2022年01月21日

親兄弟以上の関係をもっていますか? 自らを再創造する 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の「信仰と生活」、
「自分を兄弟の中で育てる」より
2コマを紹介します。

授受できる人に会いたい

大先生でも、韓国でだれも信じないから、
非公式でアメリカに行くようになってしまいました。

大先生を全世界が知るより、韓国が知ったなら、
韓国から絶対出ていかないのです。
しかし、知ってくれないから、
アメリカに行ってしまったのです。

アメリカで知ってくれなければ、ヨーロッパに行く。
知ってくれる所へ行く。
こういうふうになっているのです。


皆さんもそうでしょう。
皆さんを本当に知っている人が恋しいでしょう。

自分を理解できない人、それが父母であれば、
父母であっても、その所へ行きたくないのです。

なぜかというと、この素晴らしい理念を知ってくれない、
知ってくれないのだから、血統的因縁はあっても、
心霊的には授受できないのです。

本当の授受ができる人を探しに、教会に来ているのです。

そこでもし、ここで探せなかったならば、
自分の父母を捨てたのに、損したことになるのです。

だからここで、自分の父母より立派な兄弟を
得なくてはならないようになっているのです。
損をしてはいけないのです。

父母より以上、授受できる兄弟を得なくてはならない、
信仰をもたなくてはならないようになっているのです。

心情の通じる兄弟をもとう

ある人は、「私は大先生だけだ。
私の教会にはだれとも授受する人はいない」といいます。

そういう傲慢な人がいますが、
その人は大先生とは関係ないのです。

大先生は、私たちの主体者になるはずがないのです。
大先生は、神様がいるのだから、神様との関係だけです。

大先生は、神様と一体となる秘訣を私たちに教えたのです。
教えたのに、その言葉でもって
自分自身を創造もしないで、
大先生ばかりあがめていても、それは偶像崇拝です。

自分をほっておいて、イエス様にいくら侍っても、それは偶像です。
自分を再創造しないで、いくら神様がいるといっても、
それは関係のない話です。


生きた神様から、再創造の原理を私たちは知らされたというのです。
それを教えてくださった方が、大先生です。

この原理をもって、自分を創造しないで、
ただ大先生を恋しく思っても、それは怨讐です。
そういう人は、怨讐になるのです。

自分がまず、神様と一つになって、
「本当に原理によって自分はこうなりました。
ありがとう」、それが本当です。

だから皆さんは、自分の中にあるみ旨によって、
復活した心霊でもって成長するために出発したのです。

ですから今までの血統的因縁からみな離れていった理由は、
み言を中心とした兄弟を探しにいったからです。

その中で自分は、再創造されなくては
ならないようになっているのです。
そこで失敗したなら、かわいそうな人間になってしまうのです。

なぜかというと、父母も捨てた、
ここで兄弟は得られなかった、一人ぼっちになった。

どこへ行くか。風と共に去るのです。


だから他の宗教や統一教会に入って去った場合には、
自分の父母にも使い道のない人間になってしまうのです。

そのため、国家にも役に立たない人間になってしまうのです。
本当にかわいそうな人間になってしまうのです。

皆さんは、今、自分の父母や自分の血統的兄弟より以上の
密接な兄弟を、どれほどもっているでしょうか。

もっている人は、それが四位基台的な位置を確立した人なのです。
離れられない因縁を中心として、
情的にまで因縁が結ばれる、これが難しいのです。

7.自分を兄弟の中で育てる
「授受できる人に会いたい」
「心情の通じる兄弟をもとう」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


お父様がアメリカに渡られた理由を
摂理的な観点ではなく、
心情的な観点で語られたのは、
ヨハネ先生ならでは、だと思います。

今は、氏族を復帰するため、
氏族に愛を投入していくときですが、
かつての時代は、献身といって、
親から反対されてもみ旨を歩む、
そういう時代でした。

ですから、神様を中心とした
兄弟姉妹の関係がどれほど貴いでしょうか。。。

そういう心情関係を生涯貴く思う、
神様が結んでくださった縁を大事に思う、
そのことが私の心霊を育てていくのだと思います。


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posted by ten1ko2 at 08:28 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月06日

