2022年06月04日

変わらない心情で! 韓国のお父様のお側で療養 《松本ママ奮戦記》完



220604.jpg


日本家庭連合の初穂、
私たちの信仰の母である、松本ママの証し、
今日で最後になります。


「統一原理」を知ってから十数年、疲れを知らず、
あらゆる困難を信仰で乗り切ってきましたが、
1973年1月6日水垢離(みずごり)のあとで
とうとう倒れてしまいました。

無理を重ねてきたので疲れがたまっていたこともありますが、
私は遺伝的に心臓が弱かったのです。
それは、倒れるまで自分でも知らずにいたことでした。

若いころに、肺を病んで医者から6カ月の安静を言い渡された時、
「統一原理」を聴いて“これで死ぬなら死んでもいい”
という気持ちで、病気を省みず神様のために働いてきました。

ところが、無理をしたら死ぬと言われたにもかかわらず、
十何年たっても死にもせず生きているものですから、
それ以来、少々の病気は信仰で克服できると確信してきました。

ですから、体がだるく頭ががんがん痛くても、
病院に行くなど思いもつかないことだったのです。

そして、病気になるのは自分がたるんでいるからだ、
自分が怠けているんだと自分自身を責め、
痛がっている肉体の訴えを否定して、
ただひたすら心を神様の方へ引っ張っていこうとしていました。

けれども実際は、血圧が上がっているために
頭痛やだるさが出ていたのです。
それを知らず、寒い時に水垢離などしたものですから、
脳血栓(のうけっせん)になって倒れてしまったのでした。

手が上がらなくなり、
「乱れた格好で倒れるのはいやですから、
ガウンを着せて縛ってください」
と言ったきり意識を失ってしまいました。

板橋病院に運ばれ、脊髄(せきずい)に注射をして
やっと意識が戻ったのですが、もしこの時
意識が戻らなかったらもうだめだったそうです。


退院してからも左の足はしびれていました。
ちょうどそのころ、アメリカにずっとおられた文先生が、
韓国に帰られる途中、日本に立ち寄られました。

そして「今まで無理してきたからね」と言って、
一緒に韓国に連れていって一室を与えてくださり、
先生の食事係の人が私のために、
野菜食を作って食事療法をしてくれたのです。

そうして約半年間先生のそばで治療して日本に帰ってきました。
こうして食事療法と信仰と天の愛によって、
左足をひきずりながらも何とか動けるようになったのです。

(その後、アメリカにおける3つの大会に参加し
*前回の記事参照 勝利をこの目で見た際の)
この喜びは私の体にいい影響を与え、
血の循環も良くなって、目に見えて快復していきました。

ところが、私はとても行動的な性格の人間なので、
何か考えたり感じたりすると、
すぐ行動に移さずにはいられません。
それでつい無理をしてしまうのです。

そこで、月に一度、私の体に合うという
大陸の気候を求めて、ソウルに静養に行くことにしました。

いつも限界ぎりぎりまで動いてしまい、
全身が痛くても息絶え絶えに飛行機に乗るのですが、
飛行機が金浦(キムポ)空港に降りるやいなや、
金魚が汚れた水から清い水に移った時のように
気持ちが良くなり、生き返った心地がするのです。

そうして医者の言うとおりに食事療法をしながら、
神様の願いに生きようとひたすら努力してきました。

 
私は神様の命令がある時は、たいてい前もって分かります。
ですから、いつでも備えをして待っています。

そして、私は私なりに、自分の手腕、自分の方法で
神様のみ旨をやっていきたいと思うのです。

今私は六十五歳ですから社交伝道を心掛けています。
伝道でも何でも若い人には絶対負けたくありませんし、
いつでも模範を示していきたいと思います。


今までの私の歩みを振り返ってみると、
苦労も喜びもいろいろありましたが、
天命に対してはどこまでも従順に、
変わらない心情で歩んできました。

長い信仰生活の間には、人間ですから強い時もあれば、
調子の悪い時、たるむ時もあります。
必ず強弱があるはずです。
一番大切なことは、初めから終わりまで変わらない心情です。

