2022年12月26日

自分の考えではついていけない?! I Will Follow Him 《金元弼先生》

休まず行かなければならない! 通行禁止を予知された主




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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
「自分の考えで先生を測れない」です。

 
南へ逃げるのに際して、私たちは毎日、
32キロの路程を歩かなければなりませんでした。

それで2週間くらいたった時、その日は
いつもより早く出発して、夜遅くまで歩いたので、
疲れに疲れ、ひもじくてどうにもなりませんでした。

一つの館を見つけて、そこに入って
食事の支度を始めました。

そこは主人のいない大きな家だったので、
たくさんの避難民たちがその中に入り、
寝ていたのです。

寝るといっても、ふとんがあるのでもなく、
荷物をベッドのようにして、
着物を着たままで寝なければなりませんでした。

食事の支度をして、それを食べてしまうと
非常に疲れが出ました。
夜の11時になっていました。

 
それで朴(パㇰ)さんと私は、
ここで休んでいくことを先生にお願いしました。

いつもなら受け入れてくださるはずでしたけれども、
「行かなければならない」とおっしゃって、
この時は2度、3度お願いしても、
聞き入れてくださいませんでした。

12月の末だったので非常に寒く、
また疲れていましたが、仕方なくまた出発し、
2、3時間歩いてから、
道端に家を見つけて、そこに泊まりました。

 
次の日は、朝早く出発しましたが、
途中で橋が全部壊されている川があり、
その中を渡らなければなりませんでした。

そのころは、UN(国連)軍のジェット機が
空をうるさく旋回しており、向こう岸では
UN軍がバリケードを構築していました。

後ろからは、中共軍が加わって追撃し、
大砲の音が身近に聞こえる切迫した時でした。

ちょうど私たちがその川を渡ろうとした時のことです。
一人の若い将校が、「以後、この川を
避難民が渡るのは許さない」という命令を下しました。

敵軍がどんどん追撃してきているので、
最終的にこれを防ぐためにバリケードを構築しているのです。

ところが、避難民をそのままほうっておくと
作戦がうまくいきません。
いったん通過を全面禁止にすれば、
作戦を自由に行うことができるのです。

その命令は、私たちが渡り終わった時に下されました。
その人たちが私たちに、「避難してここまで
渡ってきたのだから、これを手伝え」と言うので、
私たちは一生懸命に手伝ってから、また出発しました。

 
そこで私は、昨晩、もっと休んでいきたいと
先生に申し上げたけれども、
先生が聞いてくださらなかった理由が、
その時、初めて分かりました。

私が「寝ていきましょう。泊まっていきましょう」
と言った時に、先生がなぜ泊まってはいけないか
と一つ一つ説明されたならば、私はすぐに納得したでしょう。

しかし、そういうことを言われないで、
ただ「行かなければいけない」
と言われただけでしたので、
なかなか理解できなかったのです。

先生には、そういう世界があるのです。
自分の考えで先生についていこうとしたら、
難しいことがたくさんあります。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「自分の考えで先生を測れない」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


