2023年01月21日

18で文先生に初めて会った頃は、心情の隔たりがありました 《金元弼先生》




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金元弼先生のみ言。
今回は、「先生と心情的距離があったころ」です。


先生にお会いした時の私の心と、
先生が刑務所から出られて避難していた時の
心との変化について、述べたいと思います。

最初先生にお会いした時の私は、
ただただ私とは次元の違う方だと考えました。

ちょうど小学生が初めて入学した時、
自分の先生に対して感じるのと同じように、
次元の違うお方であると感じたのです。


今、ヨーロッパの兄弟たちは、
学校の先生に対してそういうことを
感じるかどうか分かりませんけれど、
私が幼い時、教えてくださった先生に
対しては、とにかく尊敬の念で対しました。

今は韓国も、西洋文明が入ってまいりまして、
小学生でも先生に対する
尊敬の念はかなりなくなりました。

学校の先生を尊敬するようになったのは、
その当時の先生が、親が子供に対するごとく
教え子に対して犠牲的奉仕をもって
教えてくれ、愛してくれたからです。


先生も模範的な生活をしたのでした。
自分の尊敬する先生の写真を
ポケットの中に入れて歩くこともありました。

私たちが原理を理解して子供を教えるならば、
子供たちは私たちを尊敬して
くれるようになると思います。

三六〇軒の人に奉仕し、尽くすならば、
彼らは最初のページに
文先生や親の写真ばかりでなく、
私たちの写真もはるようになるだろう
ということも、先生のみ言の中の一つでした。


学校で子供にそのように教えるならば、
子供たちは先生をそう考えるようになるのです。

その学校では、先生の恩に
感謝するということで、謝恩会がありました。

幼いころ、自分の先生を
そう考えていたせいか、
文先生にお会いした時に、
私はそういう心を抱きました。


率直に言いまして、先生は私たちと違って、
トイレにも行かないし、食事もなさらない、
そういう超人間と考えました。

私の年はその時、もう十八でした。
その私の目には先生と共にいた霊能者も、
年取っている人も、すべての人が
天使のように感じられました。

そしてその人たちのお話は神のみ言のようでした。
私はただ聞くだけで信じられるものですから、
聞くだけでいっぱいで、
何も言うことがなかったのも当然なことだと思います。


ある日のこと、先生が牢屋に入られた時のこと
ですけれども、ある婦人の食口が
教会の庭にあった花鉢が壊れていたので、
それを丁寧に直していました。

そして「人間の心霊がこのようであると
するならば、どうでしょうか」
と独り言を言っているのを聞いて、
私は信仰のあり方を習いました。

先生が牢屋に入る前、私はいつも家から通い、
先生とある距離をもってお会いしていました。

ある時に、たまたま家に帰る時間が遅れて、
先生と一緒に休んだことがありました。
同じふとんに寝たのです。

夏でしたので非常に暑く、その当時、
教会には南京虫がたくさんいました。
それは丸くなっていて人の血を吸い、
かまれたらとてもかゆくてはれ上がります。

色は赤くて、茶褐色みたいな虫です。
今からもう三十三年前ですから、
駆除するいい薬がなかった時のことです。

夜中の一時ごろになって床に入ったのですが、
先生は隣で全然分からないで寝ておられるのに、
私は最初からかまれて
かゆくて眠ることができませんでした。

眠れないこと自体は問題ないのですが、
とにかくかゆくて仕様がありません。
でも、私がかくために体を動かしたら、
先生が眠れないと思いまして、闘っていました。

そして私もいつの間にかくたびれて、
寝てしまった覚えがあります。

 
先生にお会いすると、心は喜ばしいのですが、
何も話ができない状態でした。

一人でいる時には、これを聞きたいと思う
大きな悩みがあっても、
いったん先生のところに行くと、
いつの間にか小さな悩みに変わり、
聞こうという勇気が何も出てきませんでした。