変わらない心情をもっていれば、
絶対にこの道から外れることはありません。
いえ、できないのです。

天のお父様の摂理や悲しい心情を
この心と体で知ってしまった以上、
どうしてこの道から離れることができるでしょうか。

死んでも離れることはできません。
たとえ体が動かなくなっても、祈りだけはしよう、
こういう心情できょうまで歩んできました。

 
1980年4月、先生が還暦を迎えられたので
私は独りでアメリカに行ってきました。

先生はとても喜んでくださり、
ぐっすり(ゆっくり?)休んで行きなさいと言ってくださいました。
その後ソウルでお会いした時にも同じことを言われました。

けれども私は、3日休んだら10日ぐらい休んだような、
1週間休んだら1カ月休んだような気がして、
兄弟たちが一生懸命働いているのに、
私がこんなことをしていていいんだろうか、
救いを求めている人がたくさんいるのに……
という気持ちになってくるのです。


文先生を見てください。

先生は天啓を受けてから還暦を迎えるきょうまで、
一片の個人的楽しみもなく、
食べることも眠ることもしないで、
天より与えられた使命をいかに成そうかと心を砕き、
私たちの救いのために血と汗と涙を流してこられたのです。

その天の願いを完成するまでは、
60歳になっても休むことができないのです。
鉄の意志力をもって、今もなお
先頭に立って働き続けているのです。

罪汚れた私たちを「統一原理」によって復活させ、
手をとり足をとって導き新しく生まれ変わらせてくださった先生。

日本で伝道された青年たちが、アメリカをはじめ
世界の各地で活躍している姿を見る時、
神の国への希望がわいてくるのです。

これからは若い皆さんの時代です。
天の願いに向かってまっすぐ進んでいる
先生の道を自分のものとして、
一歩一歩着実に歩いていこうではありませんか。

先生の御恩に報いるために、私も自分の責任は
最後まで果たして死にたいという意気込みで、
力の限りを尽くしています。

(完)

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「世界に広がる救いの輪」

信仰は火と燃えて 17
世界に広がる救いの輪
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=14060
(blessed lifeより)


好評のうちに連載してきた
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』は、
1981年頃語られたものをもとに、
聖和後に出版されたのだと思います。

その本には、西川(崔奉春)先生がお言葉を
寄せておられますので、また紹介いたします。

肉体の限界を超え、神様を愛し、
み旨の最前線を貫き通された松本ママ。
まるで火の玉のような人生でした。

神様はよくぞこのような義人を
草創期に導かれるよう、
準備してくださったと思います。

日本家庭連合の発展は、
松本ママなくしてはあり得ませんでした。

松本ママ、今まで貴重な証しをありがとうございました。
決して同じような基準で歩むことはできませんが、
心情を相続して頑張っていきます。

霊界で私たちの歩みを見守ってくださり、
(足りないところだらけでしょうが)
叱咤激励をお願いいたします。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


松本道子(1916〜2003)
日本の女性の初穂として開拓伝道などで大きな業績を残す
1960年4月 入教 紹介者 崔奉春宣教師
1960年8月16日 増田勝氏と共にUC初の40日開拓伝道
1967年6月17日 日本統一教会本部の三役事として松本道子さん、金成治子さん、林信子さんが決定。
 み言「三人の役事は一つの心となって日本の中心である久保木会長を助け、そのために天に祈り、何事においても四位基台を造成して相談しながら御旨に従事しなければならない」
1968年5月11日 宝塚に「重生祈祷院」開設。山路みち子さん、熱海房子さん、佐藤初子さんら重生祈祷院開設の際に、松本道子役事が10日間の断食精誠祈祷を捧げる
1998年12月8日 特別天地祝福式(大母様)第1次独身祝福者霊・肉界祝福式を受ける(千葉ポートアリーナ)
2001年11月12日 真のお母様が本部教会を訪問され、松本道子さんを慰労される
2003年10月25日9時45分 入院先の一心病院で87歳で聖和

  

