2021年04月19日

聖くなりたい! 旧約の信仰に学ぶ…人間の為に万物が犠牲に?! 《奈田先生 聖別1》



210213-Gustave Dore - The trial of Abrahams faith  -.jpg


奈多壽美子先生の、「父母と共なる生活」
今日から「聖別の道」を、数回に分けて
ご紹介します。

五 聖別の道
(1)罪からの分離

まず、「聖別」の意味を考えてみましょう。

だれでも聖くなりたいという願いを持っています。

「聖」というのは、ヘブライ語では「分離する」という意味です。
どこから分離するのかというと「俗」からの分離で、
「分ける」とか「切る」という意味があります。

その「聖別」のために、今までの歴史がありました。

したがって、蕩減復帰の歴史というのは分離の歴史であり、
キリスト教の歴史は、聖なるものと俗なるものを
全部分けようとしてきた歴史なのです。
今でもクリスチャンには、何でも分けようとする傾向があります。


 
(2)聖別のための歴史


ではどうして神は、聖を俗から分離するように
摂理を進めてこられたのでしょうか。

それは、復帰摂理的な歴史観から見れば、
中心的な立場を立てなければならなかったからです。

中心は全体を決定します。
したがって、聖別というのは、個人的なものではなく、
世界全体を考えてなされてきたものだと言わなければなりません。

歴史を通して、すべては聖別のための歴史だった
ということが分かります。

聖別を行うために、旧約時代は万物を犠牲にしました。
新約時代は実体の人間を犠牲にしました。
成約時代は心情をささげてきたのです。


聖書を見ると、旧約時代の聖別は
万物を供えて行っています。

アべルとカインに、神は作物や動物の
一番最初にできたもの、つまり初物、初子をささげさせました。

ノアには箱舟を造らせ、モーセの時には幕屋を造らせました。
その幕屋を造るにあたっての命令は本当に細かいものでした。
しかも、まず自分自身を聖別して造るのです。

縫うにしても、一計一針、聖別された行いでなければなりません。
でき上がった幕屋をたたんで担ぐ人も決められていた
というように分離(聖別)して、分離して、分離して、
さらに聖なる物を造っていったのです。

神から遠く離れ、何も分からない無知な人々に対して、
神は聖別の摂理を進めてこられました。

当時は、神が「こう造れ。こうせよ」と言われるから、
そのとおりにやったのです。
それが一分でも狂うならば、すぐにお怒りがくるのです。

アブラハムなどはそのいい例です。
象徹献祭に失敗した(ことで、)後に、再び神は
息子イサクを燔祭としてささげなさいと命じたのです。


そうすることによって、人間は
自分自身を分立することができ、
その結果として聖別されてきたのです。

それは今日でもそのまま有効なのです。
ですから、今日でも供え物をしたり、献金をします。
その他、伝道をしたり、礼拝に参加するときの
心構えなども、聖別の摂理に根拠があるのです。

すなわち神は、人間自身の汚れを、万物を通じて
自分で悟るようにさせてこられたのです。

それで、祭壇の前に行くときや儀式を行うときには、
本当に緊張するのです。

ですから、教会においてもただ礼拝に人を参加させるだけではなく、
礼拝で祭壇を築く新鮮さ、神聖さを
意識させるものがなければならないと思います。


子女教育の話をするときによく言うのですが、
特に小さい子供の場合など、
お水一杯でもいいから神様にささげさせるといいのです。

そのときに母親がきちんとやってみせてあげるのです。
水の持ち方など、何から何まで、例えば右を上にするとか、
左を上にするとか、きちっと決めておくのです。

祭壇に行くときにはこういうふうに頭を下げていくのだとか、
そういうことを一つ教えても、子供は小さいなりに
そのとおりにやろうとして必死になるものです。

礼拝の中にそういう雰囲気があることが重要です。
そういうものが今は本当に足りないのではないかと思います。

聖歌を配るときも、聖歌の置き方、聖書の置き方など、
細かい心配りが必要です。

ここに本当に神がいるのだろうかなどと疑われるようでは問題です。
儀式というのは、神に対する敬虔な思いを
人間に起こさせるものであって、
緊張しないと何にもならないのです。

