2017年08月21日

嫌な人との和睦、大切な人との和睦… なぜできないか?! 《李ヨハネ先生》和睦2



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李ヨハネ先生の講話「苦痛と和睦」の2回目。
先回は、まず「神様との和睦」が大切というお話でした。
さて、今日は・・・



人との和睦


私たちの教会においても、発展を妨げる大きな要因の一つになっているのが、
人との和の問題だと思います。
言い換えれば、「和睦の問題」なのです。

この和睦の問題は、大きく二つに分けられます。
第一に、教会の食口同士の関係および、
教会食口と教会の責任者との関係で生じる和睦の問題です。

すなわち、カイン的立場にいる人とアベル的立場にいる人との和睦の問題であり、
第二には、教会の責任者たる人の夫婦の間での和睦の問題です。


カインとアベルの不和ゆえに、歴史が今まで延長されてきたことを
私たちはよく知っています。

歴史的に問題となったことが、今日、私たちにも問題視されています。
また家庭を中心とした摂理は、私たちの時代になって初めて始まりましたが、
そこにおいても問題となりました。


しかし、ともかくカインとアベルの和睦であれ、
教会の責任者たる人の夫婦間の和睦であれ、その原理は同じなのです。
和睦は神の真の子女の立場でのみ可能なのです。

なぜなら、心情が成長し、神の事情を
たくさん感じることができてこそ、和睦できる人になるからです。

神の事情を感じられず、自分の事情ばかりを中心にしては和睦できません。
自分の事情を中心としては和睦できないというのは、
和睦において最も基本であり、重大な原則だといえましょう。


また、和睦しようとするなら、憎い人があってはなりません。
憎い人も包容し、抱えることができなければならないというのです。
好き嫌いがあってはなりません。

人を哀れむことのできる人、「私の誓い」にもあるように
「平和と幸福と自由と理想をもたらす」ことのできる人は、
いかにレベルの高い人でしょうか。

こういう人になってこそ、人と和睦できるのです。


今の時代は、蕩減復帰がすっかり終わり、和睦した私たちの姿を、
実際に世の中に見せる時だといえるでしょう。

私たちが生きている時代は、それ以前の時代とは違って、
摂理の結実期だからです。

この時代に問題になるのは、私たちの信仰が
どういう感情を備えた信仰なのか、周囲にいる人をして、
信じたいという思いを生じさせる信仰なのかどうかです。

教会の責任者ならば、今や口で語る時代は終わり、
周辺にどういう影響を与えているのか、
これが問題となる時代になったということを知らなければなりません。

「信仰の実体」、「愛の実体」になって、周辺に影響を与え、
周辺の人々をして信仰せざるをえないようにできる、
真なる生命の繁殖力をもっていなければならない時代なのです。


文先生はこのような影響力をもっておられる方です。
外見は私たちと同じ人間ですが、先生は口先で語るだけの方ではなく、
「み言の実体」であるということが、私たちと違います。

心の世界を動かすことのできる原動力を、ご自身の内的世界にもった方です。
この原動力は、先生が神を絶対視し、神も先生を絶対視する
土台の上で始まるものだと、私たちは理解しています。

では、先生はどのようにしてそういう位置まで行かれたのでしょうか。
苦痛を克服し、勝利されたからだと、一言でいうことができます。
先生は生きて十字架の苦痛を勝利された方です。


私たちの心を動かすことができる愛と
和睦の原動力を所有された方が先生なのですが、
今日、私たちはなぜ和睦できないのでしょうか。

自分に損になるからできない、苦しいからできない、
自分に害になるからできない、その人と授受しても
自分に益がないからできない……。

こういうことが、家庭や教会で和睦できない理由なのです。
これは正に、苦痛の十字架を負えないということです。

ですから、苦痛の十字架をどう扱うのかというのが、私たちの問題になります。



以前も書いたと思いましたが、
私だけの信仰なら、何の問題もなく、
神様と真の父母様を慕っていけるでしょう。

しかし、問題なのは、アベル・カインの関係があり、
ともに歩む兄弟姉妹がいる、それが「人との和睦」なのだと思います。

組織を外から見て批判する人がいます。
もちろんその人が指摘するように、
足りない部分はたくさんあるかもしれません。

しかし、その中で信仰をしっかり持つためにも、
苦痛の十字架を負っていくことなのだと思います。

具体的なことは続きます。。。






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2017年08月16日

神様と和睦する?! 一番の要因は、「絶対信仰」!! 《李ヨハネ先生》和睦1



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苦痛、試練、悲しみ、十字架・・・

李ヨハネ先生の先回の講話では、
それは宝物であるといわれていましたが、
それでは、「苦痛」を越えていくには
どうしたらいいでしょうか?