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


2022年05月31日

3万(+2万)名 マディソン・スクェア・ガーデン、真のお父様の目には涙が! 《松本ママ奮戦記》



220531-46moon_web_Sept. 18, 1974 at New YorkÃ-s Madison Square Garden.jpg
NY マディソン・スクェア・ガーデン大会 1974.9.18


松本ママ奮戦記『信仰は火と燃えて』は、
いよいよ終わりに近づきました。
最終話の「世界に広がる救いの輪」を
2回に分けて紹介します。


1974年アメリカのマディソン・スクェア・ガーデンで、
先生の大講演会が開かれました。

(1973年に脳血栓で倒れたのですが、なんとか回復し)
この時にはまだびっこをひいていましたが、
私はどうしても先生の講演を聴きに行きたくて、
「なんとかしてほしい」と懇願すると、
本部の人たちが奔走して、春日千鶴子さんを
付き添いにつけてアメリカに行くことが
できるようにしてくれたのです。

当日は、2万人もの人が入りきれずに場外にあふれ、
大変な混雑でした。

その中で、二列目のスペシャル席で西川先生と
並んで座らせていただき、胸をわくわくさせて
文先生が出てこられるのを待っていました。


(ひとみ)をじっとこらして先生の顔を見上げると、
その目にはなんと涙があふれているではありませんか。

その涙を見ると、これまで先生が歩んでこられた
険しい涙の道が、走馬燈のように浮かんできました。

16歳のときに天の啓示を受けてから、
生きて十字架の道を歩いてこられたのです。

涙と汗と血を流し、神様のみ旨のために
歩んでこられた先生は、韓国、日本に土台を築き、
ついに現代のローマであるアメリカヘと渡られたのです。

そして、苦労に苦労を重ねてアメリカの人々を伝道し、
その土台の上でこの日、3万人の聴衆を前にして
講演をするまでになったのでした。


この大会は、50州を講演して回った
最後の締めくくりとしての大会でした。

韓国でお会いした先生は、
本当にかわいそうなお父さんでした。

ところが、今やアメリカまで来て、
会場からあふれんばかりの聴衆を前にして、
「キリスト教の新しい未来」というテーマで、
堂々と講演をしているのです。

この日を、天の父はどれほど待っておられたことでしょう。
また誰よりも、先生御自身が待っていたこの日なのです。
この喜びの日を迎え、天の父の喜びを感じて、
感極まって涙を滝のように流しているのでした。

講演会は大成功のうちに終了し、
私の心は喜びに満ちていました。

そして、“ああ、先生はこれからますますアメリカで活躍される。
私も寝てなんかいられない!”と
すぐ日本に帰国したのでした。

 
1976年には、ヤンキー・スタジアムで
さらに大規模な講演会が催されました。

その時も参加しましたが、天のみ旨が
アメリカでどんどん発展しているのを見て、
私はうれしくて仕方ありませんでした。

人に支えてもらわなければ歩くこともできない身で
ありながら、道を歩いているとうれしくて、
自分が病気だなんて忘れてしまうほどでした。

ヤンキー大会の時には、大変なハプニングがありました。
昼まで天気が良かったのに、
突然嵐のような雨が降ってきたのです。

ヤンキー・スタジアムには屋根がありません。
私はどうなることかと驚き、
「天のお父様、この日をあなたは待っておられたのに、
どうして雨を降らすのですか」と祈っていました。

兄弟たちは雨の中で歌を歌い始めました。
どうすることもできない状況の中で、
大会の責任者である神山さんが
「先生、だめです」と泣いて訴えると、
先生は「そんなこと言うんじゃない」と
とても怖い顔をされました。

この時は、先生にとっても
深刻なひとときだったのでしょう。

ところが大会の開始時間が近づくと、
嵐のような雨がうそのように晴れ上がり、
星まで見えてきたのです。

まるで奇跡を見ているようでした。


こうしてヤンキー大会も5万人の人を集めて
大成功のうちに終わり、その4カ月後には、
ワシントン・モニュメントにおいて、
なんと30万人の人を集めてフェスティバルが開かれたのでした。

