2019年12月10日

回答編・なぜ祝福家庭に怒りや不安がなくならないのか?! 《氏族伝道の心理学》



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2019 アフリカ大陸サミットおよび孝情家庭祝福祝祭
(2019.12.7) ヨハネスブルグ FNBスタジアム☆


大知(おおとも)先生の『氏族伝道の心理学』
今回は、「解決のポイント、授受作用の力」、
先回の回答になります。


この疑問(原罪を清算され、サタンとの血統的な因縁がなくなった
祝福家庭の中の不安と怒りが、なぜ減少していかないのでしょうか?)
の回答ですが、それは「授受作用」があるからです。

『原理講論』第一章第二節(二)には、
「あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、
相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、
その存在のためのすべての力、すなわち、
生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。
このような過程を通じて、
力を発生せしめる作用のことを授受作用という」
と書かれています。


私たちは、祝福を通して原罪を清算することにより、
サタンが直接、血統的因縁を通して
相対基準を造成することはできなくなりました。

しかし、私たちは、日常生活の中の人間関係を通じて
たくさんの授受作用を行っています。
そうした日常生活の中で、「堕落性の授受作用」を行っているのです。

家庭生活の中でも同じです。
「不安と怒りの授受作用」が家庭の中にあるために、
家庭の中の不安と怒りが増してくるのです。


ところで、授受作用が行われるためには、
相対基準が造成されなくてはなりません。
相対基準は、似たものでないと造成することはできません。
ですから、創造本性と堕落性の授受作用はあり得ません。

私の中の創造本性の情は、必ず相手の創造本性の情と
相対基準を造成します。
そして、創造本性の情を中心とした人間関係
(授受作用)を作っていくようになります。

一方で、私の中の不安や怒りは、必ず相手の中の
不安、怒りと相対基準を造成し、
堕落性を中心とした人間関係(授受作用)をつくっていきます。

このことを図にすると、図4のようになります。

191210.png


この図から、不安や怒りを動機として発した言葉は、
相手の心の喜怒哀楽の中の、
不安や怒りにしか相対しないことを理解していただけると思います。

教会員は、お父様のみ言を中心として話をすることがよくあります。
み言自体の内容は、もちろん創造本性の内容です。

しかし、どんなに素晴らしい内容のみ言でも、
それを言葉として発する時の情が、
「不安」や「怒り」を動機としているならば、
その言葉は相手の「不安」や「怒り」に届くことになります。


具体的に考えてみましょう。

イライラして子供たちに、
「真の父母様は、こうおっしゃっているでしょ!」、
「大母様は、二世のあり方をこのように語られているでしょ!」
…と話したことがありませんか。

子供たちだけではなく、夫や妻に対しても、
同じような言い方をしたことがあるのではないでしょうか。
相手に伝える内容は素晴らしいものであっても、
たとえ創造本然の内容であるみ言であったとしても、
怒って言っていたとすれば、言われた相手は、
「うるさいな、だから二世なんかに生まれてきたくなかったんだ」とか、
「そう言うあんたはどうなんだ」などと言い返してくるか、
言い返さなくても、心の中でそう思っていることでしょう。

素直に反省することは少なく、お互いの心の中のイライラが増していくだけです。
なぜなら、こちらの怒りは、相手の怒りとしか相対基準を結ばないからです。


では、どうしたらよいのでしょうか。

簡単なことです。
創造本性の情を動機として、夫や妻、子供たちに接すればよいのです。

何も難しいみ言を語る必要はありません。
ただ、相手を思いやる心をもって、
「行ってらっしゃい」とか「ただいま」などと、
普段の生活の中での当たり前の言葉を語りかければいいのです。

そうすれば、創造本性の情から出発した言葉は、
相手の創造本性に届き、温かい、優しい気持ちになるでしょう。

そして、相手も同じように、温かい、思いやりのある言葉を返してくれるはずです。
なぜならば、創造本性の思いは、
相手の創造本性の知情意と相対基準を造成し、
創造本性の授受作用が起こるからです。

