2023年01月26日

自分勝手に生きる人は、精神的におかしな人?! ・・・現代人が不幸なワケ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》




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2023.1 HJ天宙天寶修錬苑


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「神を喜ばせる生活」の前半です。  

重要な所属関係

「自分という存在が本然の位置にいるか」、
「自分という存在は縦的関係を
はっきりともっているか」、
このことが人間としての根本であり、
存在位置なのです。

「私という者は、
人間としてしかるべき人なのか」、
このことを確認しながら生きていかなければ、
自分を捨てた人と同じになります。

縦的関係を確認せずに生きる人は
不幸の極みであり、わがままであり、
自分を捨てた人であって、
生きているように見えても、実は死んだ人なのです。

今この時は楽しそうに、誇らしそう(に)
見えるかもしれませんが、
実は、不幸におぼれやすいのです。

そのような人は、その時は誇らしく思っても、
あとで恥ずかしい道を行くようになります。


ですから、人は根本を、所属を
はっきりと知らなければなりません。

自分の立場を忘れて、父母のことや
師のことが眼中にない態度をとっている人は、
精神的におかしな人として見るしかないのです。

心理学者たちは、「多くの現代人は
精神病患者である」と言っています。

それは、自分の所属関係を
はっきりと決定していないからです。

父母も師も眼中になく、だれからも
干渉されず気ままに行動する人は、
明らかに精神病者なのです。


人間において所属関係、すなわち
因縁関係が一番重要です。

人間は、もともと自分を肯定して
生きるようには創造されていません。

ですから、自分勝手に、「私はただ
私のために生まれた」と考えてはなりません。

「私は創造主のものである。
所属した関係圏内で誇らしく生き、
責任を果たしていくべき私」なのです。

 
試練の中で、相対関係をもつことに
注意するようにとのみ言を聞いたことがあると思います。

人の心は、環境によって左右されやすいものです。
また、子供は環境によって支配されます。
ですから、子供は母親の目の届く範囲にいれば安全です。

ひな鳥はめんどりの近くにいなければ、
禿鷲などの外敵に襲われる危険性がいつもあるのです。

ひな鳥がめんどりと一緒にいる時
その生命が保たれるように、皆さんは
自分の存在位置をよく守っていなければなりません。

ひな鳥が禿鷲に対抗できないように、
皆さんも自分一人の力では行動できないのです。
もしそのようにすれば、この社会の
あらゆる不信の波が押し寄せてくるのです。

ですから、めんどりの懐で育つ雛のように、
人は神様の懐で育たなければなりません。

 
そのためには、所属関係を一番重要視することです。

もしもその関係が崩れてしまったなら、
世の中の大きな激しい波が押し寄せてきたとき
流されてしまいます。
到底その波に耐えることはできません。

皆さんはそのようなことを
何も知らないのに、自分勝手です。
ですから、小さなことから実践しなければなりません。


「むやみに話をしてはいけません」ということは、
縦的な位置を守らせる訓練なのです。

また、「時間を守りなさい」と言われ、
できるにもかかわらずそれをしない人は、
世の中の波に流されてしまいます。

神様は、「取って食べてはならない」
という戒めを下さいました。

しかし、アダムとエバはその戒めに無関心だったのです。

今日、神様は皆さんに、
「時間を守りなさい。
むやみに話をしてはいけません」と頼んでいます。

このような戒めに対する責任を果たすことは、
主従関係を大切にすることと同じです。

 
それでも、自分勝手に行動する人には
もはや希望がありません。

ごく小さなことに対しても、
自分勝手に行動する人には希望がないのです。

神様は、ごく小さなことに対しても
大事にする人には良い印象をもち、
大きな仕事を任せることができるのです。

またそれを守れなかった時には、
神様はどんなに失望されることでしょうか。

私たちは、大きなことよりも、小さなことで
気持ちが良くなったり、悪くなったりします。
ですから神様も同じなのです。

天は小さくて見るに足りないようなこと
だとしても、大事に守れる人を「義」とされるのです。

ですから、私たちは小さなことであっても
真面目に大事にし、
相対関係のことを考えなければなりません。

 
米一粒にも一年の年月が刻まれており、
一円のお金にも、血と汗が込められている
ということを知らなければなりません。

お金持ちとは一円のお金でも大切にし、
一粒のお米でも自分の全財産のように思う人です。
お金一円を軽んじ、米一粒を無視する人は、
そのゆえに恥をかき、
惨めな立場に立つことがあるのです。

失敗する人は大きなことによって
そうなるのではありません。
むしろごく小さなことを無視して、
惨めなことになるのです。

きょう皆さんには、このような
平凡な真理を大切にしてほしいのです。

小さなことを実践して、
自信に満ちるようになるのです。

人は、自分のために生まれたのではありません。
真の御父母様は、皆さんが小さな生活を
どのようにしているのかを注意深く見ておられます。

大きなことを願われているのではありません。
小さなことに真面目で、誠実で、万事に感謝している時、
真の御父母様はそれを御覧になって、
誇らしく思われるのです。

それが真の御父母様の心情なのです。

 
家を建てるためには、
基礎工事をしっかりしなければなりません。
人も基礎がしっかりしてこそ、
将来希望があるのです。

その基礎とは、人間がもつべき基本姿勢なのです。
姿勢がしっかりしていない人は、
一生の間、人に迷惑をかけるようになるのです。

ですから、信仰基台を
正しく立てていかなければなりません。
その基台の上にしっかりと根を下ろしてこそ、
将来が明るくなるのです。

人にはだれしも時があります。
木に新芽が出、花が咲き、実が結ばれるのに
時があるように、人においても時があるのです。

その時を逃すと、不幸になります。
十歳前後になってできる人もいますが、
その時期を逃して三十歳前後に
立てられたとしたなら、それは本当に不幸です。

夫婦が不和であると、子供にそのような
基礎ができる時期を阻むことになります。

十歳から二十歳の間に、
生きていくための基礎が整わなければなりません。

(『統一世界』一九九〇年九月号より翻訳転載)

21・神を喜ばせる生活
「重要な所属関係」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


小さなことを大切にする生活。
「一円のお金でも大切にし、
一粒のお米でも自分の全財産のように思う」
このように思って生活することが大事なのだと思います。

何よりも、文先生ご自身が
そのような生活をしていかれました。

万物を創造された神様を
愛されるがゆえに
万物を貴く思われているからではないか、と思います。

私たちも日常の何気ないことにも、
神様を思い、万物を貴く思う、
そのような心掛けをしていきたいと思うのです。


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2023年01月18日

逆境を喜んで越えていく人は、神が義人と認める 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》




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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言
「神のみ旨を推し量ろう」から後半です。

義のある人とは

世間はこのような法則を知らなければなりません。
皆さんは、これからこのような法則を知って、どんな逆境にぶつかっても、
それを喜んで受け入れて越えていかなければなりません。
整えられた良い環境で義人として扱われるのではなく、
差別されたり、苦しみを受ける環境にあっても不平不満を言わず、
すべてを受け入れて消化すれば、
神様も驚いて義人として扱わざるを得ないのです。

神様はみ旨の上で決して過ちを犯されませんでしたが、
現れた結果を見た場合には、過ちを犯したように見えるのです。
アベルを愛し、カインを憎んだということは、
矛盾した現実として思われるのです。

結果的にカインは過ちを犯しましたが、
神様は既にカインが愛の減少感を感じるだろうということを知っておられました。
しかし、カインがもし、そのようなことを全然表さずに
アベルよりももっと孝行息子になったならば、神様も感動するのです。

義のある人とはどのような人をいうのでしょうか。
それは冷遇されながらも、それを喜んで受け入れていく人です。
神様は、神様に忠誠を尽くす人に対しても、
罰を下したり逆境に押し入れたりされる場合があります。

家庭から追い出されたヤコブが、
ベテルで石を枕にして自分の生涯を考えたとき、
どれほど惨めであったことでしょうか。

ヤコブはいつも疎外されていました。
ヤコブは家では僕の生活をしながら、父母の前には孝行息子でした。
兄のエサウには、いつも心を痛めていましたが、
弟としての責任は果たしていました。
そのように真心を尽くして家事を手伝っていましたが、
兄エサウから追い出されたのです。