そこには世界中の人々が集まり、
気絶せんばかりのすばらしさでした。

イエス様はどんなにかローマにおいて、
このような大会を開きたかったことでしょう。

その恨みを晴らすかのように、
先生は世界中の人々を前にして、
神様の心情と願いを堂々と語られたのでした。

この先生の力強い言葉は、人々を励まし希望を与えました。
こうして多くの人々が復活していく姿を
見ることは、私にとって限りない喜びでした。

この喜びは私の体にいい影響を与え、
血の循環も良くなって、目に見えて快復していきました。

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「世界に広がる救いの輪」

信仰は火と燃えて 17
世界に広がる救いの輪
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=14060
(blessed lifeより)


マジソンスクエアガーデンでの大会は、
お父様のアメリカでのデビュー戦、
といったようなものでした。

お父様を間近で見られた松本ママが、
お父様の涙をみられた、と言われていますが、
そのようなお父様だったとは、今まで知りませんでした。

お父様においては、やはり、感慨深いものが、
あったのだろうと思います。。。

松本ママの信仰手記の最終話より、
今日は、真ん中の部分を抜き取って、
ご紹介しました。

次回は、お話が前後しますが、1973年に
松本ママが倒れられた時のお話からお送りします。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)



2022年05月23日

55年ぶりの韓国で体験した天と地の世界 泣きながら祈られる真の父  《松本ママ奮戦記》



1968.02.jpg
▲韓国で(1968年2月)


松本ママ『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より
今回は、「親子のきずな」です。

親子のきずな

(大阪では)多くの人々が集まってくるようになると、
寺田町にあった教会もいよいよ狭くなってきました。

そこで、もう少し大きい所に移ろうと鶴橋に家を見つけ、
汚い長屋をあちこち直して、さあ、行こう!
と意気込んでいる時、突如として
東京に帰るようになってしまいました。

ちょっと拍子抜けした感じでしたが、もう大阪の基盤も
ほぼでき上がっていたので、すぐ東京に上がってきました。
1966年の秋のことでした。

東京での私の仕事は巡回師でした。
小河原節子さんと二人で北海道から九州まで、
弥次喜多の親子版のようにして回りました。

「パパ」と呼んで慕ってきた西川先生は、前年、
アメリカの開拓のため、
韓国からサンフランシスコに行ってしまわれました。

今まで、すべてを委(ゆだ)ね、頼ってきた先生が
アメリカに行ってしまうと、何か無性に寂しくて、
心の中にぽっかりと穴が開いたようでした。

ちょうど子供をほっぽり出して、
親がどこかに行ってしまったような気持ちで、
その寂しさをこらえながら、一生懸命巡回して回ったのです。

1967.0329.jpg

▲アメリカに帰られる西川先生をお見送りして(羽田空港・1967年3月29日)

その後、1968年に韓国に行く機会が訪れました。
そのころには、兄と姪(めい)も入教して重要な任についていました。

私が統一教会に入教した時、(キリスト教の)牧師の話を真(ま)に受けて、
異端だといって6年間反対し続けてきた兄でしたが、
姪が「統一原理」を聴き始めたので、
とうとう兄も一緒に聴くようになったのでした。

そして、自分の耳で聴いてみて初めて、自分の妹は
偉大なことをやっているんだということを悟り、
即座に自分も入教したのでした。

私にとって、ソウルに行くのは生まれて初めてのことでした。
韓国の片田舎で生まれ、そこから、いきなり東京に来て
以来55年間、伝道のために名古屋に行ったり
大阪に行ったりしたことはありましたが、
それ以外はどこへも行かず、
まさに江戸っ子として育ってきたのです。

初めて祖国の都へ行くというだけでも
感動で胸がいっぱいなのですから、
その上に同じ志をもって意気投合し、
兄と姪と連れだって行くのは、まさに感慨無量でした。

 
3月の最も寒い時でした。
この時韓国では、市民劇場を借りて
統一教会の合同結婚式が行われました。(430双)

