2021年01月23日

原理講論の一節一節に込められた精誠・・! 《劉孝元先生の執筆日誌》



210123.jpg


先日、2日修錬会の講義を担当した際
史吉子(サ キルジャ)先生の証しを読みました。

原理講論を執筆された劉孝元(ユ ヒョウウォン)先生が、
真のお父様に一つひとつ確認しながら
書かれていったやりとりが掲載されていました。

当時の劉先生の日記の部分を
紹介します。


1966年1月31日(月)

陰陽の調和で性相と形状が、
形成されるのかを質問した。
先生の答えは、反対だった。
性相と形状の調和で、
陰陽が生じるといわれた。

青天の霹靂だ。
すべての存在が陰陽の調和で成されるという、
従来の説が覆された。

これは結果の世界ではそのように見えるが、
神様においては不然(そうではないの意)であり、
神様に陰陽がすでに成されているなら、
創造がないのであるとおっしゃった。

神様には本性相と本形状があり、
それが男性と女性の関係をもっているので、
二性性相の調和で被造物が創られる時、
陽性と陰性、性相と形状が生まれたと
表現しても良いかという質問に同意され、
本意がわかるようになった。


1966年2月3日(木)

創造原理第1節を、
もう一度書かなければならない。
性相と形状がすべての存在の
根本になるという論証だ。

先生は真理の本体であることを、
もう一度悟らされた。

史吉子
『原理に関するみ言の証』より


劉孝元先生がこのように
真のお父様と一問一答しながら、
原理の探求をされ
原理講論を執筆された様子を
うかがい知ることが出来ます。

一つ一つの言葉の背後に
血のにじむような精誠と
涙が綴られていることを
改めて感じました。

劉孝元先生は、お父様の原理原本を
1ページ読まれる時、数百回涙を流されたそうです。
また、1ページ書き上げるのに、
1週間かかったこともあったそうです。

「原理の復権」が叫ばれる今日。
み言の貴さを改めて感じつつ、
精誠を込めて、語っていきたいし、
多くの人たちに伝えていきたいと思うのです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

2020年06月27日

私だけが祝福を受けたと喜んではいけない 誰かが犠牲になっている 《入山部長》



200627-Adam_and_Eve_expelled_from_Paradise.png


入山部長の地域化講座。
「カインの祭物」より、
『犠牲と護(まも)り』を紹介します。


カインとアベルは摂理的な運命共同体の関係です。

二人は同じ摂理的目的の中にありました。
摂理的には一つにつながっているのです。
カインのないアベルもなく、アベルのないカインもありません。

すなわち、「供え物を受け取られた」アベルと、
「受け取られなかった」カインは、
摂理的には一つにつながっていました。

(蕩減)条件のない復帰はないのが蕩減復帰原理であるがゆえに、
神様は無条件にカインの祭物を受けることはできませんでした。
しかし、もし何らかの(蕩減)条件があったなら、
神様がカインの祭物をも取られ、
祝福されるというシーンが準備されていたのです。


結局、アベルは死に、カインも殺人者として
霊的に死人と同じ立場になりました。
摂理的には、二人とも死んだのと同じ立場になってしまったのです。

二人の関係は、どちらかが勝利して、
どちらかが敗北するというものではありません。

二人が一つになってこそ、共に生きる道が開かれるのです。
そして、一つになれなければ、
二人とも死んでしまうという、運命共同体だったのです。


神様の摂理には、犠牲と護りが表裏一体となって現れます。
アベルが天から護られ、祝福されて有頂天になっているときに、
カインは否定され、犠牲となる立場に立たされていたのです。

それはカイン自身の罪ゆえでなく、
アダムとエバという堕落した父母の罪の蕩減ゆえであり、
「悪の表示体」という摂理的立場のゆえだったのです。

「カインは愛の初めの実であるので、
 その最初のつまずきであった天使長との愛による
 堕落行為を表徴する悪の表示体として、
 サタンと相対する立場に立てられた」

(『原理講論』292ページ)


「天運守護」という言葉があります。
これは天の祝福があるところには天運があり、
天運があるところには護りがあるということを意味しています。

ですから、天の祝福を受けられないということは、
「護られない」ということです。

それは、先祖の罪の蕩減のままに
すべての苦痛を受けなければならないということです。
病気、事故、怪我、人間関係の不和、
強い悪の誘惑に遭うというような、
悪い因縁から来る運命的な苦労が色濃く現れるのです。

ここに、「サタン世界で生きる苦しみ」があります。


同じ父母から生まれた兄弟であっても、
摂理的家庭においては、その摂理的立場によって、
受ける蕩減の内容は同じではなく、
その違いがよりはっきりと現れるということを意味しています。

誰かが天の護りを受けているとき、
その裏で誰かが犠牲になっている。
私が否定され、犠牲になっているとき、
その表で誰かが護られている。

このような現象が、
皆さんの兄弟姉妹や親族に現れていませんか?


蕩減が強く現れた人は、親族から嫌われたり、
(うと)まれたり、
裁かれたりする対象になっているかもしれません。

より善に対する強い意識を持っている私たちが、
蕩減の先鋒(せんぽう)に立っている可能性もあります。

しかし、親族と私たちの両者が、
摂理的につながっているとしたら、どう思いますか?