礼拝堂にただぼんやりと座っていても、み言は心に入ってきません。

 
そういう意味があって、旧約時代には供え物をさせて、
罪の血、死亡の血を流させたのです。

供え物を裂いたり、焼いたり、身と骨を分けて、
内臓のどの部分は食べてもいいが、どれは食べてはいけない
といった、とても細かい規定があったのです。

そうして立派にできたら、
神はその芳ばしい香りをかいだといいます。

これは、自分の言ったとおりに人間がしてくれたことに対する
神の喜びの表現であって、文字通りというわけではないのです。

ですから、儀式に対する神の意図、
つまり何をしてほしいのか、何が欲しいのか、
そういう内的な世界を悟っていかなければなりません。

いずれにしても、旧約時代には、本当に苦労に苦労を重ねて
ささげた供え物が、受け取られるか、受け取られないか
という瀬戸際にある人間の、祭壇の前に立ったときの
心境というものを、考えてみなければならないと思います。
そうすることによって、人間自身が復帰されるのです。


万物を犠牲にさせたのは人間の立場を復帰させる
ためであったと『原理講論』に書かれています。
(その他に、万物自体の復帰という意味も含まれています。)

人間の立場を復帰するというのは、神の前に立つ人間だ
ということを意識させるということです。

統一思想の中には、「対象意識」という概念が出てきます。
人間は格位的存在なのです。
人間はその対象意識に立たなければなりません。
そこから謙遜とか、神に対する畏敬の念といったものが生じてくるのです。

こういう意味をもって神は、万物を犠牲にしてこられたのですが、
考えてみれば、万物は人間のために
黙って犠牲に犠牲を重ねてきたのです。

このことについて、もっと考えてみる必要があると思います。

万物自体は汚れたのでも、堕落したわけでもありません。
万物はただ人間に主人となってほしいと願って、
ずっと忍耐してきたのです。

万物は人間のためにつくったものなので、
神は人間自体を復帰するために
あらゆる万物を犠牲にしてこられたのです。

ですから、人間が目覚めなかったら、いくら献金しても、
いくら働いても、何にもならないのです。
また、神の命令、み言、戒めを守るという意味は
それほど深刻で真剣なことなのです。

一部割愛、編集しています
文責:ten1ko2

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
五 聖別の道
(1)罪からの分離
(2)聖別のための歴史


子女教育については、
子どもの小さいころ、
このことを聞きたかったな、と
思う内容でした。

万物を捧げるというのは、
人間が位置を復帰するためであって、
万物は、ずっと犠牲を払い続けてきた・・・

人類歴史はすべて聖別のための歴史だった・・・

さまざま、とても深い内容を
教えていただきました。

また、不定期に続きます。




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2021年04月17日

不平不満・怒りはサタンの入り口 怒りやすい人が教会に来ると・・・ 《李ヨハネ先生》



210417.jpg


李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「主管性転倒3」です。


主管性転倒(3)

聖書に禁じてあるのも、このことに関してなのです。
すなわち、不平、不安、血気、怒気ということで、
これがサタンが人間の中に入る、入り口なのです。

いつも怒らずに平和に、そして感謝、忠孝、忠誠、
真心、謙遜を戒めとして示してくれているのです。

結局、堕落性を脱ぐには、だれにつながって、
どの立場において情を使うかということにおいて
分別していかなくてはならないのです。

情は、自分勝手に使うのではなく、神に使うか、
あるいは、サタンに使うか、二通りしかないから、
自分の情が神の立場にあればそれは平和であり、
自らを考えずに、迫害されながらも
喜んで感謝して行けるのです。

怒られても、にこにこ笑う。
すると向こうは、もっと赤くなって怒るのです。
というのは、私の血気まで
向こうで引き受けてしまうことになるからです。

例えば、ある人が不平を十もってきて、
私の五つの不平をもらいにくるのです。
私がにこにこ笑うと、その人は十五になって、
血気が強くなってしまうのです。

しかし、もしここでその人に付き合って不快に思うと、
五つをお互いに分配してしまうのです。
分配してしまうから、けんかがすぐ終わってしまうのです。

信仰する立場で反抗すれば、すぐその事件は終わって、
自分もサタン主管圏内に入ってしまうことになるのです。
もし、ここで忍んで笑って耐えるとすれば、
向こうがサタンの部分を引き受けて、蕩減することになるのです。