神と関係のない人間になっていませんか?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「心霊の安定した者になるために」から
2コマ紹介します。


み言による復活

神様が生きているとは、どういうことかというと、
自分を主管してくれる、また、
相談できるということです。

どんなことでも神の立場の事情を知りながら暮らすのが、
生きた神と共に暮らす人です。

習慣的に信仰する人は、死んだ神と生活しているのです。
生きた神とは関係のない生活をしながら、
行き詰まると、最後には「神様っているのかな」と思う。

神様が存在していると思って何十年も信仰していたのに、
「なぜ私はこうして行き詰まるのだろう」と言うのです。


神様がいるに違いないと思って、エジプトから出発したのに、
神様って本当にいるのかな、雲の柱や火の柱で導いた神様は、
もう私たちを捨てたのではないかと、途中でみな疑って、
モーセに対して不平不満を言ったのです。

こうなったイスラエル民族の不満を見たときに、
それは過去の歴史ではなく、
私たちも、心霊管理を間違った場合には、
神と関係のない人間になってしまうのです。

そんな自分になってしまうのです。
方向転回してしまって、
自分の中心が崩れていく場合があるのです。

み言によって復活した自分の中心が、自分を主管してくれるのか、
この心霊問題を深刻に反省してみなければならないのです。


兄弟に信用されよう

だから信仰路程において、自分の動機が生命なのです。

その動機がアルファでありオメガです。
永遠にそれを中心として行かなければなりません。

毎日私たちは、祈祷やみ言や、あるいは兄弟関係の中で、
自分の心霊を中心として暮らすようになっているのです。
その心霊は、信仰基台の上に安定するようになっています。

信仰基台とは何かというと、
人になくてはならない原理的な実績です。

家庭であれば家庭になくてはならない人になる。
家庭にも、先生や友達にも本当に記憶されて、
期待される信仰基台をもった人は、
教会に来ても、信仰を除いても、み言を除いても、
人間関係において、なくてはならない人になる。

負債にならない人。
心配をかけない人。

私たちは存在だから、どこへ行っても、
とにかくだれかのために、その環境に
なくてはならない人間になる責任があるのです。

環境を利用して、自分が喜ぶのではなく、
自分によって環境を喜ばせる責任があるのです。

それは原理的な話です。
当然のことなのです。
その基台の上に、心霊が復活していくのです。

 
人に負債になる者は、絶対に自分の親にも心配をかけるのです。
兄弟関係で葛藤するのです。

そういう関係になった人は絶対に心霊の置き場がなく、
砂場にいる人のようです。
すなわち、風が吹いたら揺れてしまう人です。

聖書では、砂の上に家を建てるか、磐石の上に建てるかという話ですが、
磐石は何かというと、人に褒められる実績、
人に負債を受けずに、負債を与える実績のことです。

そういう実績のある人は、信ずべき人です。
負債を与える人は信じられるけれど、
負債を負う人は信じられないのです。

その基台がない人には、真理の生命が復活できないというのです。

 
まず私たちは、家庭において、兄弟関係すなわち人間関係において、
負債にならない人にならなくてはならないのです。

神様が直接呼び出した人は、みなそういう人なのです。
その当時、義人だと言われたノアもそうです。

ヤコブも、自分の家庭で相当認められたあとに荒野に出ていき、
ヤハウェに面会するようになったのです。

アブラハムも、自分の家庭で相当息子としての
責任を果たして、神に呼ばれて摂理に参加したのです。

6.心霊の安定した者になるために
「み言による復活」
「兄弟に信用されよう」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