川を爆破することをお父様は
予知されていたのでしょうか。。。

何か胸騒ぎがあったことは間違いない、と思います。
でも、そのことをあえて語られない、
というところに意味があるようにも思います。

そういうことを考えると、
中心と一つになることは重要であると感じます。

一つになることによって、
結果は必ず導かれると思うのです。

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2022年12月14日

雪の降る12月、北から南へ、困難な避難の道のり 「今日よい貴人に会うだろう」 《金元弼先生》




221214-1950.jpg


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「朴正華さんと共に南下」です。


そうこうするうちに、平壌の人たちは
みな避難してしまいました。

ところが先生は、そういう一刻を
争う時であるにもかかわらず、今度は、
「君、これから朴正華さんを連れてきなさい」
と私におっしゃるのです。

それで私が朴さんを訪ねると、朴さんの家族は、
「自分たちの避難に差し支える」と言って、
自転車1台と犬1匹を残して、
先に行ってしまったというのです。

取り残された朴さんは、先生までも
自分を捨てて行ってしまったのではないか
と思って泣いていたのでした。

ところがそのような先生のお気持ちを知って、
あまりのうれしさにどうすることもできないほど喜びました。

早速、彼を自転車に乗せて、先生の所に連れていくと、
先生がその自転車を押していくことをお決めになり、
私はその後から荷物を背負ってついて行きました。

それは雪の降る寒い冬の日でした。


こうして私たちの避難生活は
12月4日から始まりました。

あまりに急いだので、婦人たちを残して男子だけが避難しました。
その時は数日後にはまた帰って来れると思っていたからです。

大きな道は作戦上国連軍が遮断してしまったので、
私たちは山道を行かなければならなくなりました。

中共軍の介入で砲声が耳元に聞こえ、
避難民と国軍がみな下っていったので、
人々の心は非常にあわただしくなりました。

そんな時、坂道を越える前に休んでいると、
朴正華さんが「先生、このままでは私のために
2人共死んでしまいます。
私を残して先に行ってください」と言うのです。

すると先生は、「神のみ旨で因縁をもった私たちは、
死んでも一緒に死ぬし、生きるのも
共に生きなければならない」と言われました。

私たちはその言葉に希望を得て、
再び立ち上がったのでした。

 
私たちは、黄海道青丹(ファンヘドチョンダン)(海州(ヘヂュ)
延安(ヨンアン)の間)にある龍媒島(ヨンメド)から
船で仁川(インチョン)に直行するために、
3キロ余の道のりを休まず歩き、
青龍半島南端にある確山里(ファㇰサンリ)村に着いたのは、
早朝2時か3時ぐらいでした。

そこから龍媒島までの400メートルほどの泥道を、
寒い冬、ズボンをまくり上げて、
私は自転車を背負い、先生は朴さんをおぶって渡り始めました。

電気がないため暗く、海の向こうの島の、
綿に油をつけてともしたかすかな灯を目標にして進みました。

満潮になると渡れないので、引き潮の時に渡りましたが、
それでも水が所々にたまり、また砂でなく泥なので滑りやすく、
足が吸い込まれそうで非常に危険でした。

また朴さんはギブスをした足をつっぱっているので、
おぶって歩くのは大変なことでした。

途中で一度でも倒れてしまえば、医師もいないので
治すこともできない、そういう状態の中を、
やっとの思いで渡りました。


しかし、着いてから乗ろうと思っていた船に乗ることができず、
仕方なく再び確山里に戻ることになったのです。

おなかはすき、寒い中を、
また海を渡らなければならないことを思うと、
朴さんも私も非常に心細くなってきました。

すると先生は、それに気付かれて私たちに、
「きょう、私たちを接待してくれる良い貴人に
会うだろう」とおっしゃいました。

その話にとても元気を得て、再び海を渡ったのです。
村に着いた時は、すっかり日が沈み、
一段と寒くなっていました。


ところが、その村を守る人たちが先生を
人民軍の敗残兵と間違って殴りつけてきました。
南韓の軍人は髪が長いのですが、
人民軍は髪を短く切っていたからです。

それで先生は、荷物の中から聖書を出して、
自分は牧師だが刑務所で
髪を切られたのだと説明しました。

村人たちは、先生が本当の牧師で
あるかどうかを知るために、聖書を開いて
聖句の内容をいろいろと尋ねましたが、
先生は聖書を見もしないで、すべて話されたので、
やっと帰してくれました。

途中、道端の明かりを訪ねて戸を叩くと、
若い夫婦が迎えてくれ、
良い部屋と温かい食べ物を用意してくれました。


次の日、私は昨日先生がおっしゃった言葉どおりだ
ということに気付きました。

昨日、私たちは弱い心をもってしまって、
先生に「ご苦労さまでした」と慰めの言葉を
言えなかったので、あのような言葉を
先生に言わせてしまったということを悟ったのです。

その「良い貴人」に会うには会えましたが、
先生が村人たちから殴られたことを考えると、
私たちが受けなければならない鞭を、
先生が代わって受けられたのではないかと思うのです。

このようなことを見る時、すべての恵みは、
先生がその苦難を受けられた代価として
私たちに与えられる、ということを悟るようになりました。

 
朝は早く起きて食事をとるとそのまま歩き、
日が暮れて方向がつかめなくなると、
どこの家でも構わず入って御飯をつくって食べる
というのが避難の日課でした。

ある時、夜明け前に空家で休むことになり、
御飯をつくるための薪を探したのですが見当たりません。
冬なので乾いた草もなく、その家でも壊さない限り、
木がないので困り果ててさまよっていると、
我知らずその村の共同墓地に着いていました。

ふと見ると両側に木のついたかますの
担架があったので、喜んでその木を引っ張ってきて
火をたき始めました。

ところがその担架はその村の死人を運ぶのに
使われたものだったのです。

先生と朴さんは寒い部屋の中に座っておられたのですが、
先生が部屋の中から戸も開けずに、
私に「何を燃やしているのか」と尋ねられました。

それでわけを話すと、先生は
「どんな木でもすべて燃やすのではないよ」
とおっしゃいました。

先生は部屋の中におられながらも、
不浄な木を燃やしていることを知っておられたのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「朴正華さんと共に南下」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


戦争の最中、南に下るのも大変なのに、
足の折れた朴正華氏とともに下って行かれたお父様。

この人を背負わずに、人類を救うことができようか。
まさに、朴氏を人類の代表として、
下っていかれたといいます。

また、証しにあるように、
想像を超えるような困難な状況の中であっても、
神様が必死に導いておられ、
貴人に会うなど、すべて準備して
守ってくださったのだと思います。