いえ、言葉も必要ありません。
相手に対する優しい思いから出た行動、
水を一杯持っていってあげるとか、
ハンカチを手渡してあげるなど、
ちょっとした行為が相手の創造本性に届き、
お互いの創造本性の授受作用が始まります。

それを繰り返していくうちに、創造本性の情が大きくなり、
自然と堕落性は小さくなって、つまり不安や怒りの思いはなくなって、
私たちが目指すべき完成、すなわち創造本然の姿に近づいていくのです。


さて、結論が出ました。
ここまで長々と述べてきましたが、
心の問題を解決する方法は、実にシンプルなものです。

「創造本性で授受作用しましょう」ということであり、
「不安や怒りから発する授受作用をやめましょう」ということです。

「なあんだ」と思われるかもしれませんが、
原理的に考えても、授受作用が
すべての生成と存在と発展の原動力ですから、
当然、こうした結論が出てくるわけです。

大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決
解決のポイント、授受作用の力


シンプルな結論ですが、
とても重要な内容ですよね。

私の心情と動機が問題である、このことは、
本当に肝に銘じていかなければならないと思います。

よき(創造本然の)授受作用のためには、まず、
どちらかが真の愛で愛することが必要になります。

これも、真理ですが、このことを
知ったことが目的ではなく、それを実践しなければ
意味がないような気がします。

み言というのは、人のためではなく、
自分のために(のみ)あるのだといいます。
だから、もしも裁きをもって使ったとすれば、
人の心霊を傷つける、
凶器のようなものになってしまいます。
本当に大切に扱わなければならないでしょう。

人がどうのこうの言う前に、
まずは、私自身から正さなければ、と思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:20 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月09日

ウリヌン ハナダ!! 私たちの家庭と教会に、神様を呼び込むために 《李ヨハネ先生》



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一つになれず
「不和の種」を作ってしまうと
サタンが簡単にやってきます。

それでは、神様を呼び込むためには──
これも簡単です。
一つになることです。
ウリヌンハナダですね。

李ヨハネ先生「私はだれに拠る私なのか」
の続編です。


私たちの思考方式は、自分が主張し、
それが通用しないと争うようになるのです。

自分の考えどおりにいかないといって争うのが家庭不和ではないですか?
多分それ以外には、争うことがないでしょう。
教会でも同様です。


例えば(教会)職員の会議で「野遊会(ピクニック)」という案が出たとしましょう。
ある人が「雪岳(ソラク)山に行こう」と言うと、一方では
「費用がたくさんかかるので近くの公園に行こう」と言います。
そのようになると、もはやすったもんだの争いが起こります。

「毎日行く公園に、何をしようとまた行くと言うのですか?
行ったことのない所に行かなくては」
「だけど、ものすごく経費がたくさんかかるのに雪岳山に行くのですか」
「一年間お金をためてこの時に一度使うこともできないなら、
いったいいつ使うのか?」
「なぜ人の気も知らないで自分の主張ばかりするのですか?」

このように自己主張ばかりするので、争いが起こるしかないのです。
本当に雪岳山へ行きたい気持ちがあるなら、
雪岳山へ行こうという意見を提示し、
あとは相談したとおりに従おうという心でなければならないのです。