孝行息子であるヤコブに、このような不幸が起こるはずがありません。
しかし、ヤコブは兄から追い出され、
母方のおじラバンの家に行くようになりました。
その時でさえ、ヤコブは一言の不平も言わず、
疑いもせず、胸に希望があふれていました。
落胆せざるを得ない立場にあっても、むしろ希望をもっていたのでした。
これを見て神様はびっくりされ、ヤコブを訪ねてお供されたのです。
義のある人として扱われるには、
ヤコブのような行動を見習わなければなりません。

良い環境の中で義人として扱われることは、
だれにおいてもできる易しいことです。
価値を認められているのに、どうして義人として扱われないのでしょうか。
父母が子供を等しく愛していて、不平を言う子供がいるでしょうか。
不公平に扱われたとき、大方の人は、その心に悔しい思いがわいてきます。
これは正に、私たちの体の中に隠れていた
カインの性格の要素が、現れたものなのです。

主体者が不公平に扱うのには、理由があるのです。
神様が人それぞれに対して、
不公平な立場に立つのには理由があるということを知っていると、
義のある人生を過ごすのに非常に役立ちます。


お父様の行かれた道
 
信仰生活とは、計算するものではありません。
第一に、このことを心に深く刻んでおきましょう。
義のある人として扱われるには、まず疑わないことです。
疑う心をもつと、義のある信仰生活ができません。
「あの人はあんなに愛されるのに、なぜ私はこんなに軽んじられるのか」
と比較してはいけません。

これがアダムの家庭において見つかった秘密なのです。
世の中の人はこのことを知りません。
思想界においても、神学界においても、これを知らないのです。
ですから、不平や不満が起こるのです。
そしてそれらが原因となって、不和やデモが生じるのです。

神様がアベルをより愛されるようになった秘密を、お父様が発見されました。
皆さんはこのことをよく知らなければ、義のある人にはなれません。
お父様が平壌に行かれた時のことです。
その前には「栄光の路程である」と天から啓示を受けられたのです。
平壌にお父様に仕える霊能者たちが待っている、
ということで行かれたのです。

しかし、それは裏切られました。
栄光ではなく、監獄に入らなければならなくなったのです。
しかし、お父様は苦痛を栄光として、喜んで受け入れて監獄に入られました。
それを一生涯の価値を立てることのできる期間として考えられ、
監獄の中ですべてを投入されたのです。

義のある人として扱われる機会が、いつも与えられているのではありません。
普通の生活をする時は、平凡に見えても、
一度忘れられない義の道理を立てることができるのです。
ヤコブはベテルで、イエス様は十字架上で、
お父様は興南収容所で、苦痛の立場から勝利されました。
そうした時、天はびっくりするのです。

大きくなれる人は、苦痛の環境を克服できるのです。
大きな木になり、材木となれる人は、
差別されても天のみ旨を良く推し量ることができるのです。
差別されても、黙々と我慢していけば、天は必ず認めてくださるのです。
カインは、越えるべき蕩減法を正しく知らなかったのです。
今後、私たちはカインの前轍を踏むことなく、
苦痛の中でも天のみ旨を推し量る人にならなければなりません。

     
(『統一世界』一九九〇年八月号より翻訳転載)

20.神のみ旨を推し量ろう
「義のある人とは」
「お父様の行かれた道」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


このみ言を訓読しながら、
「環境によって主管される葉となるな」
というお父様のみ言を思い出しました。

義人は、どんな環境にあっても
感謝していく姿勢が大事だと思います。

それが正にお父様の行く道であり、
私たちが目指すべき道であると思います。

今の状況を感謝して受け止めていく、
そのような信仰を持っていきたいと思うのです。


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2023年01月10日

同じお腹から生まれても、なぜに天は不公平なのか*カイン・アベル 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》




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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言
「神のみ旨を推し量ろう」から紹介します。

