2020年09月25日

反対する人たちを最高級にもてなしながら、信徒を犠牲にした理由 《金元弼先生》



1954.jpg


金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言です。
『神の心情と先生の路程』を紹介します。


(文)先生はこの道を歩きながら、本当に人々から
いろいろな中傷、謀略、迫害を受けています。

けれども、先生はこれに対して、御自身を中心として
絶対に弁明しようとされないのです。
というのは、神がそのように人間から
中傷、謀略、迫害されたからです。

唯物論者は、神に対して何と中傷しますか。
神がいないと中傷します。
謀略を行います。
共産主義者たちは迫害します。


しかし神は、これに対して弁明しないというのです。
ですから先生は中傷、謀略、いろんな迫害があるとしても、
これに対して弁明しようとされないのです。

神がこのような道を歩いたのだから、
全人類が、全先祖たちがこういう中にあって
全部しくじっていったのだから、
その人たち全部の恨みを解いてあげ、
解放してあげなければならないのです。

その立場の先生ですので、絶対に御自身を中心として、
この問題を解決しようとなさらないのです。


既成教会の人たちは、先生に対していろんな迫害を加えています。

先生についていく統一教会の食口たちは食べ物もなく住む家もないのですが、
かえって反対する牧師さんたちのためには、
お金を借りてでも良いホテルで最高級の食事を御馳走してあげ、
丁寧にみ言を教えてあげるのです。

怨讐だとするならば、こんな怨讐はないのですけれども、
先生は愛によってその人たちを迎えるのです。

愛する兄弟たちを、食べ物も家もないという所に置きながらも、
先生はそういうふうにしているというのです。

神の心情が分からない人たちは、
「あの人たちは食べても感謝もしない、
み言を聞いてもかえって統一教会は異端であるという、
そういう人たちをなぜこういうホテルに泊めて、
最高級の御馳走をするのでしょうか。

もし私たち兄弟に少しでもお金を援助してくださるならば、
何倍もの活動ができるのに、なぜこういうことを
するのでしょうか」という人もいるのです。


しかし先生はそうしないのです。

今年(一九七五年)になって初めて、
本部や地方で教会を建設するのを助けました。
今までは絶対そんなことをしなかったのです。

そういうことですから、すべての問題解決は、
自分を出してするのではないのです。
そうすれば、私たちは、信仰や親の心情とは何だろうか
ということについて一つひとつ、
自分も知らないうちに、その内情の世界に接していけると思います。


「悔い改めは出発の時と同じ」 
一九七五年十一月二日川崎・楚麗邑


真のお父様は、蕩減復帰原理に則って、
『近い者よりも遠い者を愛する道』を歩まれました。

それは、神様が行かれた道だったからです。
その道は簡単な道ではなかったでしょう。

聖歌第40番「主の道」
第4節の歌詞が浮かんできます。

わが主の苦しみを、偲(しの)べば力は湧(わ)
神も行かれた道、私たちも行こう

今は天一国時代、建設の時代ですが、
このように歩まれた真の父母様がおられたので、
今の時代があると思いつつ、
また、この原理原則の道を
しっかりと相続する私たちでありたいと思います。






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posted by ten1ko2 at 08:50 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月20日

よかったから感謝するのは当たり前?! 3段階から4段階目の「感謝」へ 《礼拝説教》



200920-20200904.jpg


家庭連合・説教ブログから
「感謝の信仰生活」という説教を紹介します。


お母様は感謝ということを何度となく強調されています。

それで感謝について、
三段階という観点から考えてみたいと思います。


まず第一段階としては、恩恵があったら感謝をする。

これは一般の人でも当然するでしょう。
しかし、一般の方は「ありがとうございます。おかげで助かりました」
と言って、目の前の人に感謝しますけれども、
私たちはさらに神様にも感謝します。

自分の子供が無事に生まれた、孫が無事に生まれた。
子供が成長して小学校に入学した。
あるいは難関を突破して、何々大学に合格した。
これはうれしいことで感謝すべきことですが、
神様に感謝を捧げることを決して忘れてはなりません。