神様は生きて働ておられる。。。
そのことを心から実感する者になっていきたいです。

こんなちっぽけな私かもしれないけれど、
天一国時代のこの時に、み旨を歩めることを感謝します。

そして、最前線で歩んでいることに誇りをもって、
神様に摂理される「私」となって、
この一年間、歩みぬいていきたいと思います。


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posted by ten1ko2 at 07:08 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月25日

やむを得ず信仰、ただ習慣的に礼拝に行っていませんか? *「神が死んだ」と言った神学教授 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
「最後までカナンを目指すには」です。


摂理に参加したその信仰人物たちが、
初めはそういう立派な動機をもって出発したけれど、
途中で脱線した人も多いのです。

簡単にいえば、イスラエル民族がカナンの地を好んで
エジプトから出発したけれど、途中であんまり貧乏したり、
苦労するものだから、結局神の摂理とか、
神に呼び出され、神によって導かれていくんだ
というその関係よりも、自分たちの立場で行くんだ
というように方向が転回してしまうのです。

それで、価値観も崩れてしまったのです。


こういうように失敗した人たちを見れば、
方向転回をし、自分を中心として方向を決定したのです。

そのため、心霊管理が一番問題となるのです。

自分がみ言によって復活されているかということ、
本当にそういう心霊管理をすれば、
神様が存在し、生きておられることを実感するのです。

 
だから信仰を長くやった人で、最後に
「神様はいるのかな」と疑いをもつ人が多いのです。

だから神学校の教授をやりながら、
最後には神様が死んだという論文を発表して、
「死んだ神様」という話をするのです。

皆さん、聞いたことがありますか。
「神は死んだ」。これは、神を信じない人が言ったのではなく、
一生涯神がいると信仰した神学校の教授の立場での結論なのです。

これは何を意味するかというと、
本当は信仰者が、信仰している人が、
神が死んだつもりで信仰しているということです。


イスラエル民族がヤハウェの神様がいると言ったけれども、
ヤハウェの神様がいないという結論になってしまったのです。
それでは、再びメシヤが来ても、メシヤの怨讐になってしまうのです。

ほとんどの牧師は、神がいない生活をしているのです。
その人は、自分の学問でもって、知識でもって人を教える、
職人になってしまっているのです。

生きた神と共に暮らしながら、生きた神を教えなければならないのに、
実際は、そうでない人が、牧師の中にたくさんいるのです。

名前は牧師ですが、神を紹介する人ではないのです。
そういう人が、世間にはあまりにも多いのです。

 
私たちの兄弟の中にも、「統一原理」を聞いて入教しているけれども、
生きた神と共に暮らせずに、ただ仕事に追われて、
職人、または仕事のための人間になっている人もいるのです。

相当いる。
相当いる! 
皆さん、それは経験するはずです。

例えば、「礼拝に参加しよう」と言っても、
「きょうは日曜日だから休みたいのに……、やむを得ないなあ」と。
やむを得ずに教会に行っている人がいるのです。

心霊を根拠として、心霊の原動力を中心とした生活ではなく、
宗教儀式、習慣となっています。

初めは神と因縁があったけれども、年が流れ、
一年、二年、三年、七年になると、
やむを得ずに宗教儀式に従う。

やむを得ずに主管されてしまう。
そういう立場へと脱線するのです。

6.心霊の安定した者になるために
「最後までカナンを目指すには」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)



今回は、ちょっと厳しいみ言でありました。。。
教会に通っていても、形だけの信仰であってはいけない、
もちろんおっしゃる通りだと思います。

ただ、「私は神様・父母様を信じ、侍っている。
だから教会に行く必要がない」
それもどうかな、とも思います。

摂理は進展しています。
真の父母様のみ言も今の時に、
必要なみ言を語ってくださいます。

また、目の前の牧会者に侍ることも、
その先にある真の父母様に侍ることにもなると思います。

組織信仰では決して良くないとは思いますが、
兄弟姉妹、家族、という観点をもって、
神様、真の父母様を中心とした家族づくりのために、
教会に集う、という観点で、
これからも信仰生活を送っていきたいと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 09:25 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする