2022年06月29日

独生女を叫ぶとサタンの不可侵圏ができる! キリストと出会った幸運 《入山部長》



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入山部長のみ言。
「キリストに出会った奇跡」
を一部抜粋して紹介します。
『創造原理と聖霊』です。


聖霊に関する真のお父様のみ言です。

「聖霊とは何ですか?
 聖霊は聖霊なのですね。

 ハトのような聖霊、水のような聖霊、
 油のような聖霊、そう言っているのですが、
 くだらないことをよく言っています。

 それで、何の神様ですか?
 母の神様なのです。
 母の神様。

 この母の神様が、霊的に基盤を築いて
 実体の体をもって来られる主と
 実体で互いに会うことのできる時が、
 まさしく小羊の宴をする時なのです」
『宗族的メシヤ』70~71ページ



小山田秀生・神日本元老牧会者会会長(43双)は
次のように説明しています。

「聖霊とは、イエスが肉体をもって完成したときに、
 イエスの妻の立場に立って神の理想を実現する人に入る神の霊です。
 母の霊、妻の霊です。

 ところが、イエスが十字架にかかって亡くなったため に、
 形を持たない母の霊、妻の霊となりました。
 ですから 『助け主、慰め主、贖い主なる聖霊』というのです。

 人間の堕落を見ると、エバが動機となりました。
 それを償うために、聖霊は神の方向に
 信仰を持たせる母親の役割をするのです。

 ですから、聖書は、イエスを信じても
 聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』
 と言うことができないと言っています。

 聖霊の働きによってイエスにとりなしをしてもらい、
 神との間をとりなしてもらうのです。
 それで聖霊が地上のキリスト教を全部担当し、
 イエスは神の身代わりとして霊界を動かしていきます。

 これが教会におけるイエスと聖霊の関係です」



このように、聖霊とは「母なる神」です。
神様の創造理想の中にあった母の位置、
それが実体化した女性こそが聖霊です。

しかし、エバが堕落したため、
その位置は空席となりました。

その位置に立つべきだったのが
イエス様の相対者として準備された女性でしたが、
悲しいことに実体を迎えられず、
そのまま空席となっていたのです。

ですから、復帰摂理歴史とは
「聖霊の実体」を探し求めた歴史とも言えます。
これは、神の創造原理を知らなければ分からないので、
堕落人間には聖霊が理解できなかったのです。


しかし今、私たちは、はっきりと知っています。
現代は、聖霊の実体である韓鶴子・
真のお母様が顕現された奇跡の時代なのです。

真のお母様が、「私が独り娘だ」と宣言されると、
「お母様を特別視する言葉だ」
と言って騒ぐ人たちがいました。

しかし、原理的に考えてみれば、答えは明白です。
あまりに騒ぐので、私はむしろ、
「サタンがいちばん恐れる言葉なんだな」と思いまし た。
「独り娘」と叫べば、サタンが退くのです。


ところで、皆さんは自分の口で何回くらい、何人に、
「韓鶴子・真のお母様こそ聖霊の実体であり、独り娘である」
と宣布したことがあるでしょうか?
意外とないのではありませんか?

地域集会 という「場」づくりをしている目的は、
その宣布のためです。

教会や地域集会、家庭で
「韓鶴子・真のお母様こそ独り娘である」
と大反響させれば、そこにサタン不可侵圏が生まれ、
良いことがたくさん起こってくるでしょう。

真のお母様は「真の父母」であり「キリスト」なのです。
私たちは今、そのお母様と共に歩んでいます。

どれほど感謝なことでしょうか。
どれほど奇跡的なことでしょうか。
私たちは生きてキリストに出会った幸運な者たちなのです。

冒頭のみ言のように、
人類はその方を探し求めてさまよってきたのであり、
その方が私たちの信仰の目的であり、
希望の目的であり、愛の目的なのです。

伝道局副局長 入山聖基
地域化礼拝シリーズ
第7回「キリストに出会った奇跡」
世界家庭2021年6月号



神様が準備していた母の霊。
本来ならばエバに宿るべきものでしたが、
エバが堕落したために、
メシヤの相対に準備しました。

しかし、イエス様は真の父母になれなかったので、
その霊が真のお母様に宿られた、というのです。

【「韓鶴子・真のお母様こそ独り娘である」
と大反響させれば、そこにサタン不可侵圏が生まれ、
良いことがたくさん起こってくる・・・】

いわゆる「真のお母様と一つになる」
このことによって、奇跡が起きる、ということだと思います。

私は、このことを確信し、一つになろうと思っている者の一人です。

毎日、毎分、毎秒、証ししていきたいし、
宣布しながら、ともにある者になっていきたいと思うのです。


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2022年06月20日

同じ世界を体験したら誰も批判できない 14人の出産と産後 《鄭中和先生》3



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鄭中和(チョン ヂュンファ)先生の証し
「真のお母様にお仕えして」続編、
御聖婚された真のお母様は──