その時、ただ感謝するのではなく、
謙虚である、謙遜であるということが必要です。

このような恩恵と恵みを受けるにふさわしい私たちではないにもかかわらず、
そのような恩恵と恵みを頂くことができた。
このように思うべきでしょう。


お父様はこのように言われました。

「あまりに足りない自分に
 望みもしなかったものを整えてくださった
 神様に対して感謝しなければなりません。

 恥ずかしさを感じながらもらったので、
 与えながらも恥ずかしさを感じることができる
 心の姿勢を持つ人は、
 絶対に滅びることがありません。

 そのような人は
 感謝する生活を忘れないということを
 皆さんは知らなければなりません」



「もし、アダムとエバが
 取って食べてはならないという
 神様のみ言を聞いたとき、
 このみ言を感謝して受け、

『あまりにも高く尊いお方が
 恥ずかしい我々に
 このようなみ言を下さるとは……』

 と言って、恐れ多い心で頭を垂れ、
 自分たちは慎重に行動しようという
 心をもって生活していたとするならば、
 堕落はしなかったはずです」



このように恩恵に対しては謙虚さと謙遜さと持つことが大切です。


これが第一段階だとすれば、第二段階は何でしょうか。
 
第二段階は何もなくても感謝するということです。
恩恵があって感謝するのは、ある意味、当たり前でしょう。
しかし、何もなくてもいかに感謝していけるか。

きょう私は礼拝の場に来るのに電車に乗り、橋を渡り、
116段の階段を上り、1時間かけて来ましたが、
その間、特別に良いことはありませんでした。

しかし、電車を造ってくれた人や橋を架けてくれた人、
そして階段を造ってくれた人がいたおかげで、
1時間で来ることができたのであって、
そうでなければ、私は昨夜、自宅を出発しなければ、
この時間にここには立てないのです。

何事も良いことが起こっていないようだけれども、
実は神様によって支えられ、生かされているという、
感謝すべき内容がたくさんあるという話です。


ですから一段階目の恵みを下さった神様を、
分かりやすく、「見える神様」と表現するならば、
二段階目の神様は「見えない神様」と言えるでしょう。

「見える神様」に感謝するだけではなく、
「見えない神様」にも感謝するのです。

神様はシャイな方です。
「俺がやった」と出てこない方です。
姿形を現さずに、謙虚に、謙遜に、神自らが、
分からないように、私たちを生かしてくださっています。

ですから、私が「見えない神様」をあちらこちらに探し出して
感謝しないといけないというのです。
そのように、何気ない中に神様を発見できる感受性を持ちたいものです。


三段階目は試練があってもいかに感謝できるかです。
困難な状況に陥ったとしても、難しい局面に放り出されたとしても、
いかに感謝できるかということです。

「見える神様」に感謝、「見えない神様」に感謝、
そして三番目は「居ない神」に感謝ということです。

神様が居ないわけではないけれども、
神に捨てられたような、神がどこかに行ってしまったような、
そういうような状況で、「神も仏もあったもんじゃない」というような状況で、
いかに神に感謝するかということです。


昔、中村久子さんという、手足のない方がおられました。
五体が不満足であるということのゆえに、
苦労をたくさんされましたけれども、
そのことから得るものがたくさんあったというのです。

そのことで人間として成長して磨かれたというのです。
むしろ手足がないことが自分の財産だというのです。
人生というものを恨むことなく、肯定的に捉え、
多くの人たちに夢と希望と力を与える人になったという話です。

貧しい家に生まれた人は、努力したら立身出世もあるでしょう。
しかし、手足は生えてきません。
心を変える以外ないのです。
そして、心さえ変わるならば、五体が満足な人以上に立派な人間にもなるし、
多くの人に影響を与えることもできるという話です。