少しだけ譲ればいいことなのに、
「雪岳山へ行こう」と言って、
しきりに自分の意見ばかり固執するようになると、
教会に暗やみが宿るようになります。

教会でも家庭でも相談してこそ、結果が平和的になるのです。
このようにしろと一人で決定すると、よくありません。
ですから神の立場を離れることが罪だというのです。


もう一度、もとに帰ってみましょう。
罪とは何だといいましたか?
神の立場を離れることが罪だといったでしょう。

ですから神を喜ばせようとするなら、
神の決裁を受けて生きなさいというのです。
神の立場を離れたということは、
神に決裁を受けなかったということです。

では神はどうすれば現れますか。
あなたと私が和睦すれば、神でしょう。
あなたと私が喜ぶなら、
神様という名詞をつけることができます。

神が別にいますか?
主体と対象が一つになったその名前が神様なのです。
そのように称することができるのです。

神は私を離れても存在することができず、
あなたを離れても存在することができません。

カインとアベルが和睦すれば神が臨在し、
不和になればサタンが臨むので、
神とはすなわち、あなたと私が共に合わさった方です。

職員修練会での説教 
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所



韓国語では神様を「ハナニム」といいますね。
すなわち、「一なる方」とでもいいましょうか。
一つになることが神様なんだ、ということなのだと思います。

アベルもカインもまだ未完成です。
しかし、一つになることによって、
神様の導きがあるのです。

お互いに批判しあっても何の得にもならないし、
生産ではなく、後退してしまいます。。。
特に今は、家庭連合時代に入り、
疎通と共有が協調されています。

自分の主張を訴えるのでなく、
よりよい環境、よりよい教会にするために、
そのためにはどうしたらいいかを中心として、
授受することが大切だ、と思います。

李ヨハネ先生は、1970年代にこのような
貴いみ言を語られているのですが、
今の私たちにとって、とても必要なみ言であると感じます。

ウリヌンハナダ、一つになること。
言うようには、簡単には実行はできませんが、
この言葉を合言葉にしていきたいと思うのです。

続きます。





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2019年12月04日

怒りはなくならないのか?! 創造本性と堕落性はどう違う 《大知先生 心理学》



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ニジェール祝福式☆


大知(おおとも)先生の「氏族伝道の心理学」
先回の『創造本性と堕落性』の続きです。


きれいな人間(完成人間)になるためには、
心の中の捨てるべきごみ(堕落性)と
残しておくべきもの(創造本性)をきちんと区別しなければなりません。

悲しいことですが、「統一原理」を学んでも、
実際の堕落人間は、あまりにも堕落性にまみれているので、
自分自身の創造本性と堕落性の区別がつかなくなってしまっています。


では、簡単なことから始めていきましょう。
まず、「不安」と「怒り」をなくしましょう。
これならシンプルでわかりやすいと思います。

もっとシンプルにしましょう。
大母様が掲げた「天国に行くための条件生活」の第一項、
「絶対に怒ってはいけない」を実行することから始めてみてください。
これならば、誰にもわかることですね。

しかし、理解することは簡単ですが、実行するのは難しいことです。
怒りは、どこからともなく湧いてきます。

妻の顔を見ると、夫の顔を見ると、子供たちの様子を見ていると、
ちょっとしたことで怒りが湧いてきます。


ちなみに、私は、この成約牧会カウンセリングの内容を、
教会員以外の人にも話をしています。
大学の授業の中で講義もしましたし、いろいろな企業や教育委員会など、
様々なところから講演を頼まれたときも、
成約牧会カウンセリングの内容の講演をすることが多くあります。

つまり成約牧会カウンセリングの外向けバージョンということです。

外向けですから、アダムとエバとか、
堕落の動機と経路とか、神様や真の父母様の話はしません。

心の病や問題の背景には、不安と怒りがあり、
それは自己評価の低さに由来し、
その背景には自尊感情のあり方の問題があること、
そして自尊感情の低さは親子関係に由来していること、などです。

そして、教会員の方に言うのと同じように、
「怒らないようにしましょう」と伝えます。

成約牧会カウンセリングの心の構造についての説明は、
教会員でなくても理解できます。
自分の情の構造を見れば、そのようになっているからです。

しかし、「怒らない」というのは、やはり難しいことです。
ある学生は、次のように言いました。
「怒りはなくならないと思います。怒りは本能だと思います」。

怒りが本能である、という考え方は、心理学の中にある考え方です。
そしてこうした考え方は、一概に間違っているとは言えません。


『原理講論』には、次のように書かれています。

天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、
偶発的に生じたすべての性稟(せいひん)を、エバはそのまま継承したのであり、
こうして天使長の立場に置かれるようになったエバと、
再び血統的関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。

そして、この性稟が、堕落人間の
すべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。
これを堕落性本性という
(『原理講論』122ページ)


ご承知のように、これは四つあり、
@神と同じ立場に立てない(ねたみ嫌う)、
A自己の位置を離れる(不義な感情で自己の分限を離れる)、
B主管性を転倒(逆主管)、
C犯罪行為の繁殖です。

