2020年12月05日

もっとつらい神様がおられる! 霊界が私の代わりに伝道するワケ 《金元弼先生》



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現在、真のお母様はラスベガスに行かれ、
明日は、WCLC創立1周年記念としての
「神統一世界安着のための世界基督教 聖職者希望前進大会」
が行われるとのこと。(下に紹介動画)

新型コロナウイルスが深刻な米国でありますが
真のお母様のご安寧と、
大会の勝利をお祈りいたします。

今日は、金元弼先生の『伝統の源流』の
最終回、「神を慰める者となりましょう」より、
「本人以上に心配して伝道する」を紹介します。


先生がこの神の道を切り開かれた時に、
いつも神のことを考えて祈られたといいます。
もっとつらい神様がいらっしゃったのです。

先生の苦しい立場を眺め、苦しい立場に
追い込まなければならないけれども、
それを見捨てなければならない神の御心情は
もっとつらかったでしょう、ということを先生は考えられたのです。

先生が牢屋の中に捕らわれた時にも、
“私が苦しむのを見る神の御心情はいかぽかり苦しいことだろうか。
その苦しみは、私よりも、もっと苦しいでしょう。

だから私よりもつらい苦しみを見つめた時に、
私の苦しみは、その苦しみの中に包含されてしまう”
とそう思われたのです。

だから先生は、いつも神と一緒に苦しみ、
一緒に泣かれるのです。


ところが私たちは、神と共にそういうことをしないから、
泣いても自分のために泣くということになります。
そして自分が泣いたばかりでなく、神をもっと泣かせることになるのです。

しかし先生はいつも、いろいろな苦しいことがあっても、
恨みの境地をお歩きになっても、ののしることができなかったというのは、
恨みの中におられる神の心情を御存じだからです。

そのようにして、摂理の中をお歩きになる先生は、
惨めな私たちですけれども、私たちが大事にし、
私たちが愛するそれ以上に愛し、大事にしてくださるお方です。

そのことを思い、それに習って、私たちも伝道するにあたって、
その人が自身を心配する以上の心掛けで伝道するならば、
その人は分からないとしても、その人の先祖には分かるのです。

自分の後孫に私が非常に心をかけているということを、
本人は分かりませんけれども、その人の先祖には分かるというのです。
それが成り立った場合は、その先祖は、
気が付かない後孫に降りて、知らせてくれるのです。


世の中にも、そういうことがあるのです。

対人関係において、人のためにやったとします。
ところがその人には分からないのです。
しかしその人の親は分かっています。

自分の子供に対して、他の友達が自分のことを非常に心配して、
ためになっているということが親には分かるというのです。
そしてそのお父さんが気付いた時は、子供に言って聞かせるのです。


ですから先生は、その伝道する人のために祈るならば、
必ずその人の先祖が霊にでも幻の中にでも現れて
教えてくれるとおっしゃるのです。

先生が世の中の人や私たちに現れたり、
教えてくれたりする奇跡みたいなことが起こりますが、
それは奇跡ではなく当然のことです。

それは先生がそのように私たちの先祖を感動させたからなのです。
そしてその先祖が私たちに、私は全然見聞きもしないのに、
現れて教えてくれるというのです。


先生は牢屋(興南収容所)の中では全然語らなかったのですけれども、
その牢屋の中で、ある人に先祖たちが現れました。

その人は先生のことを全く知らないのです。
囚人たちにはみな番号がありますけれども、先祖の霊が、
何々番の人にこれをささげなさいと言いました。

牢屋の中でそのようにして伝道されたお弟子が十二人もいたのです。

先生のそういう面をお手本として、これから私たちは生活の中で
一つひとつこれを実践して、熱心にがんばってまいりましょう。
これでもって、私の話を終わりたいと思います。


(「神を慰める者となりましょう」
 一九七六年四月四日東京教会)

信仰生活シリーズ 6
『伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道』
 金元弼
1998年7月1日発行
※『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


お父様が神様を愛されるご心情は、
本当に素晴らしいと思います。
まさにお母様が語られるように、
「孝情」の塊なのですね。。。

また、夢や幻で特別な夢を見るのは、
先祖が「私」に悟らせるために、
教えてくれるものだ、と知りました。

お父様は、深刻に切実に祈られるから、
伝道したい人の先祖が現れるのでしょう。
私たちも導きたい人に対して、
夢に現れるくらいに、真剣な祈りを捧げる
そういう姿勢が必要なのだと感じました。