人間の精神の素晴らしさ、心の素晴らしさ、
環境とか肉体がどうのこうのという問題は我々にとっては
言い訳でしかないということを教えられます。


私たちも、困難や試練があっても神に感謝していくのです。

「神様、私よりもあなたのほうがもっと困難なのでしょう?」と、
自分が困難な状況にあっても、神様の事情を考えてあげることができ、
「私はこれくらいのことでは負けないので、神様、大丈夫です」と、
むしろ神を慰める、そのような者がいたら、親としては、
その子供を見てどう思うでしょうか。

親であるならば、子供にああもしてあげたい、
こうもしてあげたいと思うでしょう。
しかし様々な事情があって何も買ってあげられない。
いつも同じ物しか着せられない、穴の開いた物しか着せられない、
ろくな文房具も買ってあげられないと思うのです。

しかし、子供が「お母さん、いいよ。
それでも僕は一生懸命勉強するからね」と、
そういう子供の姿を見たら、親は泣けてしょうがないでしょう。


恵みがあった時に、神様に感謝する。
何事もなかった時に、神様に感謝する。
どんな困難が起こっても、神様に感謝する。

これで一応三段階ですが、実は、さらにもう一段階があります。


お父様は「神様に感謝される者になれ」と言われました。

ですから四段階目は、
神様から感謝される私にいかになるかです。

お父様は生前、自分が霊界に行ったときに
神様とどのように出会うかということを考えているとおっしゃいました。

その時に、自分が神の玉座に走って行くのか、それとも神様が、
その玉座から転がり落ちるようにして私のほうに走ってきて、
私を抱きしめて迎えるのか、
どのようにして神様と出会うのか、というみ言があります。


私が霊界に行った時に、神様から

「お前は地上でそのような困難な道でありながらも、
信仰を棄てずに、曲げずに、
事情もよく分からなかったにもかかわらず、
感謝しながら一途に歩んだ。
お前に話してあげられなかった、いくつもの事情がある。
今だからこそ、やっとお前に話せる」

と言って、神様が泣きながら、
地上にいた時にああもしてあげたかった、
こうもしてあげたかったけれども
することができなかった事情の全てを、
霊界で私たちに感謝しながら
語ってくださるような場面がなければならないでしょう。

傲慢かもしれませんが、そういうことを夢見ながら、
私たちは地上における信仰生活の質を高め、
神様との父子の深い絆を結んでいきたいものです。

以上のような四段階の感謝の生活をすることが、
私の「孝の生活」です。
生涯を感謝で歩む孝子・孝女となりましょう。

家庭連合・説教ブログ
「感謝の信仰生活」


『感謝』に対して、とてもわかりやすく解説してくださいました。

三段階目の感謝の基準は、試練に感謝する、
まさにピンチをチャンスに変える、
ということになるかと思います。

苦しい時、ハプニングが起こった時、
そういう時に感謝する、というのは、
大きな転換になると感じます。

そして、四段階目の感謝の基準は、
「孝情」ということになると思います。

自分の良心基準を高めて、
天に喜んでいただけるように、
「感謝」の生活を送っていきたいものです。





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訓読:父母様のみ言から

 私が与えても恥ずかしがる心の姿勢、もらえば恥ずかしく、おそれ多くて、どうしたらいいのか分からないという心の姿勢を常にもって生きる人が、感謝の生活をする人です。
このような人を通して新しい歴史が展開するのであり、このような内容を通して天国が成し遂げられるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。それゆえに皆さんは、自分が処している位置で、涙を流しつつ感謝しなければなりません。
 あまりに足りない自分に望みもしなかったものを整えてくださった神様に対して、感謝しなければなりません。恥ずかしさを感じながらもらったので、与えながらも恥ずかしさを感じることができる心の姿勢をもつ人は、絶対に滅びることはありません。そのような人は、感謝する生活をせざるを得ないということを、皆さんは知らなければなりません。もし、アダムとエバが『取って食べてはならない』という神様のみ言を聞いたとき、このみ言を感謝して受け、あまりにも高く尊いお方が『恥ずかしい我々に、このようなみ言を下さるとは』と言って、おそれ多い心で頭を垂れ、自分たちは慎重に行動しようという心をもって生活していたとするならば、堕落はしなかったはずです。
(中略)
歴史過程には立派な人々がたくさんいましたが、与えても足りないことを感じ、もらうときは有り難く受け取る人がいなかったのです。その格好はどうであっても、感謝してもらい、有り難くもらう人のみが神様を愛することができるということを、皆さんは知らなければなりません。

