2019年12月21日

真の愛は命まで捨てられる?! 「汝の敵を愛」せるか 《浅川先生の自叙伝講話》



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真の愛とは、
自分の命までも
捨てることができるものです。


文鮮明先生


「真の愛」の道を生涯行かれた真の父母様。
そのように、命を投げ出す愛はあるのでしょうか。

韓国ドラマに「真の愛」を探してみました。
浅川節でどうぞ。


さて、真の愛を彷彿させる韓流ドラマがあります。
『ピアノ』といいます。
キリスト教の「汝の敵を愛せよ」がテーマとなっています。

このドラマを見ると、真の愛がよく分かります。


あるヤクザがいました。
それもヤクザ連中から軽蔑されるほど卑屈で根性のねじれた男です。
年老いた屋台の老人からお金を平気でむしり取ります。
泣きすがっても無慈悲に蹴飛ばしてしまいます。
全く良心の呵責(かしゃく)を感じません。

地面に落ちた小銭もなめるように掻き集めます。
恥を知りません。
人々から「犬畜生」と罵(ののし)られても気にしません。
挙げ句の果てに子供の小遣いまで取ってしまいます、
血も涙もない悪党なのです。


ところが、その男がある女性と相思相愛になります。
その女性は、未亡人で子供が二人いました。娘と息子です。
女性はピアノ教室を運営して子供を養っていました。
気立てが良く慈悲深い女性でした。

女性はこの畜生にも劣る(動物に失礼ですが)男性を愛して更生させたのです。
ヤクザは妻の愛によって本性が蘇(よみがえ)り、まともな男になりました。

しかし、長男は納得しません。
亡きお父さんを深く愛し尊敬していたからです。
なぜ、「よりにもよって、お母さんはヤクザの男と再婚したのか……」、
全く理解できませんでした。
「きっと男にだまされたに違いない」、そう思って男を憎んでいたのです。


そして、悲劇が起こります。
結婚記念日に夫婦で海に出かけ、不慮の事故で女性が水死してしまったのです。

子供は、男が「お母さんを殺したのだ」と決めつけました。
激しく男を憎悪し家を出てしまいます。
そして、非行に走り、ついにヤクザになってしまうのです。

男は何度も子供に愛の手を差し伸べますが、受け入れてもらえません。
行くたびに激しく罵られ、罵倒されます。
学校を退学させられそうになったとき、地べたに頭をつけて
校長に謝ったこともあります。
できる限りのことをしたのです。
亡き妻への思いがそうさせたのです。

「たとえ、血のつながりがなくても、妻の子を実の子として愛したい」、
その思いで尽くそうとしたのです。
しかし、全く実りませんでした。

1やがて彼は愛することに疲れ果ててしまいます。
心は傷だらけになり、満身創痍(そうい)になりました。


そんなある日、打ちひしがれて坂道を上っていくと、
懐かしいピアノの音が聞こえてくるではありませんか。
それは、聞き覚えのあるピアノ曲でした。
妻の大好きな曲だったのです。

彼は、その家の門を開けてみました。
ピアノの音が止まり、美しい女性が出てきました。
彼は、その女性に自分の悩みを打ち明けました。
女性は熱心なクリスチャンだったのです。

女性は言いました。
「それなら、教会の礼拝に参加して、イエス様の教えを聞いてみたらどうですか」。

彼は、生まれて初めて礼拝に参加しました。
そして感動したのです。イエス様は罪を犯した者を裁かず、
むしろ、彼らを救うために、自分の命を捧げたのだ……。

「人が友のために命を捧げること、それ以上の愛はありません」。

彼は悟りました。
「自分は精いっぱい、妻の子供を愛したつもりだったが、
それは、十分ではなかった。
自分の命までは懸けていなかった。
本当の愛ではなかったのだ……」。


その時から、彼は何度子供から拒否されても、
不安や恐れを抱かなくなったのです。
真の愛が、恐れをなくしたのです。

子供から何度罵倒され殴られても、彼は傷つかなくなりました。
「断るなら何度でも断れ、でも俺はお前を愛している。何も恐れないぞ……」。
彼は涙を流して訴え、愛し続けました。


やがて、事件が起きます。
子供はヤクザの抗争に巻き込まれ、一発の銃弾が打ち込まれます。
その場に居合わせた父は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく
子供の前に飛び出していきます。
そして、銃弾に当たりました。彼は血を出して倒れます。

既に意識不明になりつつあり、息は途絶えようとしています。
子供はその時初めて気がついたのです。
男は本当の愛で愛していたことを……
そして、男が命を懸けて聞きたかった言葉をかけてあげるのです。

「お父さん、お父さん、死なないでください……」。

初めて聞く「お父さん」という言葉を聞いて、
男は満たされたように息を引き取っていきます。
子供は、男の命を懸けた真の愛によって更生したのです。


後日、子供はピアノの先生にお礼をするため坂道の家を訪ねました。

懐かしいピアノの音が聞こえてきます。
幼い頃、母親がよく弾いていた曲です。
玄関の扉を開いてみました。
同時にピアノの音は止まります。

しかし、不思議なことに、家には誰もいなかったのです。
それどころか、空っぽでした。
数年来、この家には人は住んでいなかったのです。

では、あのピアノを弾く女性は誰だったのか?
ドラマはここで終わります。


文鮮明先生は真の愛について語られています。

真の愛とは、
自分の命までも捨てることができるものです。
そこにはいかなる計算もありません。

母鳥が命を捨ててまで雛を守ろうとするその心は、
真の愛そのものです。

父母はいくらつらくても愛の道を行きます。
愛の前に自分の命を投げ出していくのが
父母の愛であり、真の愛です。


(自叙伝219ページ)
浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第二章 愛の刀で苦悩を断ち切る
韓流ドラマ『ピアノ』


今回は、韓国ドラマ「ピアノ」のストーリーを紹介している感じですが、
浅川先生にかかってしまうと、
原理的に説明されてしまうので、不思議です。

やはり、キリスト教の精神で書かれているので、
「真の愛」がテーマになっています。

イエス様が、まさにこの道をいかれましたし、
その精神を受けついでいるのが、真の父母様です。

そして、私たちも祝福家庭として、
同じ心情を受け継いで、ために生きる生活、
まさに真の家庭づくり運動を
進めていかなければ、と思うのです。





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2019年12月15日

傷だらけの人生──それは「我」が多いから?! 空気のような愛を 《浅川先生》



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真の家庭祝福祝祭および平和祝福式 (2019.11.29)
ニジェール・ニアメ Palace of Congress☆