しかし家で一人になると、
その悩みがどんどんどんどん大きくなって残ります。

そしてまた先生にお会いして、
いろんな話を聞いていると、
それは小さくなってしまいます。
「なぜこんなことで悩んだのだろう」と考えました。

それで家に帰ると、それがまたまた大きくなってきます。

「これだったら、先生にお話しして
打ち明けたら良かったのに。
次に行ったら話そう」と考えて、また訪ねます。

しかし、また小さく見えてきて、
何も問題になりませんでした。
そのようにして、いつの間にか自分で
それを解決していくようになったのでした。

それから後も、いろいろと問題はありましたけれども、
直接お聞きしなくても、間接的に
色々なみ言を聞くことによって、
一人で整理していくようになりました。

私はそんなに深刻な問題をもって、
「これはどうですか、あれはどうですか」
と先生にお伺いした覚えがありません。

どんなに信じられないことがあっても、
先生のすべてを見ることによって、
徐々に全部分かっていくようになりました。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「先生と心情的距離があったころ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題



金元弼先生ならではの証しだと思います。
日常生活のお父様の様子
草創期の様子が知れて感謝です。

また、み言を語られるお父様の姿だけではなく、
何気ない日常の中でも、
お父様を尊敬している、
元弼先生の姿を伺うことができます。

日々の生活に完全投入されているがゆえに
南京虫などにも意識を奪われないお父様なのでしょう。

また、疑問に思っていることも、
お父様に質問されないにも関わらず、
説教などで解決していかれたことも、
今の私たちに通じる内容化と思います。


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2023年01月12日

主との生活の始まり あの頃、釜山の小さな部屋で 《金元弼先生》




210314.jpg


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「『原理原本』の執筆」です。


その後、私は米軍部隊で働くことになりました。

その間、先生は原理を執筆され、
私が帰ってくるとそれを私に渡してくださるので、
読んで差し上げると先生はじっと聞いておられました。

先生はよく山に行かれ、
暇さえあれば山から石を拾ってきて、
土を運び、家を造る準備をされました。


そのころ、私は米軍部隊で
いろいろなペイントの仕事をしていました。

ある日、私がいたずら半分に絵をかいていると、
先生が御覧になって、
「これからどんどん絵をかくように」
とおっしゃるので不思議に思っていました。

するとある時、同じ職場の人が私に、
絵をかいてみないかと言うのです。

その人は米軍の婦人とか女友達の写真(絵?)を
かいてあげていたのですが、
私にもその注文を取ってやる、というのです。

 
最初の仕事は黒人の写真でした。

私は黒人を見たことがなかったので、
どんな色を入れたらよいのか迷いながら、
とにかく四時間半かかってそれを仕上げました。

私はそれでお金をもらおうという考えはなく、
ただ悪口さえ言われなければと思っていたのですが、
意外にもその人は「良くかけた」と言って
お金をくれ、さらに注文を取ってくれました。

それで私は力を得、先生のお言葉どおりに
絵をかくようになったのです。
その後、食口の数が増えれば増えるほど、
注文も多くなっていきました。

 
私は毎日、五時に仕事を終え、
注文を受けて帰って来て、
それから絵をかき始めるので、
いつも終わるのは午前零時か一時ごろでした。

先生は私が帰る前に市場に行って
必要なものを買って、
絵をかく準備をしてくださいました。

そして、私がかき終わるまで
そばで見守っていてくださり、
そのあと私が休むと、先生はそれを
朝持って行けるように、
切って丸めて準備してくださるのでした。

そのうちに、先生も色を選んだり、
背景をかいてくださるようになり、
またしばらくすると、
私は顔だけかけば先生が服や髪の毛や
背景を塗ってくださるようになりました。

そうして、一日に十五枚、二十枚と
注文が来て、時には午前四時、五時まで
かかることもありました。


時々おばあさんの食口が訪ねて来て、
疲れるので横になろうとすると、
先生は「このように苦労しているのに
眠ってはならない。
眠りが来たら壁に寄りかかって寝なさい」
とおっしゃいました。

