2021年03月04日

勝利のあと失敗しやすい?! 真の父母様の越え方は 《金元弼先生》



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金元弼先生のみ言、
「授受作用から見た喜びと失敗」の  
後半部分を紹介します。


それゆえ、私の心がプラスの立場に立っているときには、
早くマイナスの立場を考えなさい。

マイナスの立場に立っているときには、
早くプラスの立場を考えなさい。
マイナスの立場に立っているときには、
必ずプラスの道を見付けなさい。

そうすることによって授受作用するのです。


今お話ししたようにするならば、喜びの中にあっても感謝しながら、
神がこのようにして苦しまれたので、
私に恵みや喜びが来たのだということを考えるときには、
喜んだ後に寂しいと感じることはありえません。

そして、いくら苦しいことがあっても、死にたいことがあっても、
このような考えをもつとするならば、
神の恵みを見付けることができます。

授受作用できずに、喜んでばかりいたら力が全部消耗するし、
また悲しんでばかりいたら、悲しみで全部の力を消耗し、
何もなくなってしまうのです。


世の中には、そういった例がたくさんあります。

山登りは非常に困難が多いけれども、
登ったときの喜びを考えながら登ります。

そして下りるときには、注意深く登った心で
下りるとするならば、失敗しないのです。

そういう心をもたないで、
そのまま下りていったら失敗しやすいのです。
転落することがあるのです。


お金がなかった者に、急に大きなお金ができると、
それによって人は失敗しやすくなります。

ですから、貧しい人がお金持ちになったときには、
お金のない人のことを考えて、
初めてそのお金を維持していくことができるのです。


皆さんが四十日の蕩減条件を立ててお祈りをしたとしましょう。
四十日を勝利するのは非常に難しいのですが、
勝利した時には大きな喜びを得るでしょう。

その時に失敗しやすいのです。

喜びがもたらされる前の、
四十日の苦しみの過程を考えないからです。
それを考えながら喜びを享受するならば、
絶対にそんなことは起こりません。


教会草創期のメンバーたちは、恵みに、
真理に触れてよみがえった心持ちで、
その喜びのままにどうしようもなくて駆けつけてまいりました。

そして伝道は統一原理を語るというよりも
「メシヤが来ました」と言って伝道するのです。

そういう喜びは必ず心の中に秘めておかなければいけません。
喜びを与えるために今まで苦しまれた
神を考えながら喜ばなければいけないのです。
でないと、ややもするとそういった失敗を起こすことがあるのです。

喜びにあふれていたから、
先生の言うことをよく受けとめて聞けなかったので、
家庭や教会からたくさんの迫害を受けるようになったのです。

そこでメンバーはその蕩減を受けるのですが、
その上、メンバーをリードしている先生が
すべての蕩減を受けるようになったのです。
お分かりですね。


これから皆さんに難しいことがあったり、
あるいは喜ばしいことがあったりしたときには、
いつも授受作用の原理を頭に思い浮べてほしいのです。

私たちは喜ぶときには、躍り上がるように喜び、
悲しいときには人が見て
すぐ分かるように表情に出しますけれども、
先生をずうっと見てまいりますと、
先生はそういうことがあってもなかなか表されません。

先生に良い報告をした人が、“こんなにいいことなのに、
先生は喜ばれないのかなあ”と思ってしまうほど、
本当に無感覚のような様子のときがいくらでもあります。

しかし、何日か後になってみると、
そのことを人の前でお話しするのです。
それを見て、“ああ、先生は
非常に喜んでおられたんだなあ”と分かるのです。


反対に悲しいことがあっても、
先生は全然それを表さないで黙っていらっしゃり、
かえって喜ばしいことを話されるのです。

マイナスの心のときに、
先生は意識的にプラスの心に誘導しようとなさるのです。
ですから先生はそれほど感激も見せず、
またそんなに悲しい顔も見せないのです。

それで先生をいつも眺めていますと、何も語らず、
古い苔の生えた岩のような感じがします。

先生は本当にたくさんの事情を抱え、
感情を抱えておられますけれども、
それを表さないので非常に重く見えるのです。
授受作用から見た喜びと失敗

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々


山登りの例えなど、
とてもわかりやすく、
また肝に銘じておくべきみ言だと思います。

寂しい時を乗り越えるお父様のことを思ったら、
興南のお父様が浮かんできました。

「神よ、大丈夫です。
私はこんなに元気ですから心配しないでください」
そのようなお父様の精神は、
マイナスの立場でも、
プラスを見つけていかれた、
貴い道であったのでした。。。

苦しい試練の時は、
真の父母様の歩まれた道を思い出し、
恵みを受けた時には、「栄光在天」する。
本当に常に意識していきたいです。



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2021年02月28日

ヨブのようにすべてを失っても、神に感謝できますか? 《奈田壽美子先生》

サタンを知らなければならない!
──罪を自覚すれば、メシヤに至る




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(ヨブと友人たち)


奈田寿美子先生の「父母と共なる生活」
今回は、『罪の自覚』です。


今まで述べてきたように、メシヤに会うためには、
まず、罪を自覚しなければなりません。

罪を自覚するためには、
サタンの存在を知らなければならないのです。

私はそれを説明するために、ヨブ記の例をよく挙げます。
サタンは、見るからにサタン的な人には積極的に近づきません。
それはもうすでにその人の中にサタンが入ってしまっているからです。

ですから、特に「自分は大丈夫だ、自分は一生懸命やっている」
と思っている教会員に対して、このヨブ記を例にして話すのです。

これを研究すると、神とサタンが
どのようにして人間を奪っていくかという内容がよく分かります。


ヨブは本当にまじめで立派な人で、
砂漠地帯の族長であったといわれます。
その当時で言えば、ちょっとした王様のような立場の人です。
財産はあるし、人々に対しては温情があるし、
みんなから尊敬を受けています。

ところが次々と災いが降りかかってくるのです。
家畜が焼き殺され、下僕が打ち殺され、
息子や娘たちまでが死に、最後には自分までが癩病に犯されます。


それはサタンが神に向かって、
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」
とささやいたためなのです。

この「いたずらに」という言葉がとても意味が深いのです。
人は何か見返りがあるから神を信じているのではないかというのです。

この考え方は、先に話したニーチェのように、
何か得があるから神にすがっているだけの話だというもので、
こういう考え方が昔からあります。

そこから、信仰者は卑怯だとか、
弱虫だという論理が出てくるのです。
そういうところから巧みに唯物論が分かれて出てきたのです。

ヨブがたどってきた路程を見ると、
最後には悔い改めに至り、神様は再び許しと恵みを与えられるのです。


ここで罪とはどういうものかを考えてみましょう。

一般には大体、罪を性的なもの、男女の情欲に結びつけがちですが、
そうではなくて、自分が神から離れていること、
いかに自分が神から遠いかということがまず第一の罪であり、
罪に陥った姿だといいます。

神を知らない、霊界を知らないことが
情をもてあそばれる原因となるのです。


とくに今は、フリー・セックスの時代といわれ、
何かしら心に引っ掛かるような問題を持っている人が多いと思います。

それで最初に罪の問題を突きつけられると、
ぐっとのど元を締めつけられてしまい、
苦しくて前に進んでいくことができないのです。

それがずっと引っ掛かって
仕事に手がつかないということにもなりかねません。

そうではなく、罪が自然に分かるという方向で、
罪の自覚が生じてくるようでなければならないのです。
そうでなければ、本当の悔い改めにも至ることはできません。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
三 罪の自覚


聖書にあるヨブ記は難解な書であるとされています。
ヨブは、サタンから試練を受けた時、
妻から「こんな大変な目にあったのだから、
あなたは神を恨んで死になさい」と言われます。

