2020年08月09日

私は立派だから召命されたのか?! 涙と葛藤の体験が条件 《天一国時代の信生講》



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いよいよ本日開催、100万希望前進大会☆


前田先生の
「天一国時代の信仰生活講座」
今回は、『後天的条件』です。


皆さんは日夜、神様を求め、
真理を求めて修行していましたか?

皆さんは周りの人から「あなたのように
優秀な人が行く教会に連れていってください」
と言われる皆さんでしょうか。

内外の実力があり、立派だから召命されたのでしょうか。

それでは、皆さんの何をもって、
神様が召命したいと思われたのでしょうか。

生まれてから今日まで、皆さんは、泣いたり笑ったり、
時には家庭や学校、友達との間や将来のことで、
悩み苦しんだり、葛藤したり、涙を流したりしてきたはずです。

もし神様に出会わなければ、
つらかったその体験は悲しく、不幸な体験とも言えるでしょう。
しかし、皆さんは神様に出会いました。

さまざまな経験があったからこそ、
「やはり人間は堕落していたのか」
「ああ、神様はいらっしゃったんだ」
「み言によってこの問題が解決された」という、
劇的な体験ができたのです。

私たちのこれまでの体験は、結局は
神様に出会うために備えた後天的条件だったわけです。

また、それら全ては、より信仰が深くなるために与えられた
神様の訓練でもあったのです。

もし、力や能力があり、全てがそろった私たちだったら、
神様を必要とするでしょうか。
また、神様の心情が分かる私たちになれるでしょうか。
全ては天の前に捧げた条件だったのです。

前田千代子・著
『天一国時代の信仰生活講座』(6)
第一章 神による召命
3. 召命される者の条件
(二)後天的条件
(Blessed Lifeより)


私自身も恥ずかしながら、
目に見えない世界、
神様、霊界は信じていませんでした。

また、真理探究の道を歩んでいたのでもなく、
将来の目標もあまりにも外的なものでした。

しかし、本心では求めていたのだと思います。
また、創造原理を通して、神様の存在を
すんなりと受け入れることができたのでした。

自分の人生を振り返ったときにも、
『このために人生を歩んできたのだ』
そう断言できます。

改めて、『神様の召命を受けた私である』
という自覚をもって歩んでいきたい、そう思います。

今日の大会の成功を心からお祈りいたします。






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  200809.jpg  『悠々として余裕のある人』
  季刊『祝福家庭』で10回にわたって連載され、
  好評を博した前田千代子講師の「信仰生活講座」を書籍化したものです。
  千葉中央修練所で長年行われてきた講義のエッセンスが詰まった一冊です。
                              (光言社刊)



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2020年08月04日

「信仰・希望・愛」は、切り離しては考えられない?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



200804-聖ペテロの天国への鍵の授与.jpg


李ヨハネ(イ ヨハン)先生
今回は、「信仰・希望・愛の路程」です。


信仰・希望・愛の路程を考えてみるとき、
信仰は縦的関係を生命視する心情をいい、
希望は現実に責任を着実に果たし、
生じる実績を土台にして出てくる意欲をいいます。


  信仰・希望・愛は分離して考えられない

信仰の力は、縦的関係を重要視して、
自分を否定するところから出てきます。

そして、希望の力は、生活において責任を着実に果たすことで、
積み重なった自分の実績を基盤にして出てきます。
その力を通して、愛を経験するようになります。

「信仰がある、ない」または
「希望が生まれる、生まれない」また
「自分に任されたことに対して、積極性を持つ、持たない」
というように、信仰と希望と愛というものを、
分離させて考えることはできません。

信仰の中に希望があり、そして愛があるのです。
また希望の中にも、信仰と愛があるし、愛の路程においても同じです。
お互いを分立することはできず、
密接な関係を持っていると見なければなりません。


ところで、信仰といえば大部分の人は
縦的関係だけを強く考えるようになり、
現実の生活に不誠実になります。

人間関係が不和になり、自分の実生活に無責任になるのです。

これを私たちは、イスラエルの人々を通して知ることができます。
イスラエルの人々は、「我々は選民だ」
「我々はエホバの民だ」という意識が強くなり、
ほかの民族を差別しました。

生活の中で彼らが誠実になれず、真実になれず、
徳化力がなかったということを知っています。

この縦的関係の信仰のゆえに、
実生活で人を低く見るということは事実です。


皆さんも何か悟ったなら、悟っていない人に対して差別意識が生じます。
自分が特別に縦的な関係を通して何かを経験したとすれば、
横的関係はよくなりません。

また自分が愛を受けると、
愛を受けられなかった人に対する差別が生じたりして、
人間が偏屈になっていきます。

このように縦的関係をあまりにも重要に考えすぎると、
現実の生活で真実に生きられず、
謙遜でなく、傲慢になって、差別するようになります。

そうして自分を失ってしまいます。
本然の自分を失ってしまうのです。

1985年10月29日(火)統一神学校
「信仰・希望・愛の路程」
(この説教はチャペルの時間に語られたもの)


