2017年06月16日

私たちが小メシヤとして立つとき!! 〜60代の李ヨハネ先生より 《里程標》



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今や100歳を越えられた李ヨハネ先生ですが
60代の頃の証しをお伝えしてきました。
今日が最終回です。


今日の多くの(既成キリスト教会の)牧会者たちも、
み言を教えるための人であって、
自分自らは受肉できていない実情です。

ロゴスの実体になってみ言が出てこなければなりませんが、
既成教会の実情はそうでないようです。
ユダヤ教団がイエスが分からないのは、
ユダヤ教団が自分自身を知らないためです。

み言だけで伝える偽善者でなく、
み言通りに暮らすユダヤ教団であったとすれば、
イエスが分からなくなるはずがありませんでした。

今日のキリスト教の現実も二千年前と一つも違っていません。


先生はみ言を伝えてくださり、
自らみ言の実体であることを見せてくださいました。

命と心情をもたれた方で、目があり耳が聞いている人は、
霊的にあるいは実体的に証拠を受け取り、
証拠を見せてくださいました。


今や我々は神様の代身者となり、
小メシヤとして立たねばなりません。
イエス様が人間を通して成し遂げようとされた
み言の実体とならねばならければなりません。

そうなれば家庭はみ言の宴の家となり、
愛の中心となるのです。

既成教会では神様の計画や内容を知らず、
聖書を文字そのまま信じているので、
儀式と形式、観念の信仰になるほかありません。
しかし統一教会は知らないで信じる信仰ではなく、
信仰は儀式や観念でなく真の情なのです。


今や「子女の時代」であることを宣布され、
代身者、小メシヤの使命を与えられました。

子女時代とは愛の自立を意味します。
先生に頼らないで、あなたを中心として
もう一つの愛の集団を作りなさいということで、
これが家庭教会運動です。

愛は一人でなるものでなく、
ブドウが枝にふさふさと垂れ下がっているように、
愛の拡散運動が必要なのです。


初期には霊的に我々をよく引き止めてくれましたが、
今はこの地に天のお父様の事情をよく知っている
息子、娘が大きくなって来ているので、
自体内において真の情と心霊が誘発され、
実を結ぶのが願われているのです。

み言を伝えて来た私自身も、どれ程
神様に適合した代身者になったか振り返ってみて、
これから不足した部分は補充して、
よりお父様の前に近い小メシヤとなることが
重要なのではないかと思いなら、これで終わります。



お父様の遺言は、
「神氏族メシヤ」になることです。

李ヨハネ先生も、「小メシヤ」
と語られていますが、本質は同じです。

与える立場、愛する立場を成すことで、
絶対にずれることはないと思います。

神氏族メシヤの道を歩むことが、
真の父母様に近づくことが出来るのです。

どんなに大先輩だったとしても、
どんなに位置がある人だとしても、
その道を歩むことが天の願いであり、
私たちの本心の叫びであると思うのです。





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2017年06月15日

いつも神様の心臓部に立つ私! み言に喜ぶより、受肉しよう! 《李ヨハネ先生の里程標》



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李ヨハネ先生の証し。
任地を与えられ、伝道活動を中心に
活動している証しがその後、掲載されていますが、
その部分は省略させていただきました。
最後のところだけ紹介します。


み旨の前に召命を受けてから30余年になりました。
今や還暦も過ぎて子女たちが成長して、
今まで私が歩んで来た道を共に歩んでいます。

過ぎて来たことをたどると感慨深い内容が多いですが、
まだみ旨の一線で後輩を養成して、み言を
伝えなければならない立場であり、過ぎたことよりは
未来にもっと関心が行くことはどうしようもありません。

まだ先生は先に立っておられ、
これから成さねばならないみ旨があるので、
私は緊張を少しもゆるめることができません。


私の半生涯は、ただ牧会と教育に
身を投じたと言っても過言ではありません。

大邱(テグ)で、ソウル明洞(ミョンドン)会館で、そして本部教会で、
私が立ったどこにおいても神様の心臓部に立っている
という気持ちでみ言を述べ伝え、
今も統一家族の指導者になる統一神学生たちの教育と
21日修練生を指導しています。

今まで私のみ言を聞いた人たちを、どれだけ感化させたか、
また人生の里程標*となった(大きく人生の指針を与えられた)とも言い切れませんが、
いずれにしろ神様のみ言の代身者という心情で、
体と心をみな捧げて伝えようと努力して来ました。


今も私はみ言を伝える者として、一番心配しているのは
み言を聞き、恩恵を受けてそれで終わるのでなく
その原理のみ言を受肉して人格化させねばならないということです。

今まで(見てくる中で)、み言に出会うと、そのみ言に陶酔して、
あたかも小さい子供がおもちゃを持って遊ぶように喜んで、
終わってしまう場合が数多いように思われます。

