2020年01月20日

まさに神ワザ! 「目」は全てを知って生まれてきた? 続・進化論、へんじゃない?!  



200120.jpg


大谷先生の「ダーウィニズムを超えて」より、
今日は、人間の目の構造から、
進化論の疑問にせまってみます。


次に、創造か進化かという論争において、
中心的なテーマになった目の問題を取り上げてみよう。

脊椎動物の目のように、複雑な機能と構造をもつものが、
ランダムな変化の中から、いかなる自然選択によってできたのか、
全く説明は困難である。

ダーウィン自身、
「(極度に完成化し複雑化した器官である)目が
自然発生によってつくられたであろうと想像するのは、
このうえなく不条理に思われる」と率直に告白したのであった。


ところが彼は、単純な光感受性のある点(細胞)から
洗練された人間のカメラ型の目に至る進路の経路を
示すことにより、目が進化によってできたものであると主張した。

しかし博物館で、自動車が年代順に
古いものから新しいものという順序で並べられているのを見ても、
誰も、走る競争をしているうちに車が進化したとは考えない。

車は技術者の絶えざる創造力の投入によって発展したのである。
同様に、単純な感光点から高級な目まで並べてみても、
それが進化の証拠とはなりえない。

実際、目が発展するそれぞれの段階が大きな飛躍であって、
段階を示すだけでは進化といえないのである。


科学ジャーナリストのリチャード・ミルトン(Richard Milton)も次のように言う。

 現代のダーウィニストはたいそう楽観的な考えをもっているようだ。

 光を感知する細胞といった
 進化の初期段階における基本的な革新さえ起きてしまえば、
 視力の累積的選択がいくぶん起こりやすくなるという。

 しかし光を感知する組織が存在しても、
 水晶体や虹彩のメカニズムや瞼(まぶた)などに関する
 突然変異の起こりやすさには何の影響も及ぼさない。


(リチャード・ミルトン、竹生淑子訳『進化論に疑問あり』
1995年、186頁、)


しかも生化学者のマイケル・ベーエ(Michael J. Behe)が指摘しているように、
単純な感光点が、そもそもどこから来たのか、
ダーウィンは説明しようとせず、
目の究極的な起源の問題は放り出しているのである。

実際、感光点それ自体、単純なものでない。
ダーウィンにとってはブラックボックスでしかなかった。
それはテレビの複雑さよりもはるかに複雑なものであり、
多くの生化学者の研究によって、ようやく視覚の
生化学的な構造が明らかになりつつあるのが現状である。


目は、自然界がどうなっているかということがよく分かっていて、
周到につくられたものであること、
したがって目を見れば神の存在を否定できないと、
文鮮明師は次のように語っている。

動物世界では、生まれる時に、
まず目が最初に生ずるようになっています。
目自体は物質です。

目は生まれる前から、太陽があることを
知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。

物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、
太陽を見られるように生まれたということは、
目が生まれる以前から、太陽のあることを
知っている存在があったというのです。

すなわち、目は太陽があることを
知っていて生まれたということになるのです。

目自体は、空気があることも、
(ほこり)が飛び散っていることも、蒸発する
輻射(ふくしゃ)熱があることも知らなかったとしても、
既にそれらを知っている存在があって、
目を守るために、瞼が準備されたり、
涙腺をもって防備させたりするのです。

大谷 明史・著
(光言社刊『ダーウィニズムを超えて〜科学の統一をめざして』より)
第一章 進化論を超えて
(二)生物はデザインされたものか
(2)目の問題


設計者がいて、設計図があって、
さまざまな作品が生まれます。
人間のその創造性も、神様から受け継いだもの。

そもそも神様の創造の過程は、すべて
人間に幸せになってほしいためでした。
人間が、何よりも貴い、価値のある存在だというのです。

それなのに、「進化した」と言って、
創造主を尊ばないというのは、
神様から見れば、どれほど寂しいことでしょうか。

知れば知るほどに、神様の創造は素晴らしく、
私たち人間の価値も本来素晴らしいものだとわかります。
偶然に進化した、と簡単に片づけることができません。

神様を誇り愛する私たちにならなければ・・・
改めて思うのです。

不定期に続きます。





にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)