この世のものとは思えない華麗で荘厳な結婚式を
目の当たりに見て、私は驚きのあまり胸が詰まり、
感激の涙をおさえることができませんでした。

その中には、日本の責任者である久保木夫妻と
(私の)姪も加わっていました。

結婚式が終わると、それぞれのカップルは
再び韓国全土に散っていきました。

私たちは、ソウルの教会の近くにある家に
泊まることになっていました。

私たちのためにわざわざ空けてくださったもので、
周りには統一教会創立のころから苦労してきた
大先輩がたくさん住んでいました。

そこでまず驚いたのは生活の貧しさでした。
その生活ぶりはひどく惨めなもので、
日本では私もずいぶん苦労したつもりでしたが、
私の苦労など及びもつかないもののように思われました。

天上のことのように華麗な結婚式と
あまりに貧しい生活、韓国に着いてからは、
何から何まで驚きの連続でした。

 
そのころ文先生は、結婚した教会員の教育のために、
全国を巡回していらっしゃいました。

釜山(プサン)から順々に、教会がある所へはすべて行かれました。
そして、先生がソウルの近くの水原(スウォン)という所に来られた時に、
私は先生のお話を聴きたくて、
兄と一緒にはるばる出掛けて行ったのです。

雪の降る夜、ジープに乗って
水原の教会に着いたのは午後6時ごろでした。

先生は8時ごろ到着され、すぐお話が始まりました。
それは私が韓国語で聴いた初めての話で、
聴いているうちに今までにない不思議な気持ちになってきました。

先生に会うのは今回が初めてではないのですが、
日本で会った時とは全く違う近さ、親しさを感じたのです。

日本に来られた時の先生は、
自分とはとても遠い人のような気がしました。

“あの人がこの偉大なる原理を解かれた人だ”という
畏敬(いけい)の念が先立ってしまい、
すべてを見抜かれているようで、
目を見るのが怖く、いつも下を向いていました。

偉い人だ、怖い、とただそれだけで、
慕わしい思いなどわいてくる心のゆとりがなかったのです。
パッと見る時の目が怖くて、
毎日縮みあがってぺこぺこするだけでした。

  
ところが、この日は違っていたのです。

先生は韓国中を巡回してきたので、声はかれ、
目は引っ込んで、体全体が疲れているようでした。
目の下には隈(くま)ができていて、会った瞬間、
「ずいぶんお疲れのようだな」と思ったほどでした。

先生と一緒に巡回してきた教会の指導者の人たちは、
もう疲労困憊(こんぱい)してしまって、
こっくりこっくり居眠りをしています。
けれども先生だけは、カッと気力を出して語っているのでした。

先生の話は言葉が早く、聴き取りにくいのですが、
一つ一つの言葉の響きが
とても懐かしく親しみを感じるのです。

もちろん話の内容もすばらしいものでしたが、
それよりも韓国の親しい言葉が、
理屈ぬきでひしひしと私の胸に迫り、
何か温かいものが伝わってくるようでした。

先生は、集まった人々に向かって、
厳しくしかったり決意を促しながら、
時々足の裏をたたいていました。
ずっと立ち続けているので足の裏が痛いのです。

その疲れた様子を見ているうちに
「あんなに疲れてかわいそうだなあ」
という思いが込み上げてきました。
それは疲れた父を思いやるような気持ちでした。

  
すると、その気持ちにたたみかけるように、
先生のお祈りの声が聞こえてきたのです。

「天の父よ」と親しく呼ぶその声音(こわね)
そしてさっきまで厳しくしかっていた先生が、
とても優しい声で、僕(しもべ)が主人にお願いするように
礼儀を尽くして、神様に語りかけているのです。

「ここに集ったあなたの子供たちは、
 あなたの願いを知って、それを全うすることに
 青春を賭(か)けてきました。

 食べるものがなく、着るものがなくても、
 こぶしを握って裸で走ってきたのです。

 どうかここに集まったあなたの子供たちをあなた自ら祝福し、
 最後まであなたの前に忠誠を尽くすことができるように、
 あなたの天軍、万軍をつかわして助けてください」


