2020年06月27日

私だけが祝福を受けたと喜んではいけない 誰かが犠牲になっている 《入山部長》



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入山部長の地域化講座。
「カインの祭物」より、
『犠牲と護(まも)り』を紹介します。


カインとアベルは摂理的な運命共同体の関係です。

二人は同じ摂理的目的の中にありました。
摂理的には一つにつながっているのです。
カインのないアベルもなく、アベルのないカインもありません。

すなわち、「供え物を受け取られた」アベルと、
「受け取られなかった」カインは、
摂理的には一つにつながっていました。

(蕩減)条件のない復帰はないのが蕩減復帰原理であるがゆえに、
神様は無条件にカインの祭物を受けることはできませんでした。
しかし、もし何らかの(蕩減)条件があったなら、
神様がカインの祭物をも取られ、
祝福されるというシーンが準備されていたのです。


結局、アベルは死に、カインも殺人者として
霊的に死人と同じ立場になりました。
摂理的には、二人とも死んだのと同じ立場になってしまったのです。

二人の関係は、どちらかが勝利して、
どちらかが敗北するというものではありません。

二人が一つになってこそ、共に生きる道が開かれるのです。
そして、一つになれなければ、
二人とも死んでしまうという、運命共同体だったのです。


神様の摂理には、犠牲と護りが表裏一体となって現れます。
アベルが天から護られ、祝福されて有頂天になっているときに、
カインは否定され、犠牲となる立場に立たされていたのです。

それはカイン自身の罪ゆえでなく、
アダムとエバという堕落した父母の罪の蕩減ゆえであり、
「悪の表示体」という摂理的立場のゆえだったのです。

「カインは愛の初めの実であるので、
 その最初のつまずきであった天使長との愛による
 堕落行為を表徴する悪の表示体として、
 サタンと相対する立場に立てられた」

(『原理講論』292ページ)


「天運守護」という言葉があります。
これは天の祝福があるところには天運があり、
天運があるところには護りがあるということを意味しています。

ですから、天の祝福を受けられないということは、
「護られない」ということです。

それは、先祖の罪の蕩減のままに
すべての苦痛を受けなければならないということです。
病気、事故、怪我、人間関係の不和、
強い悪の誘惑に遭うというような、
悪い因縁から来る運命的な苦労が色濃く現れるのです。

ここに、「サタン世界で生きる苦しみ」があります。


同じ父母から生まれた兄弟であっても、
摂理的家庭においては、その摂理的立場によって、
受ける蕩減の内容は同じではなく、
その違いがよりはっきりと現れるということを意味しています。

誰かが天の護りを受けているとき、
その裏で誰かが犠牲になっている。
私が否定され、犠牲になっているとき、
その表で誰かが護られている。

このような現象が、
皆さんの兄弟姉妹や親族に現れていませんか?


蕩減が強く現れた人は、親族から嫌われたり、
(うと)まれたり、
裁かれたりする対象になっているかもしれません。

より善に対する強い意識を持っている私たちが、
蕩減の先鋒(せんぽう)に立っている可能性もあります。

しかし、親族と私たちの両者が、
摂理的につながっているとしたら、どう思いますか?

そんなことも知らずに、
ただ私だけが天の祝福を受けたと喜んでいる──。
それでは、アダム家庭における
アベルの姿とまったく同じなのです。

復帰の摂理の中では、誰かが天の護りを受け、
神様の祝福を受けている裏で、誰かが否定され、
犠牲になっているのです。

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』(7)
入山 聖基・著

第一章 カインの祭物
犠牲と護(まも)り


犠牲と護り、このことを
しっかりと心に留めなければ、
と思わされます。

私が恩恵を受けているとき、
自覚がなかったとしても、
天の護りとは遠い立場で、
犠牲の中にいる親族を
思っていくべきでしょう。

また、私自身がいわれのない苦労をしている時、
代わりに恵みを受けている食口たちが
いるのかもしれません。

これが、誰かの護りとなり、
真の父母様と摂理のための
捧げものとなることができれば
感謝と思い、日々わずかながら
精誠を捧げていきたいと思うのです。




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2020年06月17日

アベルはなぜ殺されたのか、そして何を失ったのか?! 《入山部長》



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入山部長の地域化講座、
今回は、カインの祭物「アベルの立場」です。


