2023年02月16日

あからさまには話されなかった理由  「信じる者になりなさい」 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生
「先生は成長に応じて語られる」

先生は成長に応じて語られる

いつもいつも堅苦しい話ばっかりして、
皆さん、頭が重いでしょう。
「私は当分重くて歩けない」
という人がいるかもしれません。

先生は、御自身のことを全部は話されませんでした。
先生のこういう世界を一つ一つ教えてあげると、
あまり重くて、身動きが
できなくなると思ったからです。

分かっていてできなければ、
それは大変なことになります。
知らなくてできないのはまだいいのです。
だから、先生は全部話されません。

ところが、メンバーたちは、
たくさん知りたいと言うのです。
しかし難しい過去のことをお話しすることで、
皆様にはそのとおりに
行かせたくないのが親の心なのです。

先生は道を開いて、私たちが容易に
到達できるように導きたいので、
全部は話してくださらないのです。

その代わりに、「私の話を信じてついて来なさい」
と要求されるのです。

ところが、信じていこうとしても
なかなか理解できないので、
「何か、ちょっと分かるように
してください」と要求するのです。

お話ししてあげて、実践したらいいのですけれど、
そうでないと大変なことになります。


だから二〇〇〇年前、トマスが
復活したイエス様を信じられなかった時に、
「あなたの指をここにつけて、
わたしの手を見なさい。
手をのばしてわたしのわきに
さし入れてみなさい」と言われて、
そうしてみて初めて信じたのです。

イエス様もその時、
信じない者にならないで、信じる者になりなさい
とお話ししたのです。(ヨハネ二〇・二七)


当ててみないで信じなかったならば、
許しの道があるのですが、
当ててみて信じないと大変な目に遭うのです。

だから知るというのも大事ですけれど、
分かった後がもっと大事です。

しかし、先生から直接聞いたのではなく、
私が言ったのですから、まあいいでしょう。

私たちが成長してまいりますと、
先生が、今言った以上のお話をしてくださいます。

そうでない時に、それ以上のものを
聞こうとしたらかえって成長を妨げます。
ミルクを飲む子供に固い物を食べさせるのと同じです。

そういう先生の世界を、
私たちが知っているということは、
非常に大事だと思います。

今私が皆様にお話ししていることは、
ただ牢屋の中で、あるいは平壌で、
また牢屋から出られてから
こういうことがあったということばかりでなく、
それ以後、今までもそういった生活を
なさってこられたということです。

そのことを覚えてほしいと思います。
ただ過去にそういうことがあったということではなく、
今もなお、これからもなお
そういう生活をなさるということを考えると、
この話の意義があるのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「先生は成長に応じて語られる」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


「信じる」ということが最大の条件になる
ということを改めて知ることができました。

知っているのに、できなかったというのが
讒訴条件になるというのです。

つまりは、そういう場合は、知っているより、
知らなかったほうがよかった、
ということになってしまいます。

また、たとえそれが価値ある
神の摂理を担うものだったとしても、
説明するには時間も手間もかかるし、
聞いても必ずしも理解できるとはかぎりません。

神様がいるなら、姿を見せてみろ
というのが難しいと同じように。

家族が「あれ取って」、「それやって」
というのは、理由を聞かなくても
やってあげれたりしますね。

変に疑いを持って、知ろうとするよりは
信じることを優先することが
重要なのだと思います。



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2023年02月08日

神様は心変わりしない?! 主より先に心を変えないと誓った、金元弼先生の場合は




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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「先生より先に心を変えない」です。