金元弼先生のみ言、「伝統の源流」は、
今回で終了になります。
(最後ですので、下にあとがきを掲載します)

ただ、元弼先生のみ言は好評ですので、
別の書物を紹介しようと思っています。
お楽しみに。





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   あとがき

 本書は、金元弼先生が日本、英国、米国で語られた講話を再構成したものです。英国では一九七九年に指導者向けの修練会で語られました。また米国では、八一年の一二〇日修練会で語られました。講話の内容は、金先生が四六年に文鮮明先生と初めて出会った時の様子から始まり、弟子となられてからの日々の間に文先生から受けられた様々な貴い恵みの一つ一つにまで及んでいます。さらに、今日までに『成約の鐘』『聖徒』『ファミリー』誌上に掲載された講話を加えました。

※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』を、『伝統の源流−主と歩んだ教会創立以前の道』に改題したものです。

【著者略歴】金元弼(キム・ウォンピル)先生
   1928年 9月 平壌で出生
   1946年 3月 平壌師範学校卒業
       7月 統一教会へ入教。
         弘益大学 西洋絵画科受講
   1962年 2月 全国巡回師室長
       9月 協会経理部長
   1963年10月 財団理事長
   1968年 4月 龍山地成長
   1972年 9月 ソウル本部教会教会長
      12月 英国、米国家庭教会責任者
   1986年 5月 ヨーロッパ信仰指導責任者

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道 金元弼
1998年7月1日発行




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2020年11月30日

つらくても感謝できたら、つらいという言葉がなくなる?! 《金元弼先生》



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1976年に、日本で語られた
金元弼(キム・ウォンピル)先生のみ言
「神を慰める者となりましょう」より、
『神と共に苦しむ』です。


そういうことを考えてみると、6000年の間、
たくさんの人が神の身代わりになって、
復帰摂理の責任を果たしてきたと思うのです。

ところがその人たちがその責任を果たしえずして、
摂理をどんどん延長してきました。

このすべての復帰摂理を成就しなければいけない使命を受けたお方は、
どんな道を行かなければならないのでしょうか。
それは並大抵のことではありません。

そういう点からして、さっきの話にもあったように、
つらいことがあっても、その時には、
このつらいことを自分のものとして考えてはいけません。

私たちはつらいことがあると、
ああつらいと考えてしまいます。

つらいことをどのようにして感謝していくのですか。
つらいのにどうして感謝の心が出てくるのですか。
無理です。

そういうわけで、世の中にはもう対策はありません。
つらい時とか心が苦しい時、1、2、3と数えなさい、
そういうことを言ったり色々しています。
しかし、それは非常に無理な考え方であり、
やろうとしても難しいのです。


私たちは神の心情がどれくらいつらいか、
どれくらい苦しいかということが分かりません。

だから神は、私たちにそのことを通じて知らせてくれるのです。
つらいだろう、私はこのようにつらいのだよ、
ということなのです。
誰のため、人間のために私はこんなにつらいのだ、
苦しいのだ、ということを知らせてくれるのです。

なのに私たちはこの苦しみから何とかして
逃れることができないかということばかり考えます。
しかし逃げ道がないのです。


私たちの心の中に、神は私のためにこんなにつらいのですか、
という思いが神に対して出てきた時は、
「このようにつらいけれども、
神はそして先生は私を罰しない、
何も私に言わない」とこう考えるのです。

こういう時に神に対する感謝があるのです。
まず慰められて“自分”が解決できないと、
感謝の念が出てこないのです。

ですから慰めようとしても、自分一人だけつらい、
寂しい、苦しいとするならば、これでは道がないのです。
逃れる道がないのです。

ところが私がいやなのは、また神の心でも
あるとするならば、慰めになるというのです。


というのは、相対基準ができて授受作用ができるからです。
一人だとすると、私はつらいつらい
という世界に押し込められるのです。

一人だけでいるので、寂しいと思うのです。
一人だけでいるということは非原理的であるというのです。
だから早く原理に入れということなのです。

だから原理に帰るためには相対者がいなければならず、
授受作用をするそういう相対者がいなければなりません。

だから悪いことをした人は苦しいのです。
しかも非原理的です。
けれども、そういう悪い人の仲間が見つかれば、
そこで慰められるというのです。

私たちは、天のお父様の子であるとするならば、
天のお父様は善なるお父様ですから、
善の授受作用が起こり、慰める授受作用が起こるというのです。


その次は、私よりも高い基準の主体者がいらっしゃることを知って、
そのお方は私よりつらいことがあっても、
私のために、自分がつらいとは言わないで、
かえって私を慰めようとしている人であると考えついた時に、
ここにおいて感謝の念がわき起こるのです。

