事のとらえ方が重要だと思います。

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2021年09月15日

「お父様の作戦に引っ掛かっちゃった」私たち夫婦が家庭を持てたワケ 《小山田先生》 



19730809.jpg
祝福家庭の証し会で小山田儀子夫人の
証しを聞かれる真のお父様
(1973年8月9日、東京・代々木公園)


小山田先生の自叙伝。
「一番男らしい女と、女らしい男のカップル」を
真のお父様は気にかけ、配慮されました。

1969年に祝福を受けてから後、家庭をもつまで、
また、そのあとのお話です。


「お父様の作戦に引っ掛かっちゃった」

私にとって、相対者が私を受け入れたことはとても意外でした。
あとで聞いてみると、彼女は
「真のお父様の作戦に引っ掛かっちゃった」と言うのです。

彼女から見れば、私は、それこそ
“頭に浮かぶことのない対象、だったわけです。

最初に私を見た瞬間、 偽善者というイメージだったようです。

彼女の兄と弟の二人は、京都の同志社大学(ミッションスクール)の出身です。
彼女は、その兄弟たちのために一所懸命にアルバイトをしました。
ところが兄と弟はそのお金を、飲み食いに使い込んでいたのです。
それで彼女は、「クリスチャンは偽善者だ」と思っていたわけです。

私が、そのようなクリスチャンの姿とそっくりだったようで、
私を見た瞬間、偽善者、だと思ったというのです。

そして彼女は、「本当のクリスチャンはこんなものではないはず。
本当のクリスチャンに会いたい」と思っていたようです。

彼女がそのように思った背景があります。
彼女の父親は特別高等警察(特高)の刑事でした。
その当時、クリスチャンは米国のスパイのように見られ、
日本では、クリスチャン狩りが行われていました。

義父はクリスチャンの家を一軒一軒調べたのですが、
「キリスト教というのは素晴らしいものだ。
レベルが違う」と思ったようです。

義父が言うことには、「娘たちは嫁に行くのだから、
キリスト教を勉強する必要がない。
息子たちは、それを学ぶ必要がある」。

それで、二人の息子のうち、長男は既に婿養子となっていたので、
次男と三男を同志社大学に送ったというわけです。

義父自身はクリスチャンではありませんが、
仕事のために聖書を勉強していたのです。
のちに私が義父に原理講義をした際、
義父は聖書を暗記していたことがよく分かりました。
それは、信じるためではなく、クリスチャンを捕まえるためでした。


三年遅れて家庭を出発

話を戻しますが、私とのマッチングについて彼女は、
「真のお父様の作戦に引っ掛かった」 と言ったのです。

お父様は彼女に、「晩年になったら、味のある夫婦になる」、
そして「立派な子供が生まれるよ」とおっしゃったそうです。
それがお父様の作戦だったわけです。

お父様からそのような話を聞かされると、否定する道がありません。
相手は”偽善者、ではありますが、
彼女は「イエス」と答えたようです。

四十三双の祝福を受けたほかの先輩家庭たちは、
早々に家庭を出発しましたが、私たちは 違いました。
それから二年遅れたのです。

祝福の後、私が彼女に電話をしても、
彼女は絶対に私と会おうとしませんでした。
私は完全に無視されていました。
皆が家庭をもつなか、私たちは、そのような状況でした。


そのことをどこからか聞いてご存じだった真のお父様は、
「これはよくない」とお思いになったようです。
彼女は、一九七〇年から台湾に渡り、久保木会長のVIP渉外を助ける
という立場で渉外活動に従事することになりました。

久保木会長が台湾に行くたびに、あるいは岸信介先生、
福田赳夫先生、笹川良一先生といったVIPの先生方が訪台すると、
彼女はその接待を担当したのです。
久保木会長の相対圏に立つような立場でした。

彼女のそのような重要な立場から見ると、当時の私は
小僧っ子のようにしか見えなかったというのです。

しかし、彼女が訪台して三年近くなると、
私は夢や幻で、彼女と家庭をもっているようすを、
しばしば見るようになりました。

彼女は台湾で、日本から訪台するVIPだけでなく、
台湾のVIPも接待しました。

蒋経国元総統の弟である蒋緯国*氏にも
「原理」を学んでもらいました。
彼はクリスチャンです。
台湾大学や政治大学の教授など、
台湾の要人にはクリスチャンが多いのです。

「そのようにして、ハイクラスのVIPを渉外する中で、
キリスト教に対する彼女のイメージが、
ずいぶん変わってきたというのです。
三年後、彼女が帰国する頃には、
キリスト教に対する偏見はなくなっていました。

