2020年07月18日

「あなたは救われていますか?」と聞かれて、「はい」と即答できますか 《橘先生》



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橘先生のコラム、
「こんなことは言っちゃいけな…くないように」です。


学生時代、伝道活動に加わるようになって間もない頃、
先輩がこんなことを言っていました。

「クリスチャンを伝道しようとすると、
 彼らは“あなたは救われていますか?”と聞いてくる。

 “救われているか”と聞かれて僕たちはハタと己を振り返る。
 ‟救われている”という実感、解放感がないので
 即座に“はい!”と答えられないことが多いんだ」

人類の真の父母を知り、長い歴史の中では
一瞬ともいえる今この時を共に生きている。
そのとてつもなく大きな恩恵の中にありながら、
「救われている」と心から言えない…?
(もちろん、全員ではありません)

一般的にキリスト教は「信じるだけで救われる」
「自分の罪は全て主が負ってくださる」と教えています。

一方、統一原理では神様の恨(ハン)
人間の責任分担、失敗の繰り返しだった復帰摂理歴史が説かれ、
私たちは己の堕落性と闘いながら天の願いに応えようとします。

天の切実な事情と願いに照らせば、自分の不足さしか見えてきません。
常に心のどこかに負債を感じています。

示された摂理の方向性に対して、自分の心が
素直に呼応しない場合、負債を感じることもあるでしょう。


数年前、地元で開かれた研修会の折、講師として来られた
入山聖基伝道部長(世界平和統一家庭連合/以下、家庭連合)
「皆さん、(家庭連合の)教会に行っても孤独ではないですか?
疎外感を感じませんか?」と言われました。

覚えがないわけではありませんでしたし、他の姉妹が
同様の事を言っていたのを小耳に挟んだこともあったので、
とても興味深く拝聴しました。

以前ある二世が、「こんなことは言っちゃいけない」という
雰囲気を感じて、教会で自分の本音(負の感情)が言えない
窮屈さを話してきたこともありました。
入山部長が言われたのもこの点です。

でも、負の感情を消化できずにため込んでいけば
当然苦しくなります。
そんな時もし「救われていますか?」と聞かれたら、
やはり「はい」と即答し難いかもしれません。

本音を言えない関係の人たちとでは、
たとえ一緒にいても内心は寂しいものです。


かつて訪れたある教会は、とても温かな雰囲気がありました。
中に通されてあいさつを交わすや否や、
私の心がパカっと開いているのです。
すぐに冗談が飛び出し笑顔での会話が続きます。

初対面なのに肩に力が入らず、これはどうしてだろうと思ったら、
その教会ではメンバーの話を
「否定せず説教せずただ聞く」ことに徹しているそうです。

結果も伴っているとのこと。
とても納得し、感銘を受けました。


先日の徳野英治会長(家庭連合)のメッセージの中に、
「多く許された者が多く愛する」というお話がありました。

信仰に入る動機やきっかけは人によってさまざまですが、
入り口は何であれ、ある時点で
天の父母様や真の父母様から許される霊的体験を
したからこそ、信仰の道にとどまっているのでしょう。

実体の、神様を中心とした家庭、
教会の兄弟姉妹の関係においても、
本音を言っても受け止めてもらえる、
裁かれない、否定されない、
そんな雰囲気がさらに広がっていくことを願います。

こんなことは言っちゃいけな…くないように
ナビゲーター:橘 幸世


地域集会などで、復興している教会は、
お互い本音を話して、その心情を共有し、
家族のようになっているといいます。

基本的に、自分の家庭で起こる
「負」の部分に対しては、
他人であったら言わないでしょう。

しかし、自分のことのように
親身になって受け止めてくれ、
問題解決のために、切に祈ってくれるような、
そういう心情関係であったならば、
話したくなるのではないでしょうか。

統一原理は新しい真理です。
しかし、その基準を相手に求めたら、
裁きしか生まれてきません。
「そう言うあなたはどうなんですか?」
となってしまうかもしれません。

私たちは、
「世界平和統一家庭連合」。

私たちが幸せな家庭、幸せな教会を築くこと、
今はその過程にあると思いますが、
私が、食口たちから愛を受けたり、
天と真の父母様から愛されていることは確かです。

愛と幸福を実感し、感謝しつつ
自信をもって
「私は今、救われています!」
と、答えていきたいと思うのです。






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posted by ten1ko2 at 07:48 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月13日

私たちの信仰は、私ではなく、神から始まった?! 《天一国時代の信仰生活講座》



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前田千代子講師の
『天一国時代の信仰生活講座』です。


私たちは、さまざまな導きを通して天の父母様(神様)に出会い、
このみ旨の道を出発しました。

そして、信仰生活の出発は、自分自身の中に動機があって
始めたと思われている人もいるかもしれません。

しかし、私たちの信仰の動機は神様にあり、
私たちは神様からの召命を受けた者なのです。

それは一世であっても、二世、三世といった
祝福子女であっても変わりません。
ただし、一世は堕落圏内から、
祝福子女は神の血統圏内から召命されたのです。

召命とは、「神様の恵みによって、
神様に呼び出された」ということです。
その神様の召命を受けて、私たちは信仰するようになりました。

ですから、私たちの信仰の出発点は、
自分ではなく、神様にあります。
新しい使命のために、私たちは選ばれたのです。

信仰の動機は、神様です。
決して自分から始まったのではありません。


聖書に、召命について記した箇所があります。
 
「わたしは地の果(はて)から、あなたを連れてき、
 地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、
『あなたは、わたしのしもべ、
 わたしは、あなたを選んで捨てなかった』と」

(イザヤ41・9)


「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、
 あなたを知り、あなたがまだ生(うま)れないさきに、
 あなたを聖別し、
 あなたを立てて万国の預言者とした」