仕事をする人は仕事に酔うので
それほど疲れを感じませんが、
そばでただ見ている人は、
大変だったろうと思います。

そのような中で、先生は絶対に
私の前から離れないで見守っていてくださったので、
私は疲れても耐えることができました。

 
私は働いて得たお金は全部先生に差し上げました。

すると先生は、一か月間食べる米と燃料、
石油、そしておかずとして煮干しを
先に買っておかれました。

私は部隊で食事をしました。
先生は御自分で御飯を炊いて召し上がることが多く、
先生は女の人よりも上手に食事をつくられました。

先生は貧しい修道者たちに
米や服を買ってやったり、
またお金を与えたりして、
お金はすべてそのように使われるようでした。

ある日先生が、「あなたが持って来たお金を
全部使った」とすまなさそうにされ、
誰々に何を買ってやったとか、
何にいくら、本を買うのにいくらかかったと、
私に報告をされました。

先生がそのお金をどう使われようが、
いったんおささげしたものだから私には関係ないのに、
かえって私の気持ちを案じてくださる先生の姿に、
自分の足りなさを感じ、
もっと尽くさなければと心の底から思いました。

 
私の帰りが遅くなると、先生は
路地まで出て来て、待っていてくださいました。

また私が疲れて眠ってしまうと、
先生はよく泣き声の混ざった声で歌われたり、
祈ったりされました。

ある時には、まだ暗いのに私を起こして
山に登り、岩のある所で、先生が
「あなたはここで祈りなさい、
私はあそこで祈るから」と言われて、
一緒に祈ったこともありました。

 
ある日の早朝、先生は突然私を起こして
「早く明かりをつけなさい」とおっしゃいました。

私がランプをつけると先生は、
鉛筆と紙を用意させて「私の言うとおりに
書いておきなさい」と言われました。

私たちが何か文章を書く時は、
途中で考えたりしますが、先生は
初めから終わりまで休まず続けられました。

それは再臨論に関するもので、
『原理原本』はほとんど先生の筆跡ですが、
その部分だけは私の筆跡になっています。


先生は神のために愛して、
それでもなお不足を感じられる方です。

だから私たちも、いつも不足を感じながら
神と先生を愛し、またすべての人々に愛を与え、
また与えながらも自分の足りなさを感じている、
そうすることによって初めて、
天の誇りうる人となることが
できるということを信じます。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「『原理原本』の執筆」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


お父様に慕わしさを感じるとき、
お父様の若き日に、ともに歩まれた
金元弼先生の証しを読ませていただくと、
その時の情景が思いおこされ、胸が熱くなります。

お父様とともに、
お二人で生活された金元弼先生が
とても羨ましくなりますね。

以前、ある方から、教わったことがあります。

自分自身が御父母様とともに生活していた
お父様から愛されて育った・・・
そのように瞑想の中でイメージしていくと
本当に御父母様と親子の心情関係を結ぶことができる。

ですから、金元弼先生がその場におられたのではなく、
私がお父様とともに生活していたんだ。。。
そんな心情を持つことが重要だと感じます。

実際、2000年前におられたイエス様を慕うクリスチャンたちは、
一度もイエス様にお会いしたことがないにも関わらず、
かつては殉教を乗り越えてきたことがあったことを思えば、
イエス様を恋い慕う心情が強いのだと思うのです。

私たちはそれ以上に強烈に
真の父母様を慕っていかないといけないと感じます。




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2023年01月04日

平壌から徒歩で避難、2ヵ月で釜山到着 統一教会の礎は瓦礫の中から始まった 《金元弼先生》




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厳徳紋先生☆


金元弼先生のみ言。
今日は、「*厳徳紋(オム ドンムン)先生の入教と
釜山での開拓伝道」です。

釜山に到着したのが、1951年1月27日、
厳徳紋先生と再会したのが、1月28日のことでした。

6.25動乱(朝鮮戦争)で、北から命懸けで
避難した文先生たちでしたが──
70年以上前の1月のお話です。


ニヵ月ほど過ぎたころ、朴さん(朴正華氏)の足が
ほとんど治ってきたので別れて、
(文鮮明)先生と私だけが釜山(プサン)に向かうことになりました。
途中、蔚山(ウㇽサン)で初めて汽車に乗ることができました。

