2018年05月08日

(証し) この港で初めての奇跡!! 真のお母様は、幸運の女神?! 



14277_1627835794113764_712860740022153756_n.jpg


米国で水産担当となった方が、
釣りを通して真の父母様に侍ったときの感動の証しです。


運命の2日目のことです。

韓国の先生から「10分くらい走ったら止めるように。
岸から離れてはいけない」と言われました。

そして、韓国の先生が、「真のお父様に
『ここがベストポイントです』と報告してください」と言うのです。

私は前日、真のお父様から「良いポイントを探すように」
と指示を受けて準備していたのですが、
韓国の先生がおっしゃるとおりにお父様に申し上げると、不思議にうなずかれました。
真のお母様の体調を気遣って、岸の近くに停船したことをすでにご存じだったのです。

船内からは、真のお母様に付き添われている子女様が、
お母様に甲板には出ないでくださいとお願いしているのが聞こえてきました。
それでも、お母様は甲板に出てこられたのですが、お顔は血色が悪く蒼白でした。

真のお父様はご自身が懐で温めた座布団を真のお母様に渡され、
お母様用の釣り糸を水面に投げ入れて手渡されました。

それからわずか1分後、お母様のさおに当たりが来たのです。
お父様はお母様のさおを一緒に持たれ、お母様はリールを必死に巻かれました。
そのうち、お母様のお顔に赤みがさし、体調が少し戻ってこられたごようすでした。

そうして釣り上げたのがグリーンスタージョンの雌でした。
船全体が歓喜に沸き、それまでにない感動を味わいました。

次の瞬間、今度は真のお父様のさおに当たりです。
なんと、グリーンスタージョンの雄が釣れたのです。
神様は雄雌2匹のグリーンスタージョンを備えておられたのです。

船着き場に戻った後、真の父母様ご一行はシアトル教会に向かわれました。
私は残って漁師と共に漁船の掃除をし、漁師に謝礼金を出しました。
ところが漁師は、「お金は要らない」と言って受け取りません。

そして彼が「一つだけ教えてくれ、あの人は誰なのかを」と尋ねるのです。

私は、「レバレンド・ムーンだ」と答えると、
「やはり、そうか! では、あの貴婦人はミセス・ムーン?」
と言うので、「イエス」と答えました。

彼は、
「とても優しそうなお方だった。
 幸運の女神が自分の船に乗ってくれた。
 今回のような奇跡は俺の人生でも、この港でも初めてのことだ」
と感激していました。

彼の言ったのは事実で、釣れる季節ではないときにグリーンスタージョンが釣れて、
釣れるポイントではない所で、糸を投げ入れるや否や釣れたのですから、
奇跡以外の何ものでもないのです。

 「おふたりの中に、神様は住んでおられる」
世界家庭5月号



真の父母様の釣りの姿は、
「趣味」ではなく、「み旨」なのだと思います。

お体のお悪いお母様を船に乗せて釣りをする。。。
普通では考えることができないのではないでしょうか。

しかし、そんな限界の中での歩みであるがゆえに、
神様は、釣れる季節でもなく場所も外れたところで
二匹の魚をお与えになられたのだと思います。

私たちの信仰生活においても、
限界の中でも感謝する歩みをすることで、
奇跡が与えられるのだ、と思うのです。





にほんブログ村

良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!
(なお、記事の冒頭の家庭連合のバナーもブログ村のものです
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 07:45 | Comment(0) | お父様と海・釣り 自然・万物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月09日

(証し) 「お父様は今日2度も釣りに出たよ! 食口たちを思えば、じっとしていられなくて」 



156036_413052812178456_5055928350369142356_n.jpg


櫻井先生が説教された時のお父様の証しです。


私が日本の幹部とともに、
お父様からアラスカに呼ばれた時のことです。

10月半ばの冷たい雨の日でした。
御父母様と川で釣りをしていましたが、
午後2時くらいになると手が凍えるほどになりました。

お父様はお母様を気遣われて、一緒に先に帰られました。
夕暮れになって、私たちも帰ろうとしていた時だったのですが、
お父様はまた戻ってこられて釣りを始められたのです。

私は心の中で、
「こんな雨の中、寒いし、暗くなったし、
サケだって、餌を欲しがる時間ではないだろうし・・・
お父様は、何であんな熱心に、今にもサケが引っ掛かる
雰囲気でやり続けるんだろう」
このように思ったんです。

結局、その夜は10時を過ぎ、帰って夕食を食べ終わると
11時になっていました。

その時、お父様は私の顔を見ながら、
このように話されました。


「今日、先生は二回川に出たね。
70歳を越えた老人には、
このアラスカの10月半ばの雨と風はきついよ。
本当は、先生は
この暖かいノースガーデンから出たくなかったよ。