(文鮮明)先生が牢屋に入っている間、霊能者たちは
教会からどんどん遠ざかっていきましたが、
私の信仰には少しの変化もありませんでした。

どうしてそうなったのだろうと考えたことがあります。

私だって、天使のごとく、神のみ言を聞くごとく
尊敬していた霊能者たちや先輩たちが、
教会に来なくなるのを見て、
心の動揺がないわけではなかったのです。

しかし、私が先生と一緒にいた時、
先生から受けた平和感、そして真のみ言、
そういったものが私の心から離れませんでした。

私は「いつになったら先生に会えるのだろうか」
という心が先立って、それ以外のことを
考える余裕がありませんでした。


そこで、自分のノートに、一、二、三、四……十二、
これが一九四八年、また一列に書いて
四九年と書きました。

刑を受けたのが五年間ですから、
五年分を書いたのです。
すると、ここまで消した時に、
先生に会えるということです。

ですから、私が一番楽しい時は、
一か月が過ぎて、一つ消すことができる時です。

先生がお話ししてくださったことが、
いつも頭から離れなくて、何をする時も、
万人で(?)考えながら歩きました。


そうしていたある日、私の心に
強く教えられることがありました。

「お前は今、先生を信じて侍っているのではないか」
と自分に言いました。

今先生は牢屋に入っていらっしゃる。
けれども先生は、今も心を変えずに
信仰をもっていらっしゃる。

それなのに、なぜ私が先に変われようか。
私がもし、信仰を変えることがあるとすれば、
先生が先に信仰を変えてからのことなのだ。
それ以前にはできない。

そういう心が強くわいてきました。
それで私は心を変えることができなかったのです。


このことは何をするにも同じです。
メンバーと私が約束して、何かをやろうと
する時には、ほかの人より先に
心を変えてしまうことがあってはいけません。

先生と約束し、先生の前で誓った人たちが、
食口の中にいました。

その人たちが離れていったのが分かっても、
先生はその人たち全員を訪ねて、
それでも受け入れなかったという時になっても、
その人たちに対する心を変えなかったのです。


ここに一本の線を引きます。
これは先生にお会いする線です。

そしてある人の先祖の実績、先祖の功績が、
例えば十だとしましょう。
この人が先生にお会いして、神のために
善いことをして、善の実績を積んだとしましょう。

ところが、この人が先生から離れて、
つまりこの線からどんどん離れていきます。
さらには、統一教会に対し、神に対し
反対して、かえって反対の量が増えていきます。

善の先祖と自分の実績が、この人の善の実績になるわけです。
反対すると、反対の実績の量がどんどん増えていくのです。

それでここまで来たとしましょう。
そしたら善の実績はこれくらい残るわけです。
まだ善の実績は残っています。
そうである以上、この人を切るわけにはいかないのです。


ところが善の実績に対して、マイナスの実績が
同量になれば、切ることができるというのです。
切っても讒訴されません。

そうでない限り、反対するからといって、
切ったりはできないということです。

今までよくやっていた人がいるとします。
その人が駄目になったとしましょう。
その人が善の実績を積み、
忠義を尽くした部分が
残っている以上は切ることができません。


このように考えてください。
ある会社に、一人の社員が入ってきました。
彼のお父さんは、その会社で昔、
非常に善いことをした人でした。

その子供も会社に入って、とても善いことをしました。
ところがそのうちに、この人が会社に
どんどんマイナスをもたらしました。

それだからといってすぐ切ってはいけないのです。
この人が入社してから十万ポンドをプラスしたとしましょう。

ところが社長の話を聞かないで、
自分勝手にやって同じくらいのお金を損した時には、
切っても何も問題になりません。

ところが一万ポンドの損害を出したとして
切ってしまったら、その人は非常に恨みをもつでしょう。

「私はたくさんお金をもうけてあげたのに、
こんなことで切るとはけしからん」と考えるでしょう。
会社の秘密を外に出てから訴えて、
この会社をつぶそうとするでしょう。


こういう心情の世界を考えると、神のために
今まで尽くした善の実績の量に匹敵する悪の、
反対の量をもたらさない限り、
その人を切ったりはできないということです。

先生は、最初よく教会に来て熱心にやった人が
たとえ反対するようになったとしても、
すぐに心を変えるようなことはなさらないのです。

今まで尽くした量より悪の量が増えた場合には、
切っても讒訴されることはないということです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「先生より先に心を変えない」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
冒頭の写真は、「伝統の源流」を
さらに加筆修正し出版された
「信仰の伝統」の表紙から切り取りました


