金元弼(ウォンピル)先生
「先生は成長に応じて語られる」
☆
先生は成長に応じて語られる
いつもいつも堅苦しい話ばっかりして、
皆さん、頭が重いでしょう。
「私は当分重くて歩けない」
という人がいるかもしれません。
先生は、御自身のことを全部は話されませんでした。
先生のこういう世界を一つ一つ教えてあげると、
あまり重くて、身動きが
できなくなると思ったからです。
分かっていてできなければ、
それは大変なことになります。
知らなくてできないのはまだいいのです。
だから、先生は全部話されません。
ところが、メンバーたちは、
たくさん知りたいと言うのです。
しかし難しい過去のことをお話しすることで、
皆様にはそのとおりに
行かせたくないのが親の心なのです。
先生は道を開いて、私たちが容易に
到達できるように導きたいので、
全部は話してくださらないのです。
その代わりに、「私の話を信じてついて来なさい」
と要求されるのです。
ところが、信じていこうとしても
なかなか理解できないので、
「何か、ちょっと分かるように
してください」と要求するのです。
お話ししてあげて、実践したらいいのですけれど、
そうでないと大変なことになります。
☆
だから二〇〇〇年前、トマスが
復活したイエス様を信じられなかった時に、
「あなたの指をここにつけて、
わたしの手を見なさい。
手をのばしてわたしのわきに
さし入れてみなさい」と言われて、
そうしてみて初めて信じたのです。
イエス様もその時、
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」
とお話ししたのです。(ヨハネ二〇・二七)
☆
当ててみないで信じなかったならば、
許しの道があるのですが、
当ててみて信じないと大変な目に遭うのです。
だから知るというのも大事ですけれど、
分かった後がもっと大事です。
しかし、先生から直接聞いたのではなく、
私が言ったのですから、まあいいでしょう。
私たちが成長してまいりますと、
先生が、今言った以上のお話をしてくださいます。
そうでない時に、それ以上のものを
聞こうとしたらかえって成長を妨げます。
ミルクを飲む子供に固い物を食べさせるのと同じです。
そういう先生の世界を、
私たちが知っているということは、
非常に大事だと思います。
今私が皆様にお話ししていることは、
ただ牢屋の中で、あるいは平壌で、
また牢屋から出られてから
こういうことがあったということばかりでなく、
それ以後、今までもそういった生活を
なさってこられたということです。
そのことを覚えてほしいと思います。
ただ過去にそういうことがあったということではなく、
今もなお、これからもなお
そういう生活をなさるということを考えると、
この話の意義があるのです。
平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「先生は成長に応じて語られる」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第六章 興南解放と釜山伝道
「先生は成長に応じて語られる」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
「信じる」ということが最大の条件になる
ということを改めて知ることができました。
知っているのに、できなかったというのが
讒訴条件になるというのです。
つまりは、そういう場合は、知っているより、
知らなかったほうがよかった、
ということになってしまいます。
また、たとえそれが価値ある
神の摂理を担うものだったとしても、
説明するには時間も手間もかかるし、
聞いても必ずしも理解できるとはかぎりません。
神様がいるなら、姿を見せてみろ
というのが難しいと同じように。
家族が「あれ取って」、「それやって」
というのは、理由を聞かなくても
やってあげれたりしますね。
変に疑いを持って、知ろうとするよりは
信じることを優先することが
重要なのだと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)