しかし、聖書には、
「ヨブはそのくちびるをもって
罪を犯さなかった」とあるように、
口と行動で罪を犯しませんでした。

恵みを受けるために信仰をする、
よく言われる「ご利益信仰」
この信仰を続けると、サタンが讒訴した時、
足元をすくわれてしまいます。

試練にあった時だけでなく、常に
私たちのすぐそばにいるのが、サタンです。

ヨブのように普段から感謝の生活をし、
神様から離れない、それが大切なのではないでしょうか。

男女の性的問題が罪として引っかかるのではなく、
その前に、神様から離れてしまっていることが
問題だと奈田先生も言われています。

いいときには喜び、何かあると不満をいい、
神様とは関係なく、自分勝手に生きていることが
いかに天の悲しみであり、罪なのか。。。

いつも神様と共に、父母様と共に生活する、
そのような感謝の生活の積み重ねの中で、
人が試練ということが来た時にも、ヨブのように
神様を恨むことなく、むしろ感謝して
乗り越えていくことができると思うのです。





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2021年02月23日

伝道が実るための必須事項・・・一つになる *劉孝元先生のエピソード



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以前、本部で伝道教育部長をされていた
篠崎幸郎先生(現:地区教育部長)が書かれた
「喜びと幸せの生活伝道」という本があります。

伝道するにおいて、私もとても参考にさせて頂きました。
特に心に残っている部分を紹介したいと思います。


  神様が取ることのできる条件

責任者(アベル)と食口(カイン)の一体化を阻む障害として、
例えば、アベルの堕落性、互いの性格の違い、
そして意見の相違などがあります。

互いにみ旨を愛し一生懸命取り組んでいるのに、
責任者と食口の意見が合わないということが起きるのです。
この意見の相違という問題について考えてみます。


韓国の草創期の、劉孝元先生と
食口たちとのエピソードを紹介します。

あることを進める際、AとBのどちらの方法が良いか、
劉孝元先生と食口が相談しました。
食口たちはどう考えてもBが良いと思って
劉孝元先生と多くの意見交換をしましたが、
最終的に、劉孝元先生はAで押し切ったそうです。

そして、その結果は良くありませんでした。
皆は「だから言ったじゃないか」
と言って劉孝元先生を批判しました。

その話が真のお父様まで届いたそうです。
ところが、お父様は
「それでも劉協会長が正しい」
とおっしゃったというのです。


なぜでしょうか?
AよりもBのほうがいいのに、中心者が認めない。
だから自分でやって中心者に認めさせようという発想は、
たとえ七の実績が上がっても、サタンが持っていくというのです。

三の実績しかなかったとしても、
神様が主管されることをすべきだというのです。

原理的な条件があれば、神様が
さらに大きな恵みを与えてもサタンは讒訴できません。
神様がお取りになれる原理的な条件があれば、
神様はその条件をもって摂理されるでしょう。

重要なことは、サタンが侵入することの
できない基台をいかに立てるかなのです。


堕落の血統を受け継いだ私たちにとって、
「堕落性を脱ぐ」ことは簡単ではありません。

アベル・カインの関係を通して、
堕落性を脱ぐための闘いも起こります。
特に、伝道においてそれが起こりやすいのです。

闘いが生じることは悪いことではありません、
それは歴史的な蕩減を懸けた闘いなので、
すべてに意味があります。

伝道においては、アベルとカインが
その立場に置かれたことを感謝し、
互いの立場を尊重しながら一つになったときに、
神様の愛が流れ、新しい生命として霊の子が誕生するのです。

アベルとカインの愛の秩序が立ったとき、
伝道は実るようになっているのです。

篠崎幸郎著「喜びと幸せの生活伝道」より


このみ言を初めて読んだとき、
結構、衝撃を受けました。

劉孝元先生だけでなく、
お父様ご自身も、実績が少ない、
「劉孝元先生が正しい」と言われたのです。

これは、お父様が劉孝元先生を好きだから、
という理由ではなく、
アベル・カインの原則に応じたものだからこそ、
語られたみ言だったと思います。

やはり、供え物は、アベルを通じて、
神様が取られるものであるし、
一つになることが、目的であることを
教えていただきました。

今、天の父母様聖会が設立され、
新しい体制になりました。
天の願われる方向性と一つになって、
目の前の中心と一つになって、
新しい出発を成していきたいと思います。





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