1948年5月から1950年10月まで興南におられたお父様。
その期間、元弼先生の心はどれほど辛く寂しかったでしょうか。

そんな中、変わらない心を持つ、というのは、
本当の信仰者の姿だな、と思います。

お父様ご自身も、過去に出会った食口たちに
「その人たちが離れていったのが分かっても」
毎日祈られ、興南解放後、尋ねていかれました。

神様との因縁で出会った方に対しては、
不変の心情で対されました。

善なる功績が残っているからということも
もちろんあるでしょうが、
反対されたとしても、
親が子への情を断ち切れないように
切ることができなかったのでしょう。

人類の親の立場、真の父母ですから、
逆にもっと愛したい思いを
愛し切ることで、断ち切って
いかれたのではないかと思うのです。

「先生より先に心を変えない」
真の父母様より以上に愛することは、
実際私たちには不可能ですから、
元弼先生のこの決意は、結局ご自身を
救うことになったのだと思います。

そんな第1弟子の金元弼先生に、
真のお父様は、どれだけ慰められたことでしょう。

私たちも、不変の心情をもって、
困難な時ほど、神様、父母様を愛し、
み旨にまい進していきたいと思うのです。





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2023年01月29日

痛い時は、もっと痛く、嬉しい時は、最高に嬉しい メシヤの感覚は、天宙的 《金元弼先生》




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メシヤを少し喜ばせたら、
それは天宙的な喜びを
与えたことになるのです



金元弼(ウォンピル)先生のみ言、続編です。

メシヤに侍るということ

避難の路程の時には、先生と距離をおいた心は全然なくなりました。
先生と一緒にいるような生活に変わったからです。
朝起きる時から、何事も一緒にするようになったのでした。

私は一緒に歩きながら、自分の信仰を次のように打ち明けたことがあります。

「もし、2000年前に生まれたならば、
私はイエス様を飢え死にさせたでしょう」と。
メシヤは、食べなくてもひもじさが分からないお方である、
と信じていたからです。

私のような者ばかりがいて、食べる物も飲む物も
何も差し上げないならば、どうなりますか。

先生も私たちと同じく、ひもじい時にはひもじさを感じ、
暑い時には暑さを、寒い時には寒さを感じるお方であるとはっきり分かったのです。
私は先生を通じて、2000年前のイエス様の事情、心情を理解できました。

同時に、私たちがもう一つ分からなければいけないことは、
メシヤの立場から見ると私たちよりもっともっと敏感だということです。
私たちより、何倍もひもじさを感じる方だということです。

なぜでしょうか。


それはちょうど親と子のことを考えてみれば、もっとはっきりします。
母と子が二人で住んでいたとしましょう。
とても貧しい家庭です。

子供は幼いので、母親が稼いで子供に食べさせなければいけません。
何とかしてやっと稼いで、牛乳を買いました。
ひもじいからといって、親が先に飲むことはできません。
まず子供に飲ませます。
残した物があれば、その次に母親が飲みます。

子供がひもじいと言うのと、親がひもじいと言うのとは、
同じ言葉ですが、内容は違うのです。

子供は自分のひもじさばかり考えて、ひもじいと言います。
しかし母親は、子供に食べ物があって、
自分にない時は、ひもじいとは言わないのです。
母親がひもじいという時は、子供のひもじさと
自分のひもじさが合わさって含まれているということを忘れてはいけません。


このことを通じて、はっきりしておきたいことは、
子供がひもじい、親がひもじい、その次に国を治める人がひもじい、
世界を治める人がひもじいという時、ひもじいという言葉は同じですが、
ひもじさを感じる度合いは、次元が全然違うということです。