でも、先生は、こういうきつい雨風の中にも、
神のみ旨のために頑張っている食口たち、
とりわけ日本の食口たちのことを考えたら、
じっとしていられなくて、
もう一度川に出ていったんだよ」


体はアラスカにあったとしても、
心は最前線でみ旨を歩む食口たちとともにあるのだ。。。

子供が苦労している時に、
親はいてもたってもいられない思いになる・・・
それゆえに、もう一度釣りに出られたのだ。。。

そのように思いました。




最近の二世たちにとって、すでに
「真のお父様は『伝説の人』」なのだそうです。

お父様が聖和され、もう5年になりますし、
また、聖和される前も、公式的に出られる回数も少なかったので、
特に、10代の子たち、それより年下の子供たちは、
「お父様と出会ったことがない」のだといいます。

だから、生前のお父様を証ししないといけない。。。
そう思い、今回もお父様の証しを書きました。
食口を愛する思いで、すべてに投入しておられる
真のお父様の姿です。。。

そういう意味で今、お母様がおられることがどれだけ感謝なことでしょうか。。。
そして、私たちも真の父母様の代身としての自覚を持ちつつ、
御父母様をもっと証ししていきたいと思うのです。





にほんブログ村

良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!
(なお、記事の冒頭の家庭連合のバナーもブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


2016年04月26日

芸術家アボジ!! あふれる才能は、神の心情を表現する?! 《お父様と海と自然4》



19720426.jpg


尹世元(ユンセウォン)元鮮文大学校総長による証し。
今回が最後になります。


文先生の深い情は、量ることができません。

この深い情が自然を相手にあふれるとき、芸術的情緒として現れるのです。
この深い情が揮毫に込められるとき、力と霊感にあふれた作品として現れるのです。
この深い情が書画や彫刻、陶磁器、工芸品を鑑賞なさるとき、
専門家の追随を許さない目をもたれるのです。


この文先生の深い情が視覚的に表現されるときは、
調和を基本としておられるように見えました。

調和とは、主体と対象での調和です。
すべてのものが平等で、同じ立場を占めることはできないと、
文先生は考えていらっしゃるようでした。

絵を鑑賞なさるときや、彫刻や建物のように造形美を備えた作品を鑑賞なさるとき、
自然の風景をごらんになるときの文先生は、いつでも中心になるものと、
この中心を取り囲む周囲の環境との調和をごらんになられるようでした。

それゆえ、一度中心を定めておけば、視覚の中へ入ってくる周辺の環境との調和が成されたのか、
成されなかったのかで即座に価値を判断なさるのです。

建築中の建物をごらんになっても、壁の色と取り壊して直すべき部分を即座に指摘なされます。

文先生は、建造中である船に対しても、技術者たちが造った船に上られて見回され、
船首と船尾に至る線の流れを即座に直してくださいます。
本当に横から見ていると、美的感覚が自然にひらめくような感じです。


何年か前、文先生は教授たちを招請してみ言を語られた後、
教授たちの前で「故郷無情」という歌を歌われたことがあります。
このとき、歌詞と曲に合わせて、文先生独特のメロディーで
渾身から湧き出る歌を歌われたとき、多くの教授が涙を流しました。

文先生は歌を歌われるとき、歌詞を口で歌うのではなく、
まず感と情が主体であり、口と音は道具として使われるだけです。
それゆえに、歌全体が歌詞に合う感情の流れとなるのです。

このように、文先生は音楽に対しても深い理解を持っていらっしゃいます。
民謡であれば民謡として、ポップソングであればポップソングとして、
ジャズであればジャズとして、古典音楽であれば古典音楽として深い理解をしておられ、
踊りと歌と音楽は、すべての人が一つになる近道だと考えられて、
踊りと歌と音楽で和動の母体をつくられるのです。


文先生は説教される度ごとに、神様に孝誠を尽くせと教えられます。
孝誠は理と法で説明できないものであり、ただ、深い情感としてだけ説明できるのです。

私は神様の心情と触れ合う文先生の深い心情が、
文先生の芸術的資質を高揚させるのではないのかと、考えてみるのでした。



ある意味、お父様は「神様の心情を表す芸術家」であると言えると思います。
神様の心情を歌に表され、また揮毫に表されます。

先日、聞いた話ですが、書道の大家がお父様が書かれたある揮毫の一文字を見て、
「この字は普通の人が書くことのできない文字です。
もの凄く価値のある字であるとともに、天の気が強く表れた字です」
そのように証しされたそうです。

神様と完全に一つになっておられるお父様。
そのお父様に侍ることができるということ、
それ以上の感謝はありません。


応援のクリックをお願いします


にほんブログ村



※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)