2018年07月17日

一人になると信仰が弱くなってしまう人に?! 《李ヨハネ先生のベスト・アンサーC》再び



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李ヨハネ先生の信仰講座。
日本食口の質疑応答、続編です。


(質問四)一人だけの歩みだと、
     とかく信仰が弱くなってしまうのですが


今回世界を見ての結論は、
「私たちは世界的だ、全世界が注目する私たちの立場だ」と、
その価値を悟ったのです。

やはり自分を通して
全体、世界、永遠の価値を知らなければならないのです。


私たちの立場は貴重です。

任された立場は神様が必要とされて置かれているのであって、
私たちは神様の立場から見るべきであって、
自分の任された立場で、どれほどその価値を悟れるか、
影響を与えるかという問題なのです。

伝道とは、「原理を聞け」と言うのが伝道ではなく、
私たち同士、どれだけ情的に授受するかということが伝道なのです。

心情の伝道があり、生命の接触、
これが本当の内容、永遠の伝道ではありませんか。


価値ある人は、たくさんの人と付き合っていないのです。
一人と交わってみて、長く忘れられないように付き合うのです。

イエス様は何十万、何百万名を集めて話したのではなく、
一人、二人を人類のごとく愛したのです。


大先生は「韓国で勝利した」と言われても、
韓国の民衆の前に現れたことはありません。

年取ったおばあさんを中心として、何年も暮らした期間があります。
神から「行け」と言われて尋ねて行った平壌で、
一人のおばあさんに尽くして暮らされたのです。

そして世界的に勝利されたのです。
これを勝利して、今どんどん世界的に伸びているのです。


大先生において、生涯誇るべきことは、平壌での出来事でしょう。

牢屋の中で同じ仕事を三年間やりながら、そこで天宙的な価値を立てた。
イエス様は十字架の上で価値を立てた。
勝利の決定をした。

信仰というものは、不信される立場で、認められない場所で立てられるのです。


今まで、私たちは大勢の前では信仰を守ってきたのです。
真剣な表情でやってきたのです。
しかし、一人の時になると信仰を捨ててしまっている。
イエス様とは反対なのです。

私たちは一人でいる時、不信される立場にいる時こそ、
今神がどのように私を眺めておられるか、尋ねてきておられるかを、
よくよく考えてみなければならないのです。



お父様もイエス様も、一人の時ほど、
信仰を発揮していかれた。。。

み言を読みながら、私自身は、
拉致監禁を受けた時のことを思い出しました。

たった一人の状況であったけれど、
切実に神様を求めざるを得なかった。
その時は、深刻に真剣に神様に祈り求めましたが、
神様からの答えはなかったように思います。

いや、神様は直接手をだせなかったのではないか、
そのようにも思います。

しかし、今振り返ると、
そういう時ほど、神様は見守っておられたし、
そのあとの道のりを準備してくださっていた、
そのようにも思います。

一人でいるとき、
信仰が弱くなったと感じる時ほど、
神様が近いのではないか、そのように思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:30 | Comment(1) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月12日

兄弟を神と思って生活 関係が悪いと力を失う?! 《李ヨハネ先生のベスト・アンサー➂》



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李耀翰(イ ヨハン:李(リ)ヨハネ)先生のみ言、
食口の信仰生活に関する質問の回答、続編です。


(質問三)
  霊人体が成長するために、
  どのような交わりが必要でしょうか


例えば、人と会った時、この人とどう付き合うべきかと、
いつも自分に反問して暮らすのです。

いつも反省しながら暮らさなければ、
仕事に支配される僕になるのです。
ほとんどの人が、そうなのです。


ぶどう園の例え話を知っていますか。

朝九時から来て働いた人と、午後三時から働いた人がいて、
朝来た人にも、あとに来た人にも、
五時に帰る時には同じ金額を払ったのです。
すると、朝来た人が不平を言ったのです。
「人をばかにするにもほどがある」と。

しかし、主人の立場では、後者に、
「これは気の毒」と思って善を施したのです。
彼はどれだけ感謝して働いたか。

朝から来た人は、やむを得ず「早く終わらないかなあ」と思うし、
あとの人は、「仕事にあぶれるかと思っていたのに」と喜んでやったというのです。

主人は、その情を見たのです。
情の世界を見たのです。
きっと聖書は、こう解明しなくてはならないのです。

時間さえ過ぎればお金をもらえるのだと、
やむを得ずにやった人と、喜んで二時間やった人とを
神様が見た時に、喜んで二時間やった人のほうに愛が行くのです。
その人に祝福を与えたい、これが親の愛、愛の心です。
 

だからこれは信仰の本質を言っているのです。
主体者に対してどれほど引かれて暮らすか、
どれほどみ旨を喜んで暮らしているか、これが本質なのです。
この心を奪おうとするのが、サタンの側です。

私たちの霊人体は、どういう時に成長するかといえば、
希望に燃えてみ旨に刺激を受けている時は、
霊人体が成長しているのは間違いないのです。
そういう時は、分別しやすく、未来を知るのです。