個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙
というふうにレベルが変わってくると、
喜びも個人的喜び、家庭的、民族的、世界的、天宙的喜び
というふうに違ってくるということです。

ですから、国を心配する人を悩ませたならば、
それは国家を悩ませたことになります。


死にかかっている人を救ってあげたというのと、
国を治める責任をもっている人が死にかかっているところを助けたのとは、
同じように一人の人間ですけれども、その内容は違うのです。

一人の人を救ってあげますと、その家では、
「自分の子を救ってくれた」と言って、いろいろなご褒美を与えるでしょう。

ところが、ある人を救ってみたら、それが王子様だった場合、
王様は「私の子を助けた者は誰だろう」と探し回って、
その人を見付けたら、どういうご褒美を与えるでしょうか。
「お前は私の宮殿で一緒に暮らそう」ということになるのです。

反対に、王子様を殺したら、その人はどういう罰を受けるでしょうか。
個人を殺した場合は、個人の罰を受けるでしょう。
しかし、王子様を殺してしまったならば、国家的な罰を受けるのです。
王子様が死んだ時、王様はどれくらいの痛みを受けるかといえば、
国家的な寂しさを感じるのです。


メシヤはどういうお方ですか。

メシヤを少し喜ばせたら、それは天宙的な喜びを与えたことになるのです。
もし反対のことが起こったらどうでしょうか。
イスラエル民族は、たった一人のイエス様を殺害したのですけれども、
その罰がどんなに大きかったか考えてみてください。

ですから、メシヤに侍るということは、
どれほど注意深くしなければいけないかが理解できます。

ところが、神は愛なるがゆえに、罰は二、三代で終わるようにし、
いいことは何千代にも及ぶようになさいます。


リーダーとメンバーのことを考えてみてください。
私自身がほかのメンバーに心配かけたとしましょう。
またリーダーである皆様を悩ませたとしましょう。
心配をかけたのは同じですが、内容が違います。

十名のメンバーを担当した皆様は、十の悩みを担っています。
私がリーダー一人を心配させたことは、十の悩みを与えたのと同じです。
100名のリーダーならば、100名分の悩みを与えたことになるのです。

ですから、自分のアベルに当たるポジションの人に対しては、
訴えるな、批判するなと教えたのです。
それはたくさんのメンバーの悩みを抱えている人であるからです。
十人のリーダーであるならば、十人の悩みに責任をもっている人なのです。

全人類の悩みを率いているメシヤの心を少し痛めたら、大変なことになります。
その代わり、少しの慰めを与えるならば、
大変な喜びをもって私たちを迎えるでしょう。


ですから、メシヤは私たちの感情よりも、
はるかに敏感であるということを分かってほしいのです。

たまたまメンバーが少し良いことをしたら、
先生は大げさに話してあげることがあります。
褒められた人は、「私はそんなによくできなかったのに、
先生はとてもよく見てくださいますね」と感ずるのです。

一人でいる時には大きな悩みであっても、先生のところに行くと、
小さく見えるのはなぜでしょうか。
それは、私にはとても大きく見えることも、
先生があまりにも大きいがゆえに、小さく見えてしまうと考えるのです。

皆様にもそういう経験がありますか。
とても心配して、リーダーに何か聞こうとしたら、
小さく感じて聞く必要がなかったことが。
皆様がどんどん成長していくと、メンバーが皆様に対してそう感じるのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「メシヤに侍るということ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題



本当に元弼先生のおっしゃる通り、
人を喜ばせる、ということは貴いことですけれど、
真の父母様に喜んでいただく、ということは、
どれほどの価値のあることか知れません。

真の父母様は、私たちが幸せにならない限り、
ご自身も喜び、幸せを感じることができないお方である、
そのことを改めて感じました。

孝情の心情を持って、
神様・父母様に喜んでいただく歩みをすること、
今がその最頂点にいることを思いつつ、
さらに精誠を捧げていきたいと思うのです。




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※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
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全ての責任は私自身に帰属するものであります。

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