2019年12月26日

進化論、あれ、へんじゃない?! ダーウィンが見落とした創造目的



191226-20191207.jpg
ヨハネスブルグ FNBスタジアム (2019.12.7)☆


今年4月に聖和された、
大谷明史先生が遺された
『ダーウィニズムを超えて〜科学の統一をめざして』。

進化論でもなく、創造論でもない、
新創造論を提唱されています。
真のお父様のみ言、原理を土台として、
明確に説明しておられます。

冒頭部分を省いて、
本題から紹介させていただきます。


ダーウィンによれば、適者生存の原理、すなわち生命力の強いもの、
生存に適したものが生き残り、繁殖し、進化したという。

そうであるならば、この世界は、生命力と繁殖力の強い昆虫や雑草が
支配するような世界になったはずである。

しかし、生物を観察してみると、そのような原理だけで
生物は存在しているのではないことがわかる。
生存に適しているというのは、生物の存在の一つの条件にすぎないのである。


例えば西瓜(すいか)を考えてみよう。

西瓜は夏の暑い時に、水分をたくさん集め、色をつけ、
味をつけながら、大きな果実を実らせる。
しかし、それは西瓜の生存にとってどんな意味があるのだろうか。

西瓜の生存と繁殖のためには、種さえできればよいのである。
地に落ちた種は、春を迎えると、雨が降り、気温も上がるから、
芽を出して成長していく。

したがって果実の中に大量の水分を貯える必要はないし、
色や味をつける必要は全くないのである。

進化論者は、西瓜が水分を貯え、色をつけ、味をつけるのは、
動物に食べられて種をまき散らしてもらうための
西瓜の見事な戦術であるというであろう。
しかし西瓜が戦術を練るなんてことはありえないことである。

西瓜は動物たち、特に人間のために、
天然ジュースとして造られていると見るべきである。

すなわち、西瓜は生存に適している(個体目的)だけでなく、
他のために存在している(全体目的)のである。
つまり生物にはそれぞれの創造目的があるのである。


(ちょう)の世界を見てみよう。

蝶の羽の美しさは魅力的であるが、蝶の羽の斑紋の役割に関して、
進化論の立場の研究者たちは「天敵を避けるため」と言う。

「天敵を避ける」とは、生存に適しているということである。
しかし、ファッションショーのように、きらびやかに舞う蝶たちは
天敵に襲われやすいのではなかろうか。

彼らはまた、きらびやかな蝶の羽は
「オスとメスがひき合うため」であると言う。

「オスとメスがひき合うため」とは、繁殖に適しているということである。
しかし、それだけではない。
蝶は、われわれを魅了するために存在しているのである。
実際、多くの人たちが蝶に魅せられて、蝶の収集に夢中になっている。


昆虫の擬態(ぎたい)はどうであろうか。

ある昆虫が、植物や他の昆虫に擬態する理由に対して、
進化論は自然選択によって解決済みだと主張している。

しかし、昆虫が鳥に食べられないように逃げ回っているうちに、
微に入り細に入り、かくも見事に変身できるであろうか。
まだ本質をつかみ切れていないのではないかと、疑問を抱く昆虫学者も多い。

昆虫の擬態に関して次のような記事がある。

彼らは、だれに見せたくて、こうなったのか。
「昆虫の擬態は、モデル、まねる虫、鳥、そして
『観察する人間』という四者関係の問題」と池田教授[生物学者池田清彦]。

  どれほど似ていれば人は驚き、感動するのか。
  昆虫の擬態の話は、いつの間にか、人間の認識とは何か、
  というテーマになってくる。

(読売新聞、1999年6月28日夕刊)

ここに「どれほど似ていれば、人は驚き、感動するのか」
と言っているように、昆虫の擬態はわれわれを驚かせ、
感動させ、喜ばせるように、造られたものであるとみるべきであろう。