今、私の心の中には
小さな傷一つ残っていません。
真の愛の前にあっては、
傷など何でもないのです。

文鮮明先生の自叙伝より☆


浅川先生の自叙伝書写講話。
今回は、「悪なる心を断ち切る真の愛」です。

個人的にも、お勧めの、とても深い内容です。
では、どうぞ。


この(怨みなど)悪なる心を断ち切らない限り、幸福にはなれません。

幸福とは、愛する心、愛を感じる心、感謝する心、素直な心、謙虚な心、
そしてすべてに責任を取ろうとする心から生じます。

では、どうしたら悪なる心を断ち切れるのでしょうか?
愛の刀で断ち切るのです。

ただし、それは普通の愛ではありません。
普通の愛とは、「我」がある愛です。
自己本位に人を愛する愛です。


「我」があれば、必ず心に傷がつきます。

柱にナイフを刺せば傷がつくでしょう、柱という形があるからです。
しかし、空気は決して傷がつきません。

ひたすら、人のために存在している空気には
「我」という形がないからです。
100パーセント人のために生きています。

人のために生きる心には、我がないのです。
もし、どこかに我が潜んでいれば、傷がつきます。


もし、自分が幸せになりたいために、夫を愛しているなら、
妻は夫の一言で傷つきます。
妻は「夫の言葉が私を傷つけたので愛せなくなった」と言うことでしょう。

しかし、真実は違います。
妻の心の底に「我」があるので傷ついたのです。
傷つけば歩けなくなるように、
夫を愛する心が停止してしまったのです。


「我」のある愛は、憎しみや怨みを断ち切ることはできません。
「我」という根源が同じだからです。

「私が」不幸にさせられた、「私が」面子を潰された。
「私が」不愉快な思いにさせられた、
「私が」尽くしたのにお返しがない。
「私が」愛されたい。

「私が」の心は、憎しみの心、許せない心、
そして怨みの心へと肥大するのです。

そのため、「我」の入った愛は、鈍くてほころびやすく、
そのため、憎しみの心を断ち切れません。
簡単に折れてしまい、逆に怨みの刀で断ち切られてしまうのです。


真の愛は、「我」がない愛です。
相手の幸福のために生きるという純度100パーセントの愛なのです。
空気のような愛なのです。

与えたことを忘れて、また与える心なのです。
相手が不幸であれば、自分の不足を恥じてさらに、与える愛なのです。
父母がひたむきに子女に与える無償の愛なのです。

それゆえ、真の愛の刀だけが、怨みや憎しみの心を、
断ち切ることができるのです。


文鮮明先生の素晴らしさは、「我」のない、
真の愛で人類を愛されたことです。

迫害や拷問、牢獄、誹謗(ひぼう)中傷など、
ありとあらゆる困難に出遭いました。

もし、普通の愛であれば、傷だらけとなり、
途中でやめていたかもしれません。
しかし、こう言われます。

「日本の植民統治時代と北朝鮮の共産政権、
大韓民国の李承晩(イ スンマン)政権、
そしてアメリカで、生涯に六回も主権と国境を超えて、
無実の罪で牢屋暮らしの苦しみを経て、
肉が削られ血が流れる痛みを味わいました。

しかし今、私の心の中には小さな傷一つ残っていません。
真の愛の前にあっては、傷など何でもないのです。

真の愛の前にあっては、
怨讐さえも跡形もなく溶けてなくなるのです」

(自叙伝5ページ)


浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第二章 愛の刀で苦悩を断ち切る


「我」がない、というのは、
空気みたいなものだ。。。

なるほど、さすがは
浅川先生です。

与える心情、真の愛に満ちていれば、
たとえ誰がなんと言おうと、へこたれない、
怨みの心情にはならない、ということです。

「うちの夫は、〇〇で・・・」
ということを言われる方は、よくおられるかもしれません。
で、ご主人のお話を聞くと、
とても良い方で、もっと忍耐されていたり
ということもあります。

うちの夫婦の場合も似たり寄ったりかもしれませんが、
今回のお話を通して、
自分の動機を正される気がしました。

この浅川先生のお話を心に刻んで、
それは素晴らしいお話ですが、
相手に求めたとしても裁きになってしまうので、
まずこういういいお話を聞いた人、知った人が自覚して、
悟らないといけないということでしょう。

真の父母様が越えた道、
それを私たちも歩むことができること、それが
感謝なのだと思い、歩んでいきたいと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:49 | Comment(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月20日

まず心の門を開く?! 拡張も自由自在、「心の家」でおもてなし 《浅川先生》



191120-20191119.jpg
アジア太平洋サミットinカンボジア☆


真のお母様は、カンボジアでのサミットを終え、
首相官邸での晩さん会があったと聞いています。
ハードな世界巡回路程のすべてが
勝利的に成されることをお祈りいたします。

浅川先生の自叙伝書写講話。
今日は、「心の門を開いて聞く」です。


文鮮明先生の言われる
「心を尽くして人の話を聞いてあげる」とは、
どのような聞き方なのでしょうか。

まず第一は、自分の「心の門を開いて聞く」ということです。


家には門があります。
親しい人は門を開けて家の中に入れて接待します。

ところが、見ず知らずの人には、インターホンや鎖のままで、
扉ごしに話を聞きます。

疑わしい人は、少し話を聞いただけで打ち切ってしまいます。
初めから聞く気がないのです。


心も同じです。

人の話を聞く気がなければ、心の門を閉じたままです。
人の話をインターホンで聞いているようなものです。

「心を尽くして人の話を聞く」というのは、
心の門を開いて心のおうちに入れてあげることなのです。
愛する心で相手の話に耳を傾けることなのです。
心のおもてなしをすることなのです。

こう考えると、どうやら、
人は“二つの家”をもっているようです。
「形ある家屋」と「見えない心」です。


家屋には、大広間のような広い部屋もあれば、
三畳ほどの狭い部屋もあります。

家屋の場合、広くしたり狭くしたりすることは簡単にはできません。
リニューアル費用がかかります。
また、家屋全体の面積は簡単には広げられません。

ところが、心の家はできるのです。
いくらでも、リニューアルできます。


しかも年齢も財力も関係ありません。

心の広い子供がいますが、一方、狭い心の大人もいます。
心の間取りが狭い人は、人を玄関払いしてしまいます。
うわの空で人の話を聞き、聞く耳を持っていない人です。

心を尽くして人の話を聞く人は、
心の家の間取りが広くて、床の間で心のおもてなしをするのです。

第五章 心を尽くして人の話を聞いてあげる
心の門を開いて聞く


真のお父様のごとく、真のお母様のごとく
広い心の家で
おもてなしができるように
まず、人を招き入れることのできる
大きな心を持ちたいと思うのです。






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