そうでない人、線のゆるんでいる人には、
急にびっくりするような事件が起こるのです。
それが戒めなのです。
そして、「自分と主体者との関係をはっきりせよ」と、
気づかされるのです。


統一教会の人たちは、最初精神的刺激を受けた動機があるから、
それをゆるめると、自分自身もそう感じて、体も重くなり、変なのです。

夢もおかしいのです。
追いかけてくるようなものを見る。
それを放置しておくと、御飯の味が変になるのです。

病気だからといって休む。
病院に行くと、「病気ではない」と言われるのですが、
その時に、すぐ敏感に悟らなくてはいけないのです。

大先生は、「私たちにはアンテナがある」と言われるのです。
そのアンテナにごみが付いたら、すぐ分からなければいけないのです。


兄弟関係においても、四位基台的関係において
霊人体は成長するようになっています。

カインとアベル関係において、(関係が悪くなれば)必ず力が失われます。
主体と対象関係によって、必ず力が来るのです。

兄弟をいかに貴重に思うか。
貴重に思える時は、相手が相手と見えないで、
神から派遣された者に見えるからです。
そこに四位基台ができ上がるのです。

だから、目に見える人を神となったその人と思って付き合わないと、
相対基準とならないのです。

そういう兄弟には反発がない。
兄弟を無関心に見ないのです。
そういう人は、草一本でも、無関心に見ないのです。



神様を中心に物事を見つめる
李ヨハネ先生だからこそ、
与えられるものが大きいと思わされます。

家庭が壊れ、人間関係が希薄になったこの時代、
私たちも、常にアベル・カイン、人との関りで一喜一憂し
難しさを抱えてきました。

本質が問われる時代となり、
内面を成長させ、本物になっていかなければならないと
切実に感じます。

そのために何より大切なのは、
神様の目で見て、神様の体となって愛することなのかと思います。







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2018年07月06日

信仰生活のマンネリ化から脱却するには?! 《李ヨハネ先生のベスト・アンサーA》再び



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李耀翰(イ ヨハン:李(リ)ヨハネ)先生のみ言、
信仰生活に関する質問の回答、続編です。



(質問二) 信仰生活のマンネリ化から脱却するには


私たちは、自分というものを失っています。
神と自分との関係を体験できないから、結局自分を失うのです。
神と自分との関係を体験できない人は、
それを知ってはいるものの、自己を放置してしまうのです。

主管圏にいながらも、自分というものがはっきりしないために、
どういう立場でだれに所有されて、
だれの願いに存在しているかがはっきりしない。

そして、生活そのものの中で自分の価値を得られないのです。
刺激がないのです。
信仰者でも、そういう人は多いのです。


特に職場にいる人において、失敗しやすいのがそれです。
毎日同じ雰囲気の中で仕事をやらされて、
その量が多過ぎる時は、必ず仕事に支配されてしまうのです。

仕事に支配されると、自分のほうは、ほったらかしになり、重荷になる。
それで肉的に支配され、信仰に失敗する。
動機はあっても、過程で失敗することが多いのです。


だから、同じ場所と思ってはいけないのです。
いつもその場を聖別しながら、人物ならば、
きのうのあの人と思ってはいけないのです。

きのうの私だけれど、きょうの私は
だれを新しく知るべきかと、そう決意するのです。

今はこういう時だと、お父様は私たちに教えてくださいます。
この「時」を私たちは、忘れてはいけないのです。
時を教えるわけは、「あなたたちはこういう時の存在だ」
ということを教えるためなのです。

「世界」と言われたならば、
今、世界的な使命に応じているのだと思わなければならない。
しかし、その価値を発見できず、
時と自分が違うようになると、力が抜け始めるのです。


私たちは、毎日同じ食口だ、同じ場所だ、
これが習慣的になってしまっている。
そこが危ないのです。

健康な人は、毎日御飯の味が違います。
同じく、情のある人は、毎日が違うのです。
情が、喜びの世界が毎日新しく開けるのです。
喜びあふれる人は、いつ会っても新しい感じがするのです。

新鮮さ、刺激があるか。
同じ場所でも希望にあふれている人にとっては、
同じ場所ではないのです。

皆さんが最初に教会に来た時、
きのう来た教会と思ったことがありますか。
いつも初めてのような気がしたでしょう。

恋しい人と会った時に、何遍も会った人と思ったことがありますか。
いつも初めて会ったような刺激を覚えます。
それは間違いないでしょう。


情の世界は成長するから、数学的に、
打算的に考えるのではありません。
情でもって乗り越えないと、
量で来る仕事はやりきれなくなります。

だから、「信仰者は、どんな場面に遭遇しても、喜び、感謝せよ」
と言われるのです。
「そうすれば、勝利する。心配が先に出てくると、
これは情的立場ではないのだから、いつも祈れ」と言われるのです。



確かに、人と出会うことも、
新鮮でないといけないですね。
当たり前のように出会う人たち、
しかし、どれだけ貴重な一人一人かしれません。。。

今日は少し違った意識をもって、
生活していきたいと思います。





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