真のご子女様のご出産

その後、真のお母様は、すぐに身ごもられました。

そして、そこで譽進様を出産され、それでお父様も、
そのお宅との間を行ったり来たりされ、
お母様も礼拝を受けに来られたりされながら、
そのようにして1年間を生活されたと思います。


そのころの記憶ですが、真のお父様は、
出産に対して大変に厳しく指導されました。

私たち36家庭のときも、
「妊娠中には、悪いものを見てはいけない。」とか、
「病気見舞いにも行ってはいけない」
「喪中の家にも行ってはいけない」
「汚いものを見てはいけない」などと、心構えを正しくして、
良いことだけを考えるようにおっしゃいました。

そして、出産も病院でするのではありません。

「この既存の世の中の医者や、助産婦の所に
行くのではなく、家をきれいにして、そこで、
私たち食口が赤ん坊を取り上げなければならない」
と、おっしゃったのです。

ですから、お母様も同じでしょう。


お母様も、初産のときには、とても苦労をされました。

譽進様は大きかったのですが、
「病院にも行ってはいけない」
と、お父様がおっしゃったので、
家で出産されたのです。

そのとき、折よく、助産婦であった
金信旭先生がいらっしゃいました。

そのかたは、霊的にも明るく、
信仰も本当に素晴らしいかたでありましたが、
その金信旭先生が、真のご子女様の
ほとんどを取り上げられました。*

真のお母様は、そのようにして
病院にも行かれずに出産なさったので、
現代医学の恵沢をお受けになることができなかったのです。


そして、ご出産のときは、
私たちは皆、礼服を着て、外で精誠を尽くすのです。

お生まれになる真のご子女様をお迎えするために、
特別な儀式をしながら、その部屋の外でお待ちしたのです。

これは余談ですが、私たちは、
『初産は、間違いなく男のお子様であられる』
と、思っていました。

ですから、36家庭の古い食口たちは、お母様が出産なさる、
その部屋の近くに集まって精誠を尽くし、
一般の食口たちは、前本部教会で、
お母様の出産の苦痛を共に感じながら祈祷をし、
また、朴普煕会長が、大きなケーキを準備して、
「王子様が来られる」と、飾っていたのです。

ところが、女のお子様でいらっしゃったのです。

けれども、そのころからお父様は、お母様に
「12人の子女を生まなければならない」
と、おっしゃっていました。

ですから、王子様であられても、王女様であられても、
このように早くご懐妊することができてお生みになり、
お子様が本当に健康であられたので、
喜びの思いのほうが、大きかったことでしょう。


しかし、当時の困難な環境の中でのご出産について、
真のお母様は、後に回想されながら、
「非常につらかった」と、言われたことがありました。

不十分な医療環境以外にも、生活環境は、
あまり良くありませんでした。
韓国の家は、すきま風が多く、
そのころは、暖房施設もよく整っていなかったのです。

譽進様がお生まれになったのは、12月の寒い冬でした。
とても寒く、そのときは、暖房部屋といっても、
練炭で暖を取っていた時であり、また、ストーブも、
灯油ではなく、練炭ストーブであったのです。

それで、お母様が産後の健康回復をされるまでには、
多くの時間がかかりました。

お母様は、本当に苦労されたのです。


孝進様を出産なさるときにも、本当に苦労されました。

マリアが、イエス様を馬小屋で、
それも、かいばおけに産んだとされているように、
真のお母様にもお部屋がなかったのです。

お父様のお部屋は、前本部教会の2階にありましたが、
その部屋は、オンドル部屋ではなく、畳部屋にベッドでした。

けれども、お母様が出産される部屋は、
オンドルでなくてはならないので、トイレの横にある、
台所の横の小さな畳四畳にもなるかならないかの部屋を、
急いでオンドル部屋に改造したのです。

そこは、窓といっても、日の光がわずかに入ってくる窓が
高い所にあるだけで、日光もよく入って来ない部屋でした。
ちょうど地下室のような暗い部屋だったのです。

それでも、孝進様のご出産のときは、
譽進様のときよりも、少し安産でした。


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真のお母様は、非常に忍耐心が強く、
感情的な表現もなさいません。

真のお母様は、どのようにして、
真のお母様の位置と、
真のお母様としての威信等を
立てることを身に着けられたのでしょうか?