そうした時に、感謝できた人には
つらいという言葉がなくなるのです、自然に。

もうその時には、ちょっと苦しんでみよう、
味わってみようとしても、既に苦しみはないというのです。

なぜならば、一人であると思うから苦しいのです。
ところが一人ではなく二人になると、
その苦しみを再び求めようとしても、求められないのです。
そこで感謝が出るわけなのです。

『伝統の源流−主と歩んだ教会創立以前の道』
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」 
1976年4月4日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの


元弼先生は、「つらいという言葉がなくなる」
と語られていますから、どんなつらい時にも、
神様を慰めていかれたのだな、と思います。

それがイエス様が歩まれた道であり、
真の父母様が歩まれた道なのだな。。。
改めて思わされました。

私は、「神の子である」という自覚を持つこと。
それはどんなときにもそうであり、
さらに言うならば、
大変な時、困難な時ほど、
持たなければならない、と思うのです。





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2020年11月26日

いかに位置を守るか・・それでも私は神の子です! 《李ヨハネ先生「信仰と生活」》



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李ヨハネ先生の信仰と生活。
今回は、「自分の位置」です。


堕落した人間に、「あなたはサタンの息子ですか」
と言ったなら、とても怒るのです。

「ではあなたは神の子ですか」と言うと、
「それもどうかな」と言うのです。

では「あなたはだれですか」と聞くと、
自分の位置をはっきり答えられないのが、
堕落した人間の良心です。

しかし、そこがあいまいではっきりしていなくても、
神の立場を分かった信仰者においては、
自分がだれのものかということは、
自然に決まってくるのです。

その主体者が決まっているから、
自分の位置も同時に決まるのです。
その自分の位置をいつも聖別して、
いかに守っていくか、
そこに人格という問題が出てくるのです。

 
イエス様が胸の中に秘密としていたのは、
「自分は一人息子である」ということです。

それは、たとえ悔しいことがあっても、
いくら木の下に寝転んでいても、
また、乞食の格好をしていても、心の中では、
自分は神の一人息子であるというその位置を、
一生涯、十字架につけられるまで、
一度も変えたことがないのです。

いわゆる、信仰貞操です。


その位置を変えてしまうと、人格的にも崩れるし、
平面的にも人間関係が混線してしまうのです。

自分の位置うんぬんというのは、
一面を見ると傲慢なようですが、
ここを間違ってはいけないのです。

例えば、映画館とか、とにかく大勢の中に自分一人がいた時、
自分はどの位置でこういう所に来ているのかということです。

こういうサタンの世の中で、自分は神の子だという信念とか、
自分の立つべき位置を持続している信仰をもった人に対して、
神はとても感謝するのです。

だから神も、人間に恵まれなくてはならないのです。


イエス様においては、いくら蔑視されても、
その心では自分は一人息子だという思いが
かえって強くなるのです。

しかし私たちは、悲しい立場に置かれると、
だんだんと自分の位置を疑う人が増えてくるのです。

もうどうにもならない立場になると、本当に
神が一緒にいてくれるかどうか、疑ってしまうのです。
自分の位置を、自分が疑うのです。

そういう神との関係がない時にこそ、
自分の位置を守って、神から干渉がなくても、
神の息子だという、その責任をもっている者に対しては、
サタンも頭を下げるのです。

イエス様は、それを私たちに見せてくださったのです。

私たちが信仰しているうちは、
「いつもうれしい」と言っていいのですが、
神から捨てられる時、また、捕まえてくださる時と、
こういう波があり、私たちも
波のように成長していくのですから、
その時どういう実績を残すか、
どういう蕩減条件を立てるか、
これが神と私たちとの関係になるのです。



自己牧会プログラムを実践していくと、
本心が啓発されていきます。

与えられた現象、目に見えるものは、
同じだったとしても、
どのように捉えることができるのか、
それが重要になってきます。

ですから、ヨハネ先生が語られているように、
神の子である、という位置をしっかり守ること、
本心を中心とした生活をしていくこと、
このことを常に意識していきたいと
改めて思うのです。






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