(エレミヤ1・5)


神様は、地の果てからイザヤを連れてこられました。
またエレミヤに対しては、生まれる前から召命したと語られました。

イザヤもエレミヤも旧約時代の人ですが、
現代の私たちについても同じことが言えるでしょう。


神様は、私が地の果てにいたとしても、
生まれる前であったとしても、
私という存在があることを知っていらっしゃるのです。

むしろ、私たちが生まれてきたのも、
こうして生きているのも、
神様が生命を与え、人生を与えてくださったからです。

自分自身を自分の目で見れば、
小さく不足で何もできないような私であるかもしれません。
しかし、神様の目から見ると、全く違う私なのです。

待って待って待ち望んで、ようやく生まれ、
今日まで導いてくださった神様がいらっしゃいます。

私たちはそのような神様によって予定された者であり、
時が来て選ばれた一人一人です。
神様が動機となって、私をこの道へと召命されたのです。

教会とは、建物ではなく、そのような
召命された人々が集まる所を言うのです。

また、私たちは一人一人が、
神様から召命された一人一人であり、
尊い神の子、兄弟姉妹なのです。

前田千代子・著
『天一国時代の信仰生活講座』(2)
第一章 神による召命
1. 信仰の動機とは?
(Blessed Lifeより)


この道に導かれたことは、
どれほど感謝であるか知れません。

しかし、時には、挫折というか、
「私なんて、この道に必要な存在なのだろうか」
そう思ってしまうこともあるのではないでしょうか。

「私」は神様に召されたのだ。。。
召命観を持つということは、
信仰が困難になった時、
どれだけ力づけられ、勇気づけられることでしょうか。

天の召命を受けた私であることを
しっかりと自覚する者になっていきたいと思うのです。





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天一国時代の信仰生活講座
真の愛を育む生活信仰のすすめ』

季刊「祝福家庭」誌で10回にわたって連載され、
好評を博した前田千代子講師の
「信仰生活講座」が単行本になりました。
千葉中央修練所で長年、行われてきた
講義のエッセンスが詰まった一冊です。
                  (光言社)


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2020年07月12日

み言の恩恵を、どんどん増やす相続の仕方と、簡単に失う受け方 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「悔い改めは出発の時と同じ」より
「み言を自分のものとして伝える」です。


親が食べたいものを食べず、人の寝る時に寝ず、
使いたい時に使わないで、お金をたくさんもうけたとします.
そして親はそのお金、財産を
全部その子供に相続してあげました。

相続したのだから、この財産は
子供のものになっていると考えると思います。
ところが、そうではないというのです。

なぜなら、親はたくさんの財産を得るために、
今話したような苦労した内容をもっているからです。

ところが子供はこういう過程を通じないで、
そのまま受け取ったわけです。
これはその子供の所有物になる条件となるのです。

自分のものとなるためには、親がこういう内容を通じて得たごとく、
子供もそういう内容を通じて初めて自分のものになるのです。
そうすれば、そのお金はどんどん増えていくというのです。

 
それと同じく、私たちは先生からたくさんの恵みを受けます。
み言を受けます。

先生が私たちに与えてくださるのは、
神のため、人類のためにすべてを尽くしたうえで
得たみ言であるというのです。

先生のみ言は、ただ伝え聞いたものではなく、
先生が神のために尽くすことによって得たものです。

ところが、私たちは尽くさないでこのみ言を受けます。
ですから、私たちは色々なみ言を受けて知っているけれども、
そのみ言は自分のものにはまだなっていないのです。
自分のものではなく、先生のものなのです。

神様や親はみ言が子供のものになることを念願します。
神様や親のものですけれども、
それが子供のものになるように念願するというのです。

その願いにこたえるためには、尽くして、
その内容を備えなければいけないのです。
そうしてこそ初めて、み言が親のみ言であり、
また子供のみ言にもなるというのです。


ところが人々は、み言を受けて、
これを自分のものにする過程を通じないで、
そのまま人に伝えます。

そしてその人も、受け取ってそのまま伝えるのです。
受け取って伝えたのですから、
そのみ言は自分のものにならないのです。

自分のものにならないままに人に伝えたのですから、
自分には何もなくなるというのです。

自分のものにできずに伝えると、最後にはサタンが構えているわけです。
そしてそのみ言がサタンのところに行ってしまうのです。

これを神のみ言が地に落ちたというのです。
人間のために与えたみ言が、
サタンのために与えたという結果になるのです。


皆さんが先生からみ言を受ける時には、
「あっ、すてきだなあ、本当に素晴らしい」とだけ思って
受け取るのではなく、一歩進んで、
どうしてこのようなことができたのだろう、
私もその道を行かねばならないと、
こう考えなければいけないのです。

そうすればみ言は、自分のものになるというのです。
どんどんとそのみ言は増えていきます。

ですから、そうでない場合は、
いつも目上の人に聞かなければなりません。
質問してまた聞かなければいけません。
だからみ言を自分のものにする努力をしてほしいと思います。


「悔い改めは出発の時と同じ」 
1975年11月2日 川崎・楚麗邑


み言を自分のものにする・・・
本当に大切なことだと思います。
み言を求める姿勢ももちろん重要です。

孔子は、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
という有名な言葉を残しています。

その「道」いわゆる「真理」を私たちは知ったのです。
これはどれほど素晴らしいことでしょうか。
人類が待ちに待った新しい真理を
一方的に与えられた私たちです。

もちろんその真理を伝えなければなりませんが、
重要なのは、「真理の実体になる」こと。

み言を口で伝えるだけでなく、
身をもって示すことのできる、
まさに真の父母様のごとくの道を
たどっていく私たちになっていきたいと思うのです。







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