大母様が、信仰の正道を歩まれたかたであり、
そのお嬢様であられるからといって、
真のお母様が、その学生時代に、
大母様からまめまめしい家庭教育を
受けられたということでもないのです。

大母様は、いつも伝道や奉仕に出掛けておられましたし、
お母様は、寄宿舎や、また、叔父様の家から学校に通われて、
実際は寂しく成長されたのです。


そうであられたにもかかわらず、真のお母様は、
たくましく、雄々しくあられました。

私たちは、真のお母様に絶対的に侍る立場にいましたが、
私たちよりも、もっと上の世代の婦人たちの中には、
そうではなかった人たちもいました。

しかし、それらを見事に消化され、
その位置を守られたのです。
そのお姿を拝見して、私たちは、とてもすごいと思いました。


今でも、お父様は、そのことについてのみ言を語られますが、
「最も難しかったことは、真のお母様を、
神様が願われる真のお母様として成長させることであった」
と、おっしゃいます。

私たちは、一つひとつの出来事を何気なく見ていましたが、
お父様がごらんになるときには、すべてのことにおいて、
真のお母様を“完成した母”になるように育てられ、
教育されなければなりませんでした。

「証言」より
*自叙伝「平和の母」によれば
5人目まで青波洞(チョンパドン)教会で
出産し、6人目からは
病院で産まれたということです。


お母様が最初の御子女様をご出産される時、
多くの困難があったということですが、
鄭中和先生の語られたごとく、
イエス様の誕生時の蕩減復帰であり、
また、初めての真の子女様の誕生なので、
内外共の試練があったのだと思います。

お母様が忍耐して越えてこられた心情は、
普通の人にはまねをすることができないものでした。

ある責任者の方が、
「お母様のことを批判するなら、
お母様と同じような世界を体験して、
それを乗り越えてから言ってほしい」
そのようなことを話しておられましたが、
本当に知ったら批判はできないでしょう。

現在多くの偉業を成し遂げて
さらにまだ止まることなく
反対する人たちも含め、すべての人たちのために
犠牲の道を行ってくださっている
お母様に、心から感謝申し上げます。

一言付け加えたいと思います。
「神様が願われる真のお母様として成長させる」
とお父様が語られた、とあります。

お父様が育てられたかのような表現ですが、
お母様が真の母として立つために、
お父様ご自身も、助けることができなかった
と、のちにお父様が語られています。

実際には、お母様は、
初臨の創造本然のエバであります。
そのお母様を育て、成長させるというのは、
誰にもできないことであり、
お父様も、祈って見守ってあげるしか
できなかったことでしょう。

お母様の自叙伝にもありますように、
実際には、お母様ご自身が真の母として勝利していく、
そのような使命があったのだ、
そのことは、付け加えさせていただきたいと思います。

続きます。



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2022年06月10日

(証し)子羊の婚宴、ご聖婚 そして人類の母の受難が始まった!! 《鄭中和先生》



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鄭中和*(チョン ヂュンファ)先生の証し
「真のお母様にお仕えして」
続編です。


式は最初、西洋式で行われ、それから韓国服を召されて、
伝統的な式で行われました。
1960年、陰暦の3月16日のことです。

ご聖婚式のとき、玄関を入って、
その左側に舞台を一つ造りました。

そのようにすれば、礼拝堂があり、畳部屋があり、
その次にさらにオンドル部屋があるので、
居間からそこまで歩まれる道が、少し長くなるのです。

そのようにして、入場されるときの道を長くするために、
そこに舞台を設けて、聖婚式が行われました。

真のお母様がベールをかぶられ、(そのあと)
お父様が紗帽と冠帯を身に着けられ、
お母様が冠をかぶられて、式が行われました。
私たちは、それを近くから見守りました。