そんなことも知らずに、
ただ私だけが天の祝福を受けたと喜んでいる──。
それでは、アダム家庭における
アベルの姿とまったく同じなのです。

復帰の摂理の中では、誰かが天の護りを受け、
神様の祝福を受けている裏で、誰かが否定され、
犠牲になっているのです。

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』(7)
入山 聖基・著

第一章 カインの祭物
犠牲と護(まも)り


犠牲と護り、このことを
しっかりと心に留めなければ、
と思わされます。

私が恩恵を受けているとき、
自覚がなかったとしても、
天の護りとは遠い立場で、
犠牲の中にいる親族を
思っていくべきでしょう。

また、私自身がいわれのない苦労をしている時、
代わりに恵みを受けている食口たちが
いるのかもしれません。

これが、誰かの護りとなり、
真の父母様と摂理のための
捧げものとなることができれば
感謝と思い、日々わずかながら
精誠を捧げていきたいと思うのです。




にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


2020年06月17日

アベルはなぜ殺されたのか、そして何を失ったのか?! 《入山部長》



200618-SantiagoRebull.jpg


入山部長の地域化講座、
今回は、カインの祭物「アベルの立場」です。


このような神様のこころを誰が理解すべきだったのでしょうか? 
アベルです。
そうすべきだったのがアベルの立場であり、使命でした。

アベルは神様から供え物を顧みられ、祝福を受けました。
その時、「祝福」と同時に摂理の中心人物としての
「責任」も授かっていたのです。

そこには大きく見て、二つの責任(使命)がありました。
 

第一に、摂理の中心人物は、
「神様のこころ」を知らなければなりません。
そして「神様のこころ」を「私のこころ」としなければなりません。

アベルが、アダム家庭を見つめる「神様のこころ」を
正しく知っていたとすれば、
「堕落した人間に創造目的を完成させる」という、
神様の決意が分かったはずです。

そして、神様が、兄カインをも愛し、
「カインの祭物」をも受け取りたいことを知ったはずです。

「ああ、神様は兄さんも愛していて、
供え物も受け取り、救いたいのだ」
これが分かったとするなら、
まったく違う摂理的展開がなされたでしょう。

復帰原理では、「信仰基台」とは、中心人物が
ある条件を立ててある期間を守ることだとあります。
それは外的な行動目標にすぎません。

その内的な復帰目標は、
「神様のこころ」を知ることではないでしょうか。
そしてそれを、「私のこころ」とすることでしょう。

 
第二に、摂理の中心人物は、
「兄カインのこころ」を知らなければなりません。

カインは、「地に顔を伏せて憤る」ほどに、
供え物を受け取られなかったことにショックを受けました。

カインは、サタンの血統を受け、粗暴な性格であったとしても、
そういう自分に満足していたでしょうか。
悪人においても、良心は、「神様に帰れ!」と命じるのです。

兄カインの「救われたい!」という心の叫びを、
アベルが知ってあげなければなりませんでした。

「神様のこころ」を知り、「兄のこころ」を知り、
それを一つに結んであげること、
それが「アベルの立場」に課せられた「責任」だったのです。

 
もし、その責任を果たしていたら、
アベルは殺されることはなかったでしょう。
アベルは、「カインのこころ」を知ることができなかったために殺されたのです。

「恨み」というのは、大変な思いをしたこと自体が
その原因ではなく、それを誰にも分かってもらえなかった、
という愛の減少感が原因となって心に蓄積されていくものです。

ですから、それを分かってくれる人が現れると、
それ以上恨むことができなくなってしまいます。
まさに「解恨(解怨)」です。
アベルはカインを解恨する使命を持っていたのです。


しかし、実際には、聖書に描かれたアダム家庭において、
アベルが「神様のこころ」を理解していたでしょうか? 
そして、「兄カインのこころ」をつかんでいたでしょうか?
そうではなかったと思われます。

アベルの心のアンテナは、
ただ「祝福を受けた」という
自分だけの喜びに向けられていたのです。

こうして、アダム家庭における神様の摂理は
失敗となってしまいました。

神様のこころだけが残っていました。
そのこころはどれほど痛んだでしょうか。

こうして、摂理的な「アベルの立場」は空席となりました。

その後、復帰摂理の中心テーマとして、
「アベルの立場を復帰する」
「アベルの立場に立つ」という表現が、
『原理講論』に繰り返し登場してくるのです。

この、失われた「アベルの立場」を全うする者を、
神様は探し続けられました。
それが、復帰摂理歴史の表題なのです。

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜
天一国時代の伝道論』(6)
入山 聖基・著
第一章 カインの祭物
アベルの立場


中心人物、というのは、
ただ外的な目標を成すだけでなく、
それを通して、復帰しなければならない心情がある、
ということを感じさせていただきました。

アベルも供え物を捧げて、神様が受け取ることにより、
信仰基台の中心人物になることはできましたけれど、
本当の意味では中心人物に立ったとは言えなかったのです。

「神様のこころ」を知り、
「カインのこころ」を知る。。。
私たちにも突き付けられた課題だと言えます。







にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)