このような神様のこころを誰が理解すべきだったのでしょうか? 
アベルです。
そうすべきだったのがアベルの立場であり、使命でした。

アベルは神様から供え物を顧みられ、祝福を受けました。
その時、「祝福」と同時に摂理の中心人物としての
「責任」も授かっていたのです。

そこには大きく見て、二つの責任(使命)がありました。
 

第一に、摂理の中心人物は、
「神様のこころ」を知らなければなりません。
そして「神様のこころ」を「私のこころ」としなければなりません。

アベルが、アダム家庭を見つめる「神様のこころ」を
正しく知っていたとすれば、
「堕落した人間に創造目的を完成させる」という、
神様の決意が分かったはずです。

そして、神様が、兄カインをも愛し、
「カインの祭物」をも受け取りたいことを知ったはずです。

「ああ、神様は兄さんも愛していて、
供え物も受け取り、救いたいのだ」
これが分かったとするなら、
まったく違う摂理的展開がなされたでしょう。

復帰原理では、「信仰基台」とは、中心人物が
ある条件を立ててある期間を守ることだとあります。
それは外的な行動目標にすぎません。

その内的な復帰目標は、
「神様のこころ」を知ることではないでしょうか。
そしてそれを、「私のこころ」とすることでしょう。

 
第二に、摂理の中心人物は、
「兄カインのこころ」を知らなければなりません。

カインは、「地に顔を伏せて憤る」ほどに、
供え物を受け取られなかったことにショックを受けました。

カインは、サタンの血統を受け、粗暴な性格であったとしても、
そういう自分に満足していたでしょうか。
悪人においても、良心は、「神様に帰れ!」と命じるのです。

兄カインの「救われたい!」という心の叫びを、
アベルが知ってあげなければなりませんでした。

「神様のこころ」を知り、「兄のこころ」を知り、
それを一つに結んであげること、
それが「アベルの立場」に課せられた「責任」だったのです。

 
もし、その責任を果たしていたら、
アベルは殺されることはなかったでしょう。
アベルは、「カインのこころ」を知ることができなかったために殺されたのです。

「恨み」というのは、大変な思いをしたこと自体が
その原因ではなく、それを誰にも分かってもらえなかった、
という愛の減少感が原因となって心に蓄積されていくものです。

ですから、それを分かってくれる人が現れると、
それ以上恨むことができなくなってしまいます。
まさに「解恨(解怨)」です。
アベルはカインを解恨する使命を持っていたのです。


しかし、実際には、聖書に描かれたアダム家庭において、
アベルが「神様のこころ」を理解していたでしょうか? 
そして、「兄カインのこころ」をつかんでいたでしょうか?
そうではなかったと思われます。

アベルの心のアンテナは、
ただ「祝福を受けた」という
自分だけの喜びに向けられていたのです。

こうして、アダム家庭における神様の摂理は
失敗となってしまいました。

神様のこころだけが残っていました。
そのこころはどれほど痛んだでしょうか。

こうして、摂理的な「アベルの立場」は空席となりました。

その後、復帰摂理の中心テーマとして、
「アベルの立場を復帰する」
「アベルの立場に立つ」という表現が、
『原理講論』に繰り返し登場してくるのです。

この、失われた「アベルの立場」を全うする者を、
神様は探し続けられました。
それが、復帰摂理歴史の表題なのです。

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜
天一国時代の伝道論』(6)
入山 聖基・著
第一章 カインの祭物
アベルの立場