その頃を見計らって真のお父様は、
彼女を韓国の清平に呼ばれました。
お父様は、「キリスト教というのはいいものだろう」
とおっしゃったそうです。

そして、「おまえはいくら強くても、女は女だ。
小山田を愛して立派な子供を生みなさい」とおっしゃり、
彼女は日本に帰国しました。

それから私たちは喧嘩をしなくなりました。
お互いの手の内が見えるようになったからです。
このようにして、先輩家庭に遅れること三年、
私たちは、ようやく家庭を出発しました。

その後、十年近くで五人の子供に恵まれました。
真のお父様は、「最低八人から十二人生みなさい」
とおっしゃっていましたが、そこまではいきませんでした。


「おまえたち夫婦は、愛の研究をよくやりなさい」

四十三双の祝福から、十年、二十年、三十年、四十年がたっても、
真のお父様は、名節のたびごとに、私たち夫婦をご覧になって、
「小山田、儀子、立て!」とおっしゃいました。

そうして妻に、「小山田を愛するようになったか?」
と尋ねてくださるのです。

そのようなスタイルが一種の伝統のようになってしまいました。
私たち夫婦を知らない人でも、「小山田?
ああ、あの夫婦喧嘩で有名な家庭ですね」と知っているのです。

一九八三年、真のお父様がアメリカのボストンで
マグロ釣りの海洋修練を始められたときのことです。
梶栗玄太郎さんと櫻井設雄さんと私の二人が、お父様から呼ばれました。

梶栗さんと櫻井さんは三日で帰りましたが、
私はそれから半年間、訓練を受けたのです。
すると妻は、「(夫婦で)喧嘩をするから、とうとう夫は、
アメリカに人事になったのではないか?」 と思ったようです。

そして、久保木哲子夫人と私の妻が、お父様から呼ばれて渡米し、
四十日間滞在して帰国しました。

彼女たちが帰国した後に、お父様はイーストガーデンの朝食の場で、
「儀子を帰してすまんな」 と言われました。
「小山田、おまえたち夫婦は、
これから愛の研究をよくやりなさい」とおっしゃったのです。

そのみ言の中に、「夫婦愛の芸術化、美術化」
という内容があるわけです。
そして、いわゆる愛の王宮、生命の王宮、血統の王宮という内容です。

自叙伝「真の父母様の御跡を慕って」
小山田秀生
第三章 永遠の相対者と出会う
*蒋経国元総統は、蒋介石の長男
蒋緯国氏は次男(実子ではない?)


お父様は祝福を貴く思われると同時に、
祝福を授けた家庭に対し、
多くの愛と関心を持っておられる、と感じます。

小山田先生ご夫妻に対しても、
多くの期待と関心、そして
立派な家庭になるよう願っておられたのでしょう。

マッチングのときの会話も
お父様の作戦でしたが、
奥様が台湾で訓練され、クリスチャンに対して、
意識が変わったのも、天のご計画であり、
間違いなくお父様の作戦勝ちでした。

「本物のクリスチャンに会いたい」
と思っていた奥様は、「偽善者」だと思っていた小山田先生と
まさに本当の出会いをされたのだ、と思います。





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2021年09月08日

「いちばん男らしい女と、女らしい男」想定外のカップル誕生! 《小山田先生》 



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1969.5.1


小山田先生の自叙伝、
今回は、「天に祝福された日」と
「 想定外のマッチング 」です。

第三章 永遠の相対者と出会う
天に祝福された日

1969年4月18日、真の父母様が、この年二度目の来日をされました。
そして5月1日、東京・渋谷の松濤本部で、43双のうち、
日本における22双の祝福式が挙行され ました。

世界10ヵ国から成る43双は、
1968年の韓国における430双の相対圏に立つ立場 です。

同年2月28日、初めに米国で13双が祝福され、
3月28日にヨーロッパ(ドイツ)で8双が祝福されたあと、
日本で12双の祝福と10双の既成家庭、
合わせて22双が祝福されたのです。

来日された真のお父様はしばしば旅行に行かれるのですが、
そのときは、東京・調布市の深大寺の近くにある
蕎麦屋に私たちを連れて行ってくださいました。
お父様と一緒に蕎麦を食べたことが強く印象に残っています。


その数日前から12双の祝福対象者が決められていました。
真の父母様によって、初めに12人の女性候補者が決められたのです。

そして、松濤本部二階の通称「グリーンベルト」で、
その女性候補者たちに証しをさせられたのです。

私は他の姉妹たちの証しは覚えていませんが、
のちに私の相対者になる岸本儀子(のりこ)さんの話だけは、
はっきりと覚えていました。
「私が責任をもたなければならない」と感じたのです。

「そのときの男性候補者については当初、
久保木修己初代会長から、
「今回は男性は30歳以上が対象に入る。
それ以外の者は次だ」と聞いていました。

そのとき、私は27歳でしたので、
その候補に入っていませんでした。


カープ会長と学生部長を兼務していた私は、その日、
富士五湖(山梨県)の山中湖にある大学のセミナーハウスで、
セミナーの開講式で講義をすることになっていたので、
久保木会長の許可を得て出かけました。

新宿から富士五湖まで高速バスで約三時間かかりますが、
そのときの印象がとても良かったのです。
好感のもてるバスガイドに加えて、車窓の景色を見ながら、
「こんなにも自然は美しいのか」と思いました。

透き通るような快晴の空の下、山頂に雪を戴く
富士山は正に霊峰と呼ぶにふさわしい姿でした。
その日は、霊界の協助を受け、恵まれた日だと実感したのです。

セミナーハウスまでの富士五湖を回っていくと、
広大な樹海に、少し赤く、うつむき加減に咲く
オトメザクラが目に留まりました。

私は、「きょうの日を天が祝福しているなあ」
と強く実感しました。


想定外のマッチング

そこでの講義を終えて、私が新宿に戻ったのは
午後4時過ぎでした。

そのとき、「ちょっと時間があるな。
映画でも観て帰ろうか」と思ってそのように
行動していたならば、私は、
43双の祝福を受けられなかったと思います。

私は「祝福のために、先輩たちが深刻になっているだろう。
後学のために帰ろう」と思い、 松濤本部に戻りました。
そして二階の礼拝堂に行くと、先輩の男性たち
二、三十人が深刻な顔で待機していました。

驚いたことに、30歳以下の櫻井設雄さん、
井上忠之さんがマッチングを受けていたのです。
「あれ?」と思いながら礼拝堂に行ってみると、中は人でいっぱいでした。

そこで、近くにある別の館で「夕食でも頂こうかな」と思っていると、
突然、松本道子ママが訪ねてきて、
「小山田さんは、いるか?」と私を呼ぶのです。

そのときは、まさか天が私を祝福の対象者にされるとは
思いもしませんでした。

私には、かねてより「海外宣教に出たい」という夢があり、
以前、そのことを久保木会長にお願いしていたので、
私は一瞬、「その回答かな」と思ったのです。


そして会長室を訪ねてみると、そこには真のお父様をはじめ、
劉孝元先生、崔元福先生、 久保木会長が座っておられました。

お父様は、「今回(祝福を)受けなければ、
次に受けてもいいんだよ」とおっしゃいました。

私がお父様に、「み意のままに」と申し上げると、
お父様は「み意が聞いているんだ」とおっしゃったのです。

そのときは、祝福の相手として希望する
候補者の名前を5人挙げよということでした。
それで私は、思いつくまま、年齢順に対象者となる
5人の女性の名前を書いたのです。

するとお父様は、「おまえ、やる気がないんだろう」
とおっしゃったのです。

その当時、クリスチャン出身の私にとって、
「いかに原罪を脱ぐか」ということが最も深刻な課題でした。

私は、「地上では目をつぶり、霊界で天国に最後に入る道に
行くことができればよい」というようなキリスト教的な観点で
祝福を考えていたので、祝福の相手については、
「誰でもよい。たとえ、どんなおばあさんでも構わない」
と思っていたのです。

それで、ただ年齢順に5人の女性候補者の名前を書き出したのです。
その中に「岸本儀子」の名前がありました。


お父様は消去法的にご覧になったうえで、
「おまえ、なんでこの女性を選んだ?」と尋ねられました。

理由は特にありません。私は思いつくまま、
「(彼女は)私のもっていないものを全部もっています」と申し上げました。

するとお父様は、「それはそうだ。
本人が『イエス』と言うかどうかが問題だ」とおっしゃったのです。
そして、「ちょっと待っとれ」と言われたので、
私は部屋の外に出て待ちました。

そのとき私が思ったことは、「果たして彼女が
『イエス』と言うかどうか。断られたら癪に障るなあ」
と、正直その程度でした。

ところが、彼女が「オーケー」したことでマッチングが成立したのです。
私は「意外なことが起こるなあ」と思いました。


お父様はにこにこして、わざわざ玄関まで
私たちを見送りに来てくださいました。

あとで聞いた話ですが、お父様が
「時間がかかったけれど、決まって良かったね」とおっしゃったそうです。

真の父母様は、一組一組のカップリングをされるのに、
本当にご苦労されたようです。
特に私たちの場合はそうでした。

のちに真のお父様に呼ばれた際、お父様は
「いちばん男らしい女と、女らしい男とを合わせた。
だから三年間は喧嘩をするだろう」と、はっきりおっしゃいました。

その予言は的中することになります。



「み意が聞いているんだ」という件(くだり)は、
なんとも微笑ましいエピソードですね。。。

「どんなおばあさんでも構わない」
と完全に委ねておられたので、
お父様も小山田先生が決めるように、
指示をされたのだと思います。

「男らしい女と、女らしい男」のカップル、
お父様も思ったことをズバリと表現されますが、
その後のお話は、次回のお楽しみに。。。





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