これは、コリント人への第一の手紙第13章13節
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、愛である」
ここからとられた題目ですね。

この聖句にどれだけ力を得たクリスチャンたちが
数多くいたことでしょうか。。。

ヨハネ先生もここから、
様々なことを感じられています。

信仰と愛は、一体である、というのです。
信仰を優先することにより、
人間関係が希薄になってしまう、というか、
分離する状態になっている人もいます。

しかし、ヨハネ先生は、
「分離しては考えられない」
と語られています。

その辺の内容をこれから学んでいきたいと思います。
お楽しみに。






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2020年08月02日

(伝道の証し)「時と場所」に合致したとき、天が導く?! 《天一国時代の信生講》



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前田先生の「天一国時代の信仰生活講座」
今回は、『時と場所』です。


神様は、ご自身がその人を導きたいと思われたならば、
その人にふさわしい時と場所を設定し、
ふさわしい方法で導かれます。

私の体験を紹介してみます。

一時期、電車が停まったときだけ人が通るような
小さな駅で伝道していたことがあるのですが、
いくら声をかけても伝道できませんでした。

それで、その地を離れる最後の日に、
教会に戻って祈りました。
 
「神様、私がここにいるのは、
神様が伝道したい人がここにいるからです。
しかし、私はきょう、ここを離れなければなりません。
ですから、本当に神様が伝道したい人がいるなら会わせてください」
と切実に、神様に談判して祈りました。

そして再び駅に戻り、
最初に出会った女性に声をかけたのです。

「人生の問題について考えていますか?」
「はい」
「受験生ですか?」
「はい」
「落ちたらいいですね」

自分で言いながら、「自分は何を言っているのだろう」と
血の気が引くのが分かりました。
受験生にこんなことを言うなんて……。
でも、私の口がかってに動いたのです。

彼女の返事は「そうですね」でした。
これにも驚かされました。

私は彼女を教会まで案内し、「総序」を講義しました。
そして「関心があったら、教会にぜひ来てください」
と言い、別れました。

しばらくして、彼女から「落ちました」と
電話がかかってきました。
そして「予備校に行くのと統一教会の七日修練会に行くのと、
どっちが大事だと思いますか?」と聞かれました。

「やはり七日修じゃないでしょうか」と答えると、
彼女は「そうですよね」と七日修に出て、
そのままみ旨の道を歩むようになりました。

その後、私は「あの日、なぜあの駅に来たのですか?」
と聞いてみました。

その日、彼女が家の周りの草取りをしていたときに、
「隣の町に行け」という声が聞こえたそうです。
それで着替えて電車に乗り、隣町までやって来ました。

途中、何のために隣の町に行くのか≠ニ自分でも思ったそうですが、
手相を見る有名な人がいる≠ニいう話を思い出したそうです。

そしてその人に手相を見てもらいながら、
「神様はどうしたら分かるんですか?」と尋ねたところ、
「うーん。手相では分からない」と言われたそうです。
それで、駅に向かって帰るときに私と出会ったのです。

彼女は求めていた人でした。
彼女は真剣に求めていて、神様も切実に
その人を復帰したいと思っていらっしゃったのです。

そのような中で、私も真剣に神様の求める人に出会いたいと
お祈りしたとき、その人に出会わせてくださったのです。

神様がその人を伝道したいと思われるならば、
神様はその時と場所にふさわしく、
その人を電車に乗せてでも導かれるのです。

神様の願い、その人の時、そして
行動する私たちの動機が正されたときに出会わされると、
伝道をしながら実感しました。

前田千代子・著『天一国時代の信仰生活講座』
第一章 神による召命
3. 召命される者の条件(一)時と場所


私は、学生時代に
友人を通して伝道されたのですが、
一度誘われた時に断ったのです。

もし、それで、霊の親があきらめていたら、
この道にはいなかったかもしれません。

しかし、数か月後に
もう一度、その霊の親が、誘ったのです。

実はそんなに深い交流をしていたわけではなかったのに、
二度も誘ってくるなんて、断るのも申し訳ないし、
何か意味があるのかもしれないな、
そう思って、誘われて行ったことにより、
今に至っているのです。

やはり、「時と場所」というのはあると思います。
しかも、私が決めるのではなく、天が準備しているのです。
天の導きのままに、天が準備した人を
導いていける者になっていきたいです。








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