このように、堕落人間にとって、堕落性を誘発する「堕落性本性」があり、
これは本能と言ってもよいほど、私たちの中に深く根を下ろしています。
ですから、堕落人間が
堕落性を自分自身で解決することは、極めて難しいのです。

このように考えていくと、怒りを本能だと言った学生は、
あながち間違っているとは言えないのだと思います。


『原理講論』の「創造原理」に、次のように記されています。

本来、「人間の心はその作用において知情意の三機能を発揮する。
神はどこまでも、人間の心の主体であるので知情意の主体でもある」と。

ところが堕落によって知情意は本然の姿を失い、いびつなものになった。
そして、堕落人間の生活環境の影響により、世代を重ねることで、
ますます打撃を受け続けてきたと考えられます。

したがって、正確には、不安や怒りは堕落性自体ではありませんが、
密接に関係し影響し合って起こる心の問題として、
堕落性同様、私たちが越えていくべき課題ですから、
ここでは堕落性と同じように考えていこうと思います。

堕落人間においては、どんなに修養を積んだとしても、
堕落性を脱ぐことは極めて困難です。

私たちの中にある究極の不安は、神様から離れてしまったという不安でしょう。
哲学で言う実存的不安というのは、こうした神様から離れてしまった、
親から離れて孤独になってしまった人類が
根源的に抱えている不安のことを言うのだと思います。

一方、どんなに残虐非道なことをしても、創造本性がなくなることはありません。

私たちは神様から創造された存在であり、
創造本性は創造の際に神様から与えられたものですから、
たとえ堕落することによって神様から遠く離れたとしても、
創造本性は必ず私たちの中にあるものです。


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ところで、図2は、原罪をもっているときに当てはまる内容です。

祝福家庭は、真の父母様の祝福により、原罪を清算されました。
そして、神様との親子の関係が回復されたのです。
ですから、祝福を受けた祝福家庭のメンバーは、二世も含め、
図3のようになっているはずです。

この図は、祝福を受け、原罪が清算されることにより、
堕落性は本性ではなくなり、私たちが神様との関係を回復していく中で、
なくしていくことができるものとなっているのです。

祝福を受けて図3のようになっているとすれば、
堕落性に対するエネルギーの供給源はなくなっているはずです。

その一方で、私たちは真の父母様からたくさんのみ言(ことば)を頂き、
み旨を実践しています。
ですから、時間がたてばたつほど、堕落性は自然と立ち枯れるようになり、
創造本性はエネルギーをもらって大きくなっていくはずです。

そして、最後は、堕落性が消滅して、
私たちは創造本性だけの存在、すなわち完成した人間になれるはずです。


では、現実の祝福家庭の姿は、どのようなものでしょうか。
もちろん、時間の経過とともに、堕落性が減少し、
完成に向かっている家庭もたくさんあると思います。

しかし一方では、時間の経過とともに家庭の中の不安と怒りが増大し、
身動きが取れなくなっている祝福家庭もあります。

そうした問題を抱える多くの家庭が、家庭を出発した時より
現在のほうが問題がひどくなっている、と言います。

また、二世による家庭内暴力という例もあります。
当然ですが、そうした二世も生まれた時から暴力的だったわけではなく、
様々な環境的な要因の中でストレスをため込み、暴力へとつながっていったのです。

原罪を清算され、サタンとの血統的な因縁がなくなった
祝福家庭の中の不安と怒りが、なぜ減少していかないのでしょうか。

大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決
創造本性と堕落性




怒りをなくす、ということ。
大知先生がおっしゃられるように、
口で言うのは簡単ですが、
克服するのは本当に大変です。。。

祝福家庭は、「堕落性はなくしていくことができる」
そのように語られています。
本来ならば、そのようになっているのに、
実際にはいろいろな問題がある、ということです。

「あなたたちは祝福家庭なのに、何だ!」
そうご指摘をする人もいるかもしれません。

次回、先生がなぜ難しいのか、
その理由、また解決案を話してくださるので、
楽しみにしたいと思います。






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教会本部の意向とは直接関係がありません。
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