大谷 明史・著
(光言社刊『ダーウィニズムを超えて〜科学の統一をめざして』より)
第一章 進化論を超えて
(一)生物に目的はあるかA


これだけ見ても、進化論は、
理論的にも、稚拙なところがるあるとわかります。
適者生存、弱肉強食という考えに
偏りすぎていることにも、疑問が残ります。

蝶のことを例に挙げておられますが、
蝶に似た生き物がいますよね。
『蛾』です。

オスとメスがひき合うために
蝶はきらびやかである、とするなら、
蛾は、どうなんでしょうね。
蝶と蛾の対比を通して、
蝶の美しさが際立つのではないか、
そう考えた方が自然ですよね。。。

ダーウィンには、申し訳ないですが、
天下無敵で世界をなめつくしている論理にしては、
しっかりとした実証的なものというよりは、
あくまで推論にすぎなく、
ちょっとこじつけ的な、お粗末さを禁じえません。。。

創造目的は、全体目的と個体目的、
二重目的があるということ。
原理を解き明かしてくださった
真のお父様の偉大さを改めて感じます。

時あるごとに掲載しますので、お楽しみに。








にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


2019年11月28日

「ダーウィンが行っちゃった!」 進化論はもう古い?! 宇宙誕生の真実を明かす「新創造論」



191128.jpg


今年聖和された大谷明史(あきふみ)先生の著書の一つ、
『ダーウィニズムを超えて〜科学の統一をめざして』が
Blessed Lifeに紹介されていました。


   ダーウィンの『種の起源』発表から150年。
  「進化論」は生物学にとどまらず、
  社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきました。
  現代の自然科学も、
  神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。

  本書は進化論の問題点を整理し、統一思想による
  「新創造論」としての新たな見地を提言しています。
  さらには、科学時代の新しい神観を提示し、
  科学の統一をめざしています。
(光言社)



第一章 進化論を超えて
(一)生物に目的はあるか@


○進化論

生物界は適者生存、弱肉強食の世界である。

したがって、生存に適したもの、
繁殖力の強いもの、力の強いものが生き残ってきた。

したがって、生物は目的をもって存在しているわけではない。


○創造論

神はお一人で完全であり、自己充足的な方であって、
神には必ずしも人間と万物を創造する必要はなかった。
しかるに神は人間を創造されて愛を注がれた。

そして神は万物を創造して、
「海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物とを治めよ」と祝福された。
すなわち、人間は万物の主人として創造されたのである。

しかし万物は何のために存在しているのか、存在の目的は明らかではない。


○新創造論

神は愛して喜ぶために、人間を神の愛の対象として創造された。
万物は人間の愛の対象として、人間の喜びのために創造された。

さらに、すべての被造物は
個体目的と全体目的という創造目的をもって造られている。

個体目的は「自己の生存を維持する」ということであり、
全体目的は「ために生きる」ということである。

したがって、すべての被造物は生存に適しているのみならず、
低次のものはより高次のもののために存在し、
究極的には、すべての万物は人間のために存在しているのである。

大谷 明史・著(光言社刊
『ダーウィニズムを超えて〜科学の統一をめざして』*より)
*2009年に発刊されたが、
新たに「進化論を超えて─新たな展望」と
「宇宙の統一原理に向けて」の二つの論文を増補し
再発刊(2018年)


神の創造は、統一原理や統一思想にはっきり示され、
学んだ私たちには当然の真理ですが、
一般的にはまだ知られていません。

また、進化論は、すでに科学的にも崩壊しているのですが、
日本においては、まだまだ全然そういう認識はないようです。

「ダーウィンが〇〇!」という番組もありますし、
進化論がさも真理であるような見解です。

やはり、神様を信じる人が少ない日本人なので、
創造論は否定したがるのだと思います。

また従来の創造論も、完ぺきではありません。
キリスト教等の教理の枠を抜けられないため、
科学的な説明ができなく
宇宙的な真理を映すものにはなっていないようです。

大谷先生は長年、「新創造論」という立場で、
著述や講演会などをしてこられました。

古い観念を捨てて、
本当の真理を正しく知っていただけるように、
まずは、私たちからしっかりと学ばなければ、と思うのです。

今後も重要だと思われる内容は、
紹介させていただきたいと思います。





にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)