中心人物、というのは、
ただ外的な目標を成すだけでなく、
それを通して、復帰しなければならない心情がある、
ということを感じさせていただきました。

アベルも供え物を捧げて、神様が受け取ることにより、
信仰基台の中心人物になることはできましたけれど、
本当の意味では中心人物に立ったとは言えなかったのです。

「神様のこころ」を知り、
「カインのこころ」を知る。。。
私たちにも突き付けられた課題だと言えます。







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2020年05月27日

神様はカインを愛している! アベル殺害は、神がわからなかったから 《入山部長》



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入山聖基部長の講座
『〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』
「カインの祭物」続編です。


神様はカインも愛していました。

復帰摂理における救いの対象は、アベルだけではありません。
カインもその対象です。
むしろ、条件的に一番神様から遠いカインが救われてこそ、
救いの目的が成就するのです。

しかし、カインにはそれが分かりませんでした。


供え物を取られなかったとき、
「カインは大いに憤って、顔を伏せた」(創世記四・5)
という話を聞けば、カインが受けたショックのほどがうかがえます。

カインもまた、アベルと同じように、神様に供え物をし、
受け取られ、祝福され、認められたかったという
強い気持ちを持っていたことを表しています。

確かに、サタンの血統となったアダム家庭の長子として、
堕落の影響を受けやすい立場にあったカインは、
悪人となる素養を持っていたかもしれません。
血気怒気に走りやすい、粗暴な性格だったかもしれません。

しかし、だからといって救われたくない、
神様の祝福を受けたくないとは限りません。

カインもまた、自分の中の悪に苦しみながらも、
救いを求めていたのです。
その心の叫びを、誰が理解してあげるべきだったのでしょうか?

結果としてカインは、アベルに嫉妬し、殺してしまいました。
神様に供え物を受け取ってもらえなかったことが、
事件の発端になっています。

カインは、間違った思い込みをしました。
供え物を顧みられない神様の「態度」を見て、
自分は神様に嫌われていると思い、
存在が否定されているかのように思ったのです。

親から見捨てられた子供のような気持ちになりました。
「自分は親から愛されていない」という思いは、
絶望をつくりだし、「もうどうなってもいい」と、
自暴自棄になりました。

そして人を殺す──。
これがカインが殺人者となった動機です。


最近、日本の社会において、
「だれでもよかった」という直接の怨恨関係なき、
通り魔的な殺人事件がしばしば起こります。

そうした事件の背景を見ると、親から見捨てられたと
思うような家庭環境があることが多く見られます。
皮肉なことですが、
人は愛がなければ生きられないことを示しているのです。

彼らは世の中に腹を立てながら、
自分という存在に腹を立てているのです。
彼らは人を殺しながら、実は自分をも殺しているのです。

自殺者の動機も、殺人者の裏返しで、同じ面があるように思えます。


自分は神様、親から愛されていない
──カインはそう思っていたのです。

カインが抱いた思いが、現代社会においても
そのまま続いていることが分かります。
偽りの愛に基づく思いが新たな生命を生んで、
それが血統として後孫までつながっていくのです。

神様はカインを愛しています。
悪人をも救おうとしています。

しかし、カインは神様から愛されていないと思い込んでいます。
想いがすれ違っているのです。
これほど切ない話があるでしょうか?

「わたしは、それでもおまえを愛している」という
神様のこころがカインのこころに届くとき、
その恨みが解けていき、復帰が始まるのです。

入山聖基・著
『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』(5)
第一章 カインの祭物
すれ違った想い


神様に愛されていることがわからず、
神様の意図や摂理がわからなかったカインは、
愛の減少感にとらわれてしまいました。

そういう時、
「神様は本当は愛しているんだ」
そのことを悟る、というのは簡単ではないと思います。

自暴自棄になり、自分を整理する、
余裕などないのかもしれません。

その時に現れるべき存在はアベルです。
神様のこころを伝える、
カインを愛する使命があったというのです。

続きます。




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