 将来、私たちは何を誇るのでしょうか。神様が下さるものをいつでも感謝して受け取り、いつでも有り難くもらえることが私たちの誇りであり、また、有り難く与えられる心をもったということが私たちの誇りです。このような伝統を立てていく皆さんであるならば、その伝統は、世界の歴史とともに切れることがなく、永遠であることでしょう。そのように生活する人のみが、神様に感謝する生活をなす人です。

 私たちが世界に残ることができる道は、全てのことに感謝する生活をする道だけであるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。生死の問題を中心として堕落したことが起源となり、このような曲折の道をつづってきたのですから、これを越えていくためには、現実を否定し、未来を肯定しなければなりません。現実において未来を肯定する心を受け継ぐためには、感謝する思いで、『全てを与えられる』という心をもたなくてはなりません。このような心がなくてはならないというのです。これを知って実践していく人は、間違いなく神様の息子、娘となれるはずです」
(1970年10月25日)



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2020年09月18日

こんな私が、神の働ける私になるために──こう祈ってみよう 《信仰生活講座》



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前川講師の、「天一国時代の信仰生活講座」より、
「神様が共にいれば、できないことはない」

召命について、先回の続きです。


知って、定めて、召命する、ここまでが神様の責任です。
それを実らせるか実らせないかは、私たちの責任です。
私たちがいかに責任分担を遂行するかにかかっています。

しかし、私たちにそれを果たす自信があるでしょうか。
信仰も幼く、心情も能力も実力も足りない私たちです。

ところで、自信というのはどこから来るのでしょうか。
能力や実力があれば自信が湧いてくると思いますか。

お父様は、
「渉外力やみ言(ことば)の力、経済力などは、
徹底した訓練を通してついてくる」
と語られましたが、そこに到達するまでどうしたらよいでしょうか。

自分が自信のないことをしようとするときは、
神様に祈るしかありません。
自信がないから、必死にお祈りして、
一生懸命、伝道や学業、仕事に励むのです。

そうすると神様が応えてくださいます。

何よりも、私たちは真の父母様の勝利によって、
人間始祖アダム・エバの堕落以前の時代を迎え、
基元節(天一国元年天暦一月十三日)が宣布されました。

それは堕落前の状態、つまり
神様と一問一答を交わした創造本然の世界です。

だからこその報告祈祷です。

「〜してください」「こうなりますように」
と祈るのではなく、自らが実践した内容を
具体的に神様に報告し、神様のみ声に耳を傾けるのです。

神様が働いてくださることで勝利できたという体験が必要です。
このような体験を積み重ねていけば、
「神様が共にいれば、できないことはない」
という確信が生まれてくるでしょう。

大切なことは、神様が働ける自分になることです。
どのようにしたら神様が働ける自分になるのかを知ることこそが、
一番大切なことです。

スマホで立ち読み Vol.10
『天一国時代の信仰生活講座』(9)の後半
第一章 神による召命
4. 召命された者の立場
(二)神様が共にいれば、できないことはない
前田千代子・著

(季刊『祝福家庭』で10回にわたって連載され、
好評を博した「信仰生活講座」を書籍化。
千葉中央修練所で長年行われてきた
講義のエッセンスが詰まった一冊。
Blessed Lifeより)


基元節の宣布、というのは、
人類歴史の大転換、ターニングポイントでした。

外的に見ると、その変化を
私たちには、見ることができませんが、
霊的に見るとこれ以上の変化はありません。

ですから、祈祷するにおいても、
神様が働く勝利圏は拡大しているので、
祈って実践することを通して、
導かれていくのだと思います。

まさに、自己牧会プログラムに通じますね。
時代の恩恵を自分のものにしなければ、ですね。





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