新シリーズは、「苦痛と和睦」です。


「苦痛と和睦」という題目で、神と和睦するための人間の責任と、
また、私たち人間が互いに和睦できる方法について
み言を分かち合いたいと思います。

「和睦」というのは、私たちがよく知っているように、
互いに意志が通じ合って仲が良いということを意味します。

この和睦という言葉は原理ではあまり出てきませんが、
「復帰」という言葉が「人間と神との和睦」を意味するのです。

そして、神と和睦しようとすれば、
まず人間からサタンを分別しなければなりません。


こういう立場から見る時、復帰摂理は
神の怨讐だった人間がサタンを分立して
再び神と和睦しようとする、
本来の創造目的を成就するための摂理だといえるでしょう。

み言の前に祭物となり、宗教儀式や法の前に絶対的に従順に従い、
屈伏するようになさる神の摂理は、
例えば旧約時代の律法などは、結局それを通して兄弟の愛を築き、
その基盤の上で、神と人間のむつまじい父子の関係を回復なさろうとする
過程的な摂理だったのです。

イスラエル民族に契約の箱を与えたのも、
その契約の箱をエホバの神のように思って、
これを与えた神のみ意に、絶対的に従順屈伏することによって、
神の選民となり、神の祝福を受けることのできる、
むつまじい関係をもった立場に引き上げようとする意図があったと思います。

私たちの信仰路程も、普段の生活で和睦するための基盤を築き、
神との和睦という目的地に向かって歩む過程だといえるでしょう。

きょうのみ言の題目も「苦痛と和睦」ですが、聖句を見ると、
イエス様は神と人間との和睦のために十字架の祭物になられたとあります。

それなのに、人間が神と和睦できずにきた理由は何でしょうか。
一言でいって、絶対的な信仰がなかったからです。



神と和睦する原則


絶対的な信仰で、一つの中心をつかんで自分を否定すれば、
神と和睦することができますが、
そうできなければ失敗してしまいます。

ノアの家庭を見ると、息子たちが父であるノアを、
神が立てた人として絶対的に信じたなら、神の願いを成就し、
また、その家庭も破壊されなかったかもしれませんが、
息子たちに絶対的な信仰がなかったので失敗してしまいました。


ところが、アブラハムの妻サライからは、
絶対的な信仰について素晴らしい手本を見ることができます。

「エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、
彼は妻サライに言った、
『わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。
それでエジプトびとがあなたを見る時、
これは彼の妻であるといってわたしを殺し、
あなたを生かしておくでしょう。
どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。
そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、
わたしの命はあなたによって助かるでしょう』。」

(創世記一二・11〜13)

という聖句があります。

アブラハムは自分が死にそうなので、異国の王に嫁げというのです。
妻サライに、耐えられないようなことをさせたのです。

ところが彼の妻は耐えられないことにも従順に従いながら、
復帰摂理の一つの結び目を解いていったのです。

サライは、エジプトの王やアブラハムにはもちろん、
神にも恨んだり不平を言ったりせず、夫と神に対して
絶対的な信仰をもっていたので、
神は彼女を助けることができました。

怨讐の懐にいる自分を、神が再び訪ねてこられるように、
サライが自らの責任を果たしたので、
神が彼女を救うことができたということです。


こういう絶対的な信仰をもった信仰者になれるのでしょうか? 
これが、私たち皆の関心事です。

自分を否定して初めてそうなれるといえるでしょう。
自己否定ができなければ、絶対的な信仰が生じるはずがなく、
したがって、神と和睦することもできません。

神は、私たちを導くにおいて、
私たちの考えや立場にぴったり合うように導く方ではありません。
自分の計算や考えには合わないことも、
信じて従順に従ってこそうまくいくように導かれるので、
自分を否定しなければならないのです。

自己否定には本当に大きな苦痛が伴います。


ところで、自分を否定してこそ和睦できるという、こういう原則は、
人間相互間の生活にも同じように適用できます。

私たちの生活で互いに不和になる出来事をよく調べてみると、
自分自身を先に立てて計算し、勘定するので問題が生じるのです。

では、これをどうすべきでしょうか。
信仰感情が良くなければなりません。

信仰感情、平和の心情があふれるようになれば、
理論や計算に合わなくても、心情には合うものがあります。
打算的に考えれば明らかに不可能なことなのに、
情ではそうしようとするのです。

私たちの生活では、このように、自分自体の内でも
情と理性が全く食い違う時があります。

自体内でもそうなのに、ましてや他人との和睦は易しくないのです。
ですから、他人との和睦が、どこでも、いつでも問題視されてきました。



神様は目には見えません。
そういう意味では、厳密にいうと、
一人一人の神観は異なるものになってしまいます。

それで、神様はご自身の代身として、
人を立てて、背後の神様を見つめさせながら、
「絶対信仰」を願われてきたのだと思います。

「私は神様を信じているが、人は信じない。
だから組織にも入らない・・・」
そのように言っている方も実際おられますが、
それは違うと私は思います。

背後の神様を見つめないと、
サタン分立されません。
また、神様は喜ばれるはずはないでしょう。

神様は人を関与して摂理なさいます。
だから、やはり「絶対信仰」が重要なのだと思うのです。

不定期に続きます。






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2017年08月13日

悲しみにサヨナラ、微笑んでサヨナラ?! 苦痛は宝物、放置も浪費もしない!! 《李ヨハネ先生》



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人気の李ヨハネ先生のシリーズ。
今日は「苦痛の中での『信従』」の最終回。
「永遠なる『愛の基準』をつくるには」を紹介します。

第1回目で、「私の悲しみとお前の悲しみが同じだから、
お前のほかには話す者がいない」という
神の声を聞くような心情基準、精誠の基準が必要だと言われていますが、
そのまとめになります。


先生が私たち幹部を連れていって服を買ってくださる時にも、
先生は「作業服がいい、旅行する時はアイロンをかける必要もなく、
洗ってパンパンはたけば、そのままさっと着て
出掛けることができるからとてもいいんだ」と言われながら、
作業服に近い洋服を買ってくださろうとする場合があります。

ところがお母様は「講義する時にも着ようと思えば、
少しいいのを買ってあげなければならない」と言って、
「もっと高いのを買ってあげてください」とおっしゃいます。

これは、一般的な家庭とは反対ではないですか。
こんな光景は先生の家庭だから見られるのであって、
普通では到底望めないことです。
他の家庭では見られません。

先生はお母様を、与えたがる性格をもち、
すべての神の業に感謝なさると称賛されました。


過越の祭にイエス様がベタニヤに来られた時、
マリヤが慟哭したところで、私は信仰感情に対するヒントを得ました。
私たち夫婦もこうならなければならないのです。

夫が悲しければ、語らずとも妻も悲しく、
夫が何かをしたがれば妻もそうしたがる、
具体的な伝達がなされる夫婦であってこそ完成基準に到達した夫婦です。


皆さんも神の愛と人類の愛を受けようとすれば、
自分自身、愛の基礎を築くことができなければなりません。

この基礎という言葉は、神の苦痛を自分の苦痛よりもっと気の毒がり、
み言を抱いてすべての困難を信仰によって克服しつつ、
神の感情に自分の感情を一致させようと努力し、
人類を愛する心を抱くことを意味し、これが正に信仰基台になるのです。

このように、自ら困難を克服し、信仰基台を立てられない人は、
環境の支配を受けることになるのです。
信仰の基礎は自分がつくるものです。
だれも代わってあげることはできないのです。


愛の基礎は自分がつくらなければなりません。
神の愛を占有する基礎は自分がつくらなければなりません。
ですから、恨んだり不平を言ってはいけません。

イエス様は十字架で亡くなられる時に、
神の愛と人類の愛をすっかり占有できる基礎をつくられました。
これを知らなければなりません。

イエス様が十字架上で、恨みや不平なく、
神のみ旨と人類の不信を一人で負われたので、
永遠なる愛の基礎をこの地上に立てたのです。

これを具体的に知る時、皆さんも
神の愛の基礎を築くことができるようになるでしょう。


今や私たちは、苦痛を放置しておいてはならないのであり、
苦痛を浪費してもいけないのです。

苦痛というのは、永遠なる愛の基礎を築くことができる、
私の宝物の基盤なので、貴重なものなのです。



今までの復習になりますが、
苦痛を与えた人に対して、
また環境圏に対して、
どのように受け止めることができるか、
物事の捉え方が重要なのだと思います。

そして、私が通過した以上の苦痛を
真の父母様が通過され、
すべてに感謝して乗り越えておられます。

イエス様を慕うクリスチャンたちは、
たとえ2000年前の過去の人物だったとしても、
イエス様が十字架の道を越えて、
全てに感謝し、勝利の道をいかれたので、
自分が通過した苦痛の道と照らし合わせ、
ともに乗り越えていくことにより、
慕わしきイエス様、主なるイエス様・・・
そのようにして心情を近くしていきました。

イエス様を慕う人は数多くいます。
さらには、真のお父様のみを慕う人もいます。

しかし、私たちは真の父母様に侍る者たちです。
そのことを誇りに思いつつ、
だからこそ、全てを感謝に変えていけるようにしていきます。





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*李ヨハネ先生のお名前について
李耀翰と書いて、イ・ヨハンというのが正式なお名前ですが、
日本では、李(リ)ヨハネ先生としてもお馴染みです。
ご父母様が、文鮮明(ムン ソンミョン) 韓鶴子(ハン ハクジャ)であるように
元老の方々のお名前についても、日本語読みではなく韓国語読みに変えるべきであるかとは思うのですが、
このブログでは、シリーズとなった《李ヨハネ先生のベスト・アンサー》で紹介するに当たり、
親しみを込めて李ヨハネ先生とお呼びしています。



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