環境の中の存在

私たちは、お互いに相対関係を維持しながら生きています。

一つの個体として特に意味をもつのではなく、
私たちの存在は四位基台をもって
生活することによって、意味があるのです。

いうならば、私たちは環境の中にある存在なのです。

相対関係において「義のある人」と言われるのは、
人々との関係に良い影響を及ぼす人です。

そのような人は、秀でるとか目立ったりしませんが、
相対的関係から見た場合、他の人に劣らないのです。

大体の人は、特別な事情がない限り、
このような関係が維持できます。

健康状態が良くないとか、病人で入院するなど、
自分の生活において他の人と同じ歩調で
前進できないのは、血統的な原因があるからです。

それは横的というよりも、縦的な原因による蕩減なのです。

カイン・アベルは血統的原因

聖書には、アベルは神様から愛されたが、
カインは見捨てられたと記されています。

一般的に人々は、アベルとカインは
神様から等しく愛されるべきであると思います。

兄弟が差別なく、同じ立場で、
愛されなければならないと思うのです。

しかし、カインは神様の目から外され、
アベルは愛されたというのですから、
これほど不公平なことがあるでしょうか。

同じ環境にいながら、神様は羊をささげた
アベルの供え物を受け入れ、
穀物をささげたカインの供え物は
受け取られなかったということは、
カインの立場からは
どれほど不公平に見えたことでしょうか。

私たちもこれと同じように、
自分は頑張ろうと努力していても、
神様や周りから疎外されていると感じることがあります。

これは血統的なところに原因があります。

カイン、アベルは同じ母親から生まれたのだから、
神様も同じ立場で接するべきなのに、
一人を愛し、もう一人を憎んだとは
本当に理解し難いことではないでしょうか。

カインの身の処し方

それでは、このように差別されたカインはどのように対処すべきだったのでしょうか。
神様から差別されても、憎まれる状況にあったとしても、
横的に不平を言わずに黙々と自分の環境を克服し、
責任を果たしたならば、ある期間を経て回復することができ、
神様の愛はカインに向かうことができたことでしょう。

カインは、「アベルはあんなに愛されて、
私はなぜこんなに憎まれなければならないのですか」
と抗議するのではなく、ただ我慢すべきだったのです。
アベルが神様から愛されたのは、アベルがかわいいからではありません。

ですから、カインは神様の心を推し量らなければならなかったのです。
そこで不平を言うと、条件に引っ掛かるのです。
すべてそうせざるを得ない理由があるのだろうと思いつつ、
これを喜んで受け入れ越えたならば、
カインは神様から義人として扱われたのです。
神様はそのような人を義人として扱わざるを得ません。
これが逆境にある人のもつべき心持ちなのです。

神様がカインを不公平に扱ったとしても、
カインは過ちを犯すべきではなかったのです。
神様は二人の兄弟を差別して愛しました。
平面的に見れば、神様が過ちを犯したとも思われます。
カインにとって、この扱いが神様の過ちであると思われたとしても、
カイン自らは、「私は絶対過ちを犯さない」と覚悟しなければならなかったのです。
近視眼的に見ると、神様が過ちを犯したように見えますが、
神様は何も過ちを犯しておられません。

このことが分からないので、世の中は乱れているのです。
カインとアベルの不平等は、血統的なところにその原因があるということを、
世の中の人々は知らないのです。
人々は、「すべての人間は一律に平等でなければならない」と言うのですが、
果たして人は一律に平等であることができるでしょうか。

(『統一世界』一九九〇年八月号より翻訳転載)

20.神のみ旨を推し量ろう
「環境の中の存在」
「カイン・アベルは血統的原因」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


神様は、アベルを愛し、カインを愛さなかった、
それには、事情があったのでした。

蕩減復帰の原則がそのようになっているわけですが、
しかし、カインは、愛されるべきでした。

すなわち、アベルを通して、神様の愛を受けるべき
立場にあったのでした。

神様から愛を受けていたアベルは、
その愛を独り占めするのではなく、
カインに分け与えないといけなかったのでした。

周藤先生がこんな説明をされています。

「アベルは神様からおまんじゅうをもらった。
でもそれはアベルのおまんじゅうではなく、
カインに渡すおまんじゅうだった。

本当はアベルは少しプラスして
おまんじゅうをカインにあげないといけなかった。
でもカインには渡さず、
自分のものだと思って
おまんじゅうを食べてしまった」

アベルとしての立場を全うすることも
重要であった、と思うのです。


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