元弼先生がおっしゃるように、
再臨主、真の父に侍る立場としては、
弟子の方が慰めるべきなのでしょうが、
あのような限界の中では、
ついていくだけでやっとだったに違いありません。

元弼先生がいなければならなかったし、さらに、
足の悪い朴氏がいなければならなかったのでしょう。

元弼先生は、先生をとても助けたに違いないし、
さらに、足でまといに思える朴氏が
いたからこそ、頑張って進むことが
できたのだと思うのです。






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2022年12月06日

失敗をはずみにする! 避難勧告下、最後の避難民となって・・・ 《金元弼先生》




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金元弼先生のみ言。
今回は、「失敗をはずみとする
避難命令下でおばあさんを探す」です。

失敗をはずみとする

(文)先生は困難な中にあっても、余裕があるのです。
難しいことがあっても、
それを難しいものとはとらえないのです。

例えて言いますと、ちょうど商売をやっていて、
それが失敗してお金を全部失ってしまったとしましょう。

そうした時には、お金を失ったことで
苦しんだり、悩んだりします。

それはちょうど男がばくちをするために
お金を借りたけれども、ばくちに負けて
お金が吹っ飛んだという気持ちと同じだというのです。

そういった時に、先生はどうとらえるのでしょうか。
将軍が戦いで負けることは、普通にあることだと考えるのです。

私たちは一つ失敗したら、立ち上がれないくらいに
心配して、悩むことがいっぱいあります。

しかし、先生の場合は、
「もっとよくやる」という心で、
それを全部吹っ飛ばしてしまうのです。

理解できますか。

私がこういうふうに話すのは、
皆さんがたまたま誤ったとしても、
それに執着して悩まないで、
それを刺激として次のことに突進していく
態勢を整えることが必要だと思うからです。

避難命令下でおばあさんを探す

先生が食口たちを訪ねておられると、
既に十二月四日になっていました。

戦況は、中共軍が参戦するとまた北が優位となって、
国連軍は南下し始めました。

その後、「全員避難せよ」という指示が下り、
自由を求める人々は北から南へ、
どんどん避難し始めました。

みんなが次々に避難する中で、
先生はあるおばあさんの食口を
最後まで探しておられました。

市民は朝早くから全部逃げていったのですが、
おばあさんを訪ねて日が暮れるまでとどまりました。
それで避難は一番遅れました。


そのおばあさんは、四十歳になるまで
字が読めなかったのですが、神の手が現れて、
聖書の文字を一つ一つ指しながら
読み方を教えてもらったのだそうです。

また、いつも祈りに行く場所にある老木が、
「おばあさん、倉庫でもいいから
私を使ってください」と頼んだり、
高い山に登ろうとすると、風がフイと吹いて
おばあさんを持ち上げて、
山の頂上に置いてくれたりしたのです。

その方はキリスト教が入ってくる前に、
土俗宗教を信じていました。

ところが、ある日神様が現れて、
「その宗教はそのくらいにして、
これからは私の導く教会へ行きなさい。
十字架の、とがっているあそこの教会に行きなさい」
と教えられて、イエス様を信じるようになりました。

そのおばあさんが先生に会ったのは七十六歳の時で、
先生をメシヤと信じ、いつも先生のそばに座っては、
先生の服に触りたがっていたのでした。


十二月四日に先生がやっと探し当てたら、
そのおばあさんは、もはや死ぬ寸前のような状態でした。

私が先生の代わりに、そのおばあさんの所に行って、
大きな声で先生の無事を伝えると、
おばあさんはもうろうとした意識の中で、
「うん」と返事をしました。

このことを先生に伝えると、先生は初めて
「ではこれから避難しよう」と言われ、
やっと出発することになったのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「失敗をはずみとする」
「避難命令下でおばあさんを探す」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


最近、仕事でうまくいかないことがあり、
どうすることもできない状況に陥りました。

自分の足りなさ、不甲斐なさに落ち込みつつ、
さて明日のブログを造ろうと
記事を見た時に、救われる思いになりました。

元弼先生の例えがちょっとすさまじいものですが、
しかし、最悪な状態になったとしても、
執着して悩まない、という精神を
文先生は持たれているということを考えると、
何か、気持ちが晴れたような気がしました。

現実は変わりませんが、
心の持ちようが大事である、と思います。

また、後半の内容ですが、神様を愛する心情は、
神様と出会った人との縁を、大事に貴く思っていた
その心情の現れである、と思います。

神様を愛するように、人との縁を貴く思われるお父様。
私たちも相続していきたい、と思います。


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