釜山に着いた最初の夜、先生は
昔、ソウルで日曜学校の先生をしておられた時の
弟子の家で休まれました。

私は他人の家なので、共に世話になることができず、
ある食堂に就職して、そこに寝泊まりするようになりました。


先生は、日本で一緒に勉強していた
厳徳紋(オム ドンムン:36家庭)さんに会われました。
そして厳さんの家に落ち着かれることになりました。

厳さんは、先生と学校時代
(早稲田大学附属早稲田高等工学校)の同窓生であり、
互いに友達のような間柄で、先生は厳さんに
これからの理想世界に対するいろいろな話をされました。


すると彼の夢にイエス様の妹が現れ、

「私はイエス様のことで私の母に恨みがあります。
 その恨みを解くには、大きな門があって、その中に小さな門があり、
 またその中にさらに小さな門がありますが、
 それを開けなければなりません。
 その鍵を持っている人は文先生だけです」

と言うのです。


その人は仏教の人ですから、キリスト教のことも
聖書の内容も全然知らないのです。

それで朝になって目を覚して、先生にお話しされるのですが、
その時はひざまずいて話しました。

昨日の夕までは、「君」「おまえ」と言ったのが、
その朝はひざまずいて、「先生」と言うのです。
そして先生に鍵のことを
「それは何のことですか」と聞くのです。

そこで先生は、ずっと歴史を
お話ししてくださったというのです。

そして、厳さんはそれからずっと熱心に
先生と共に歩んでいらっしゃいます。


また、先生は金さんという弟子の家に
二週間ぐらいとどまられたこともありました。

金さんは北韓の興南の獄中での最初の弟子でしたが、
その後結婚して小さな家に住んでいました。

先生が厳さんと働いておられた時、
部屋がありませんでした。
それで結婚して何日もたたない金さんの、
四畳の小さな部屋に行って一緒に暮らしたのです。

そこで先生は原理を書かれました。
『原理原本』です。

先生は厳さんと一緒に本の表紙を作る仕事をしながら、
原理を書き始められたのです。


ある時、先生は、

「ここではどうしても原理を書くことが
できないから、お前が下宿している所に
私は行かなければならない」とおっしゃいました。

それで先生は私が下宿していた所に
一緒に住まわれるようになりました。

その下宿というのは、三畳の部屋なのです。
だからもう先生の頭と足が壁にぶつかるのです。

そういう狭い所にいらっしゃりながら、
先生は原理を書かれ、
また開拓伝道をされたのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「厳徳紋先生の入教と釜山での開拓伝道」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

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2ヵ月かけてようやく蔚山(ウㇽサン)から
釜山に入られた真のお父様(文鮮明先生)と
金元弼先生でした。

長い道のりになったのは、例えばソウルも
そうですし、韓国の至る所で
戦火が上がって多くの被害が出ている中で、
釜山は、被害がない都市だったので、
多くの避難民同様、そこまで南下することになったのでしょう。

(ちなみに当時7歳の真のお母様は、
その頃、大邱(テグ)に避難されました。)


さて、真のお父様と早稲田の同窓生だった厳徳紋先生。
建築家として大きな業績をもたれつつも
共に歩み続けられ、
真のお父様の数ヵ月前に聖和されました。

釜山での奇跡的な再会に関しては、
自叙伝「平和を愛する世界人」にも掲載されています。

イエス様の妹が夢に現れたという証しは、
厳先生が見られたのですね。
確かにこの内容は、真のお父様でなければ、
解くことができない話だと思います。


また、原理原本を書かれた場所というのも
金元弼先生のそばで書かれたということでした。

釜山といえばポムネッコルであり、
そこで原理原本を書かれたと聞いていましたが、
同じ年1951年の8月に建てられたので、
それより以前に書き始められていたのですね。

元弼先生の下宿は、たった、三畳の場所でしたが、
スペースの大きさが問題なのでなく、
心情の基台が問題である、
ということなのだと思います。





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*厳徳紋(オム ドンムン)先生
 2012年天暦5月12日(陽暦7月1日)聖和。享年93。
 真のお父様の日本留学時からの友人であり、後にお父様を人生の師として仰いだ。
 世宗(セジョン)文化会館やロッテホテルなどを設計した韓国有数の建築家。
 真の父母様は嚴徳紋先生の聖和の報告を聞かれると、「天心(チョンシム)親舊(チング)」の揮毫と花を贈られ、霊界入城の道を祝福された。

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