今はみ言を宣布する時期というよりは、そのみ言で人になるときです。

初期には信仰が幼く世間知らずで、神様がくださったみ言を
嬉しく楽しく受け、その気分と一つになって事を成してきたのですが、
今になってみると人格と生活に連係させなかったような気がします。

もし、み言を聞いて喜んでばかりいないで、
「人になる」ことを心配したならば、
今日よりもっとましであったと思うのが私の心情です。



み言を伝える立場の人たちが、
今まで、多く離れていったのは、
やはり、み言を受肉していなかったこともあるでしょう。
李ヨハネ先生もそのことを痛感しておられます。

古い大先輩たちが、
お母様のもとを離れていくのも、
心痛いことではありますが、
神様の代身である、真の父母様を
正しく見つめていくこと、
そして、お父様とお母様が一つであること、
そのことを、はっきりともう一度、
認識しないといけないのではないでしょうか。

何よりもみ言は、人の為に語ったとしても、
それは自分のためであり、私自身が受肉するものである。。
そのことを肝に銘じないといけないと思うのです。。。

明日で最終回になります。





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2017年06月09日

過去の罪に悩む人に── 神はあなたの罪を忘れました?! 《李ヨハネ先生のベスト・アンサー》




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李ヨハネ先生の『ベスト・アンサー』
食口からの質問形式の回答文は、今日が最後です。

今回は、
『過去の自分の犯してきた罪を反省してみると、
もう取り返しのつかないような気持ちに襲われてとても苦しみますが、
どう心を整理すればよいのでしょうか?』
という質問に対しての回答です。


過去の問題は忘れなさい。
神も忘れようとするのです。

今来た人は、放蕩息子のようにして、帰ってきたのです。
財産がなくても問題ではありません。
生きて帰ってきたことが最高だ! 

これからが問題です。
今まで心配させて、これから無責任な立場に立ったら
親を悲しませる人間になってしまうのです。
親は、今までのことを忘れるのです。
それが親です。


また罪を犯した者は、罪ばかり考えているのです。
罪ばかり考えるから自殺してしまうのです。

まず、これからが問題であることを納得させることです。
それによって自分の罪を発見したと、喜べばいいのです。

自分は罪を犯して本当に恥ずかしいけれども、
恥ずかしい立場に立ったから、これからは希望がある。
希望ある立場に立ったと見るのがいいのです。

光の前に自分の汚れを発見した。
それを納得させて、安心させて、
これからを重要視すれば、解決してしまうのです。


それをまた、自分の問題とだけ思ってはいけないのです。
全体がこのような精神をもっていると思って悲しむのです。

その時、蕩減条件とか何とか考えないで、感謝して、
「これは世間の罪だ、よーし」と思う、
これくらいの自信をもった人なら、
信仰でもって簡単に解決できるのです。


積極的な信仰をもちなさい。

「人が嫌なことを私に任せなさい、
死んでもいいから私に苦しみを与えなさい。
全人類が祝福を受けるならば、私を祭物としてください」
と祈るのです。


だからイサクを殺そうとしたのです。
死のうとするものは生き、それを避けようと思う人は、
かえって苦しみを繁殖させるのです。

苦しみを喜んで受けようとする者は、
苦しみがなくなってしまうのです。

「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」
というこのみ言は、積極的に死亡に対していく人で、
死のほうが逃げてしまうのです。


その時こそ、また「原理」を学ぶのです。
何か葛藤した時に「原理」を学ぶのです。

「原理」の勉強の仕方は、そこにあるのです。
本ばかり読んで「原理」を学ぶのではありません。
先生は、本ばかり読んでいる人を育てようとはしません。

何でも実践させて、学ばされるのです。
だから、修練会というものを何週間かやって、
すぐ開拓に出発させる。

そこに先生の教育の仕方があります。
世間とぶつかって、その中で自分を再創造していくのです。

過去のことよりも再創造、
これからの道を真剣に考える必要が出てくるわけです。




「親は、今までのことを忘れるのです。
それが親です」
これは本当にそうだ、と思います。

子どもにおねだりされて、
「これが最後だよ」
「わかった」
しかし、子どもはそれで終わらない時がありますね。

真の父母様もそうではないでしょうか。
最後の恩赦として、聖酒を与えてくださるのに、
また、改めて赦してくださる。。。
これは、本当に親だからこそ、
私たちに与えてくださるものだと思います。

しかし、おねだりされて与える立場としては、
内外の犠牲が伴いますね。
同じ気持ちでは与えることができません。。

神様も真の父母様も、「忘れる」ことをしなければ、
与えることができないのだと思います。
そして、その親の心情、立場を理解したときに、
初めて新しい出発ができるのだと思います。




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