また、その舞台で、
真のご父母様はお食事も取られました。

「小羊の婚宴」が行われた日、私がいちばん初めに、
真のご父母様に食膳をおささげしたのです。
それが、私が誇らしく思っていることです。


そのご聖婚式の日に、真のお母様が
何かみ言を語られたというようなことはなく、
真のお父様が非常に喜ばれて、
踊りを踊られたことを覚えています。

その日は、今日、名節などの記念行事を行うときのように、
40種類くらいの祝典の供え物が、
高さ70センチくらいに、盛大に調えられました。


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そのときの真のお母様のお年は、
(数えで)17歳でした。

私たちのだれよりも、お年がお若くて
いらっしゃるにもかかわらず、
『私たちよりも幼いお母様でいらっしゃる』とは、
感じられませんでした。
そのような思いすらも浮かばなかったのです。


『自分が、真のお父様の相対として
選ばれるかもしれない』という感情は、
当時のすべての女性たちが
持っていたのではないかと思います。

けれども、復帰摂理の観点から見て、
真のお父様が、「それは、10代である。」
とおっしゃっていましたので、
私のように、梨大から退学処分を受けた
10数人の者たちで作っていた「明圓会」の会員たちは、
『それは、自分たちではない』と、分かっていました。

ところが、かえって中年や老年の女性食口の中に、
「啓示を受けた」と言って、
夫や子供がいるにもかかわらず、
「自分が真のお父様の相対である」と言って、
さまざまに物議を醸す人たちがいました。

実際に、真のご父母様がご聖婚式を終えられてからも、
そのようなことがありました。


真のお母様におかれては、心労も多く、
相当に難しい状況であったことと思います。
それをお母様は、お若いお年であられたにもかかわらず、
すべて克服していかれたのです。

その背後では、洪順愛大母様が、陰で多くの
信仰的な説明をしてくださったはずであり、
また、お父様も原理的に
説明をしてくださったことと思います。

しかし、心では『原則がそうである』
ということは分かりながらも、
現実として、実際に多くの困難な状況にぶつかるので、
さまざまに大変であったことでしょう。

それで、人知れず、涙も多く流されたと思います。


ですから、その当時、お父様は、
お母様のお部屋を外に定められました。

前本部教会の近くに、36家庭の金寅哲
というかたの家が一軒ありました。
それで、そこの居間を整えて、
お母様は、そこに行っていらっしゃったのです。

お父様のさまざまなみ言によれば、私たちのために、
食口たちのために、また、お母様のために、
「離れていらっしゃるほうがよい」
と、おっしゃいました。

それはどういうことかというと、
今まで、すべての男女の食口が、
お父様だけを見詰めていたのですが、
今やお母様がいらっしゃるので、今までとは違って、
いろいろな難しい問題が起こりやすいということなのです。

真のお母様がいらっしゃるにもかかわらず、
部屋まで押しかけてくる女性たちがいたのですから、
そのようなことを避けるためにも、また、
お母様の安全と保護を図るためにも、
そのようにされたのです。

そのお宅までは、歩いて10分間にもならない距離でした。
前本部教会から現在の青坡洞の本部教会までの、
その中間にありました。



このようなエピソードは、
多くの皆様はご存じかと思います。

聖婚式を挙げられたあと、
お母様は、お父様とは一緒に住むこともなく
食口の家の一室を間借りして生活をしておられた。。。

そして教会に行くときにも
目立たないように裏口からそっと入るように言われ、
また、お母様である大母様とも人前で会話をしないように
言われていたといいます。

主の花嫁という立場は素晴らしく感じますが、
甘い新婚生活とは程遠く、
夫も母も助けてくれない、
まさしく神様しかいない生活であったと思うのです。

「お父様も原理的に説明をしてくださったことと思います」
鄭中和先生は、このように語られていますが、
実際には、お父様は何も言われなかったと、
自ら語られています。

よく、お母様を批判する人たちが、
「私一人で越えてきた、というが、
そこには、お父様もいたのだ。
だから、二人で越えてきた、と言うべきだ」
そのように言いますが、それは違うようです。

お父様も一人で乗り越えて行かなければならなかったし、
お母様も一人で乗り越えて行かなければならない
道があったといいます。

そして、真の父母様として、
お二人で乗り越えてこられた道もあったのでしょう。

誰が真の父母の道を本当に理解できるでしょうか。
同じ道をたどってみなければ、
実際わかったとは言えません。

今回の証しの試練は、お母様が、
真の母として、勝利するための
道のりだったのです。

続きます。



*鄭中和(チョン ヂュンファ)先生は、
お父様からお名前を頂き
大和から中和と改名されています。


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