と切々と神様に訴え、私たちのために
執り成しの祈りをしているのです。

先生は泣きながら祈っていました。

その祈りを聴いていると、私のために祈ってくださっている
ということがひしひしと感じられて、有り難くて絶叫して泣きました。
声を張り上げることができないので、
口を押さえてウンウンとうめくように泣いたのです。

  
お祈りが終わると、
「さあ、食事をしましょう。
日本から来たメンバーはこちらへいらっしゃい」
と呼んでくださいました。

御夫人が心配して、疲れているのだから
早く食べて休んだほうがいいと勧めましたが、
「いや、いいんだ」とおっしゃって、
一人一人におかずを分けて、一緒に食事をしてくださったのです。

 
私は、その先生の姿をじっと見つめて、
いい知れぬ懐かしい思いにかられていました。

この方はなんと偉大な人なのだろう。

いくら神様からこの世の人々を救ってほしいと
啓示を受けたからといって、
縁もゆかりもない全くの他人の私たちのために、
朝から晩まで語り続け、目に隈ができ、
声がかれて足の裏が痛くなっても、大地をたたいて泣きながら、
この子たちを祝福してくださいと天にすがるように祈り、
また私たちに対しては、最後まで神様の願いの地上天国を建設し、
人類を救わなければならないと厳しく叱咤(しった)しつつ、
み言(ことば)を与え、悪いところを削り落として、
立派な人間につくりあげようと苦労されているのだ。

こうして普通の人では考えられないような、
人智を越えた苦労を思った時、
“この人こそ私の真(まこと)の親だ”という強烈な思いが、
実感として胸に迫ってきたのでした。

この人こそ私の真の救い主だ、本当のお父様だ。
私の永遠の生命を保証し責任をもってくださる、
私の悪い思いをみなぬぐい去り、立派な神の娘として
成長させてくれるこの人こそ本当のお父様だ!

私は心の中で、何度も何度もそう叫んでいました。

すると、自然にわき上がってくる思いに心は燃え、
この感謝の気持ちをどう表現していいか分からず、
9回も10回も先生に敬礼しながら、
私はただ涙にむせぶばかりでした。

そして、ようし! これから日本に帰って、私は命を懸けて働くぞ!
という決意がふつふつとわいてくるのでした。


この時まで、先生はあまりにも偉くて怖い人でした。

けれども、韓国に来て、実際に先生がやっておられることを見、
涙で語る言葉と執り成しの祈りを聴き、
私たちのために疲れている姿を見た時に、
震いつきたいほどに先生が恋しく、慕わしくなってきたのです。

そして、この方こそ私のお父様だ、
永遠の命の親だということをはっきりと知ったのでした。

この出会いによって、それまでとは全く違う、
親子という深い心情のきずなを結ぶことができたのでした。

  
日本に帰る前に、兄と二人で母のお墓参りに行きました。

母はクリスチャンでしたから、二人で墓の前にひざまずいて、
「お母さん、あなたは十字架の道を歩んできましたが、
私たちは、そういうお母さんに導かれて、
十字架の道を越えて神の創造目的を全うしようとする
世界基督(キリスト)教統一神霊協会に入りました。
ありがとうございました」と報告したのでした。

お世話になった兄に背いて家を飛び出した時は、
兄にはずいぶん反対されました。

けれども今は、
天国建設のための神の偉大なるみ旨の道を、
二人そろって歩んでいるのです。

その幸せをかみしめながら、
希望に満ちて日本へと帰ってきたのでした。

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「親子のきずな」

https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=13976
信仰は火と燃えて 16
(blessed lifeより)


松本ママが韓国で出会われた真のお父様。
叱咤しながらも、貧しい生活で苦労して歩んでいる、
韓国の食口たちに対して、
とりなしの祈りを捧げられる真のお父様でした。

松本ママが日本で多くの精誠を立てられたので、
神様がお父様の真の姿を見せてくださったのかもしれません。

私たちがいつも拝見する真の父母様も
いつもは堂々としておられますが、
背後においては、「私」の歩みを見られて、
とりなしの祈りを捧げてくださっているのだ、
そんな思いにもさせられました。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)