だから、よく血気早い人は、血気早い人に殴られるのです。
しかし、謙遜な人は、血気早い人に殴られることはないのです。

だから、この教会に来る前に、よく怒ったり、
また人を殴ったりしたことのある人が来た時には、
それ以上強い人に任せて、一度は袋だたきにしてしまう
というような、そういう蕩減をするのです。



血気怒気の情は本当に厄介なものです。

教会での人間関係においては、
ずいぶんと少なくなった気がします。

問題は家庭での人間関係、
夫婦、親子間において、
自分の感情のままに動くことがあると、
血気怒気の情をもってしまうことがあると思います。

最近は、自己牧会プログラムや、
「天寶修行」という言葉があるように、
祝福家庭として、天一国主人として、
より内的なものを質される私たちです。

やはり、家庭も公的なものである、
という思いをもって生活しなければ、と思うのです。




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2021年04月10日

私たちに必要なのは、切実で砕かれた心だった 本当の悔い改めに至るまで 《奈田壽美子先生》



210410-TheWoman-of-Canaan.jpg


奈田寿美子先生の「父母と共なる生活」 
『悔い改め』最後の内容になります。

四 悔い改め
(4)罪との決別

このように指導者は、信仰を持ち始めた人が罪と決別して、
自分自身で善いことも悪いことも公開できるように、
導いてあげなければなりません。

そして、そこで二度と再び罪の世界には戻りたくない、
生命を懸けても戻らないという決意をするようになるのです。

 
(5)救いの切望

そこで初めて、救いを切望するようになります。

「主よ、わたしはあなたに寄り頼む。
 とこしえにわたしをはずかしめないでください。
 あなたの義をもってわたしを助け、
 わたしを救い出してください。

 あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。
 わたしのためにのがれの岩となり、
 わたしを救う堅固な城となってください。
 あなたはわが岩、わが城だからです。

 わが神よ、悪しき者の手からわたしを救い、
 不義、残忍な人の支配から、
 わたしを救い出してください。

 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの
 わたしの望み、わたしの頼みです。
 わたしは生まれるときからあなたに寄り頼みました。

 あなたはわたしを母の胎から取り出されたかたです。
 わたしは常にあなたをほめたたえます」
(詩篇七一篇1〜16節)


ここでよく引き合いに出されるのが、
マタイによる福音書一五章22〜28節のカナンの女のことです。

イエス様が弟子たちと一緒に歩いておられる時に、
カナンの女が悪霊に取りつかれた自分の娘を
何とか救ってほしいと、取りすがってくるのです。

このカナンの女は異邦人だったので、
イエス様は相手にもされませんでした。
弟子たちも「追い払ってください」と言うのです。

イエス様は、「子供たちのパンを取って
小犬に投げてやるのは、よろしくない」
すなわち、お前に与えるパンはないと言われました。

すると、カナンの女は、
「主よ、お言葉どおりです」
と、いったんイエス様の言葉を受け入れます。

これは足げにされたのも同然のことですが、
だからといって、「こんなに切望する自分なのに……」
と、ふてくされてしまったりしません。

そしてさらに、
「でも、小犬もその主人の食卓から落ちる
パンくずは、いただきます」
と、観点を変えてさらに願い出ます。

そこでイエス様は、
「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」
と言って、その願いをかなえておあげになるのです。

このように、神の言われたことをいったん受け入れて、
別の角度からさらに救いを切望するという
柔軟で熱意のある態度が、
この段階においては非常に重要なのです。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
四 悔い改め


カナンの女の話。
これは皆様もご存じかと思います。
そして、彼女の信仰心、イエス様を求める切実な思い、
私たちが学ぶべき姿勢なのではないか、と思います。

私のクリスチャンの知人が、
よくこのように言われます。
「私は、家庭連合の食口である。
祝福を受けた者である。
原罪が清算されている。
そういう上から目線で
ほかの人たちを見ているのではないか」

心のどこかに、「そうではない」
と言い切れない、何かしらの
優越感があることを否定することができません。

そういう意味でも、カナンの女のような、
砕かれた心、謙虚な思いをもち
熱く切実に天を求め、さらに具体的に
実践していきたいと思うのです。






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posted by ten1ko2 at 07:54 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする