2023年03月09日

「ぜったい感謝できない!」──くさくて堪らない時、どうする 《蝶野部長*精誠篇2》G 



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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」の続き。

感謝できない、愛せない、許せない、
そういう状況の時──
メシヤの実体験です。



【感謝すること愛すること
 完全自己否定と蕩減】

【感謝して自分の思いを
内的に蕩減】しましょう。

これは、「御旨と海」という、み言です。

【一度我々はたくさんの腐った黒っぽい魚を
 獲ったことがありましたが、
 その臭いはアンモニアのようでした。

 先生は船酔いはほとんどしたことがないのです。
 しかしその臭いをかいだ時は
 胃がおかしくなり始めました。

 最初先生は「自分はこの魚に対して
 あまりにも悪い思いを抱いています。
 自分はしようがない人間だ」】

お父様が自分でそのように【思ったのですが、
 しばらくして別の考えを持ち始めました。
 すなわち「自分は」】○○(何々)
【「しなければならない」と思うようになりました。】

その時にあまりにもくさくて、
お父様でさえもその時に、
『もうこの魚…』と思いそうになりました。

ようするに、不平不満の思いになりそうになった。
その時にお父様このように思われます。
【「自分は蕩減しなければならない」】

最初はその魚のせいにしようと思ったぐらいでした。
ところが蕩減しなければならないと思うようになった。

お父様は、ちょっとしばらく考えられるんです。
なぜ自分がこの魚を釣ったのか。

『あぁ、これを蕩減するんだ』そう思った時、
【悟ったとき、その臭いを愛することが
できるようになったので船酔いがなくなってしまいました。】

なぜ、くさい臭いを愛されたか。
皆さん、蕩減出来るからですよ。
沢山の罪が蕩減できるからです。

蕩減と関係のない方が感謝したら、
ものすごい(蕩減が)晴れるのです。

ですから、罪のない人が、罪を許す、
お父様がこのようなものを感謝するというのは
地球の裏側のどっかの摂理の条件が立つということでしょう。

その臭いを愛することができるようになったら、
船酔いがなくなってしまいました。

【それは何かのために、また誰かのために
蕩減することができるという意味だったのです。】

【その臭いに感謝の気持ちを持つことができたので、
先生は船酔いを乗り越えることができました。】


お父様もこれコツコツやっておられる
ということですよ、皆さん。

『お父様も感謝できないことあるの?』
と思うかも知れませんけど、
お父様も肉体があります。
臭いものは臭いそうです、やっぱり当たり前ですね。

ただ私たちと違うのは、最後は絶対、
愛とか感謝にいくんだそうです。
我々はいく時と、いかない時があるんです。

お父様はどんなに拷問されても、痛いんだけども、
最後は絶対「愛と赦し」にいくのです。
それが完成している人間と私たちの違いなんですよ。

くさい臭いも、「わーい愛する愛する」
というんじゃないんですよ、皆さん。
お父様もくさいのは、くさいのです。


これを話したら、「いいことを聞きました。
船酔いを治す方法わかりました」
と言った人がいますが、そういう教えじゃありません。

悪いものを蕩減として受け止めて、
『あ、これで晴れるんだ』と思ったら、感謝できるのです。


(私たちの蕩減と清算は)減償法だから、
だいたい私たちが出くわしたことよりも
大きいことが晴れるんですよ。

増償法っていうのは、報償法よりも小さいのです、
知ってますよね。
報償法といったら、そのままです。

増償法というのは、言ってみれば
減償法に失敗した時に付け加わるものなんです。
ですから、(増償法は)
減償法の中での増償法です(例:アブラハムのイサク献祭)。

我々、報償法だったら命ないですよ。
私たちの先祖が一人、人を殺してたら、
自分が死んで、それでもう終わっちゃいます。

(だからすべて)減償法です。


遠いものほど象徴的になるかもしれません。

(アブラハムの象徴献祭、三種の供え物をみてみると)
アブラハムが鳩を裂くのは、20代前の先祖の内容でした。
羊は十代前なんです。
一番大変な牛が、自分です。

ですから、遠い先祖のものは、
象徴的になる場合もあるわけです。

だから私たちも、(愛して、赦して、感謝すれば)
出くわした苦痛よりも多くのものを清算されます。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


結局は、すべての事象に対して、
「感謝する」ということが、
一番重要なことなのだ、と思います。

お父様ご自身の感情、感性において、
不平不満の思い、感謝できないような思いに対して、
「それは何かのために、
また誰かのために蕩減することができる」
そう思って乗り越えられました。

すべてが、神様の解放と、人類の救い、
神様のため、人類のため。

ですから、牢獄に入るような、
そんな立場にあっても、
すべてを感謝していかれたのですね。

腐った魚のにおいを愛するとか、感謝するとか、
そんなことは、普段の生活の中で
考えたこともないことです。

くさいものは、くさいし、
悪いものは、悪い…。
自分とは関係ないし、
遭遇してしまったら不運と思っていました。

私たちも、難しい時や、
愛せないこと、許せないこと、
感謝できないことがある時ほど、
どこかの誰かのためになる、
あるいは、何かが清算される条件だと、
感謝する心情をもっていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月27日

メシヤ、15歳 詩・「栄光の王冠」の境地は、すでに神 《蝶野部長*精誠篇2》F



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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)

私たちが体験する全ての事は
「私の責任」として受け止めるのが、
復帰原理である──

それを、生涯実践されているのが、
真の父母様(文鮮明先生ご夫妻)です。



「私の責任」。
「栄光の王冠」を見たらそうですね。

【私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。
 私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。
 私が人を憎む時 私は存在価値を失ってしまいます。

 しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます。
 今宵 私は手のひらに頭を埋め
 苦痛と悲しみに震えています。
 私が間違っているのでしょうか。】


そうじゃないけども、
【そうです。私が間違っているのです。】

私が信じて裏切られても
私が間違っていると言うんですよ。
これ、どう考えても相手が悪いじゃないですか。

(数えの)16歳でこの人格の基準を持っていたお父様。
もうねぇ 考えられないです、皆さん。
(お父様はやはり)実体み言ですよ。

(お父様と比較すると)私たちは人格がない。
だけども、私たちも、み言で
自分を作ることができるんです、皆さん。

かつては10年かかっていた体験が
3日でできる時代です。

ただし、原理がわからなければ、
何回生まれ変わってもできません。

どこかで、自分の悪口を言っているのを
小耳に挟んだ。
それで、(神様にこの人を)許してください
と言える人は、すごい人です。

でも復帰原理がわかったら、
私たちも案外簡単にできるんです。

このようなことを理解しながら、
最初は観念で始まりますが、
だんだん、だんだん、
心でできるようになりますよ。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)

「栄光の王冠」
Crown of Glory


 私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。
 私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。
 私が人を憎むと時 
 私は存在価値を失ってしまいます。

 しかし もし信じれば
 私はだまされてしまいます。
 今宵 私は手のひらに頭を埋め 
 苦痛と悲しみに震えています。
 私が間違っているのでしょうか。
 そうです。私が間違っているのです。

 たとえ だまされたとしても
 信じなければなりません。
 たとえ 裏切られたとしても 
 赦さなければなりません。
 憎む者までも ことごとく愛してください。
 涙を拭いて 微笑みで迎えてください。
 人をだますことしか知らぬ者たちを
 裏切りながらも 
 悔い改めのできない者たちまでも・・・。

 おお主よ! 愛するという痛みよ!
 私のこの苦痛を御覧ください!
 熱きこの胸に 主のみ手を当ててください!
 私の心臓は 深き苦悩ゆえに 
 張り裂けんばかりです。

 しかし 裏切った者たちを愛した時 
 私は勝利を勝ち取りました。
 もし あなたも 私のように愛するならば
 私はあなたに 「栄光の王冠」をお捧げします。


(Rev. Sun Myung Moon 1935年、満15歳)


「栄光の王冠」
私もそうでしたが、
誰もがこの詩を書いたお父様の年齢が
15歳であったことに驚くことでしょう。

このような詩を書ける、ということは、
その心情基準がある、ということになります。

イエス様を慕い求め、「愛する」とは、
「許す」ことは、どういう基準なのか、
本当に求め求めて得た答えなのだと思います。




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2023年01月27日

献金して、それを惜しめば神が嘆く 摂理はお金ではなく、愛(内面)が問題 《蝶野部長*精誠篇2》F

み旨を頑張った人は、神と世界を愛した条件が立つ




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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)

家庭連合の信仰を熱心にしている信徒あるいは
活動に関わっている方たち向けの
信仰的なガイダンスです。

※教理(統一原理)を学んだ基礎がないと
理解しにくい表現となっています。


(先回紹介したテロで息子を亡くして、
犯人を許すと言った
クリスチャンのご両親の場合のように)
内的蕩減と実体蕩減が、同時に
なるようなものもあるんですよ。

まずは内的蕩減が大切なんですが。

【神の御心を知り、環境に対して
責任を持とうとするのが中心人物。
神様は中心人物に信仰基台において
外的に命令された時も、実際の摂理の目的は、
その人間の内面にあった!】



(アベルに)「羊を供えよ」というのは、神様は
羊の肉が食べたいわけじゃないんです。
私を愛してるのか、どうなのかという
内面を見るためです。

だったら神様が(アベルに)聞いたら
いいじゃないか、と思うかもしれませんね。

でも、そうしたらアベルは、
「愛してます、愛してます、愛してますから
羊は供えなくていいでしょう、
愛してますから」と、こうなるでしょう。


皆さんが、神様と世界を愛してるのか
というのは、皆さんが摂理で頑張って
こられたのを見て、この人間は家庭よりも
世界を愛してるという条件が立っているのです。

でもその本人は、いや摂理、世界というよりは、
実は自分の孫の受験を変えるために
献金したんだという動機だとしても、
神様はそういうふうに取らないのです。

だって教会に献金してるじゃないかと、
これは神を愛したということなんだと、
神様がサタンの讒訴圏を、
パッと切ることができるんですよ。

ですから、信仰基台というのは
内面を表現するものなんです、実は。

だから、すべての食口たちは
私を、家庭を、犠牲にして、
神様を愛してきたという、喜びを
もってほしいんです。

頑張ったら頑張ったぶんだけ
もちろん万物は、手元から減っていくとしても
神様がどれほど感動するか。

でも、「ああ、あれがあったら助かるのに」
とか、ぶつぶつ言ってると、神様は耳を塞いで、
「ああ、ああ、聞かない、聞かない」と
言うというのです。


母の日のプレゼントをもらったのですが、
『うわぁ、うちの息子からもらった、
今日はこの息子が好きな美味しいとんかつ作ろう』
とね、苦労して、もう一生懸命料理をしてたと。

そしたら隣の部屋から、息子の舌打ちが聞こえると。
チッチってね。

「もうオカンの母の日のアレで
もう小遣い減ったー」と、文句を言っているのが
聞こえたといいます。

これは、実話です。
料理してたら息子が、弟と話している。

お母さんとしたら、自分を愛してくれてるから
プレゼントくれたんだと、喜んで
ロースカツでも一番いいのを買ってきて
料理作っているのに、こうやって(耳を塞いで)、
『もう、聞きたくない』と、こうなるじゃないですか。

神様を愛するため、御父母様を愛するために
(献金)したのに、あれがあったら助かるのにと言ってる、
神様は「ああ聞かない、この者は
私を愛するためにやったんだ」と、
こういうふうに(耳を塞ぐ)。

これは親の心なので、わかるでしょう、皆さん。


愛したというとき、これが信仰基台ですよ。

そして、その愛と一つとなった立場から
カインを見た時に、神様の心が分かって、
出てきて愛するっていうのが、実は実体基台です。

この信仰基台、アブラハムのイサク献祭で、
(息子のイサクを)「殺せ」と言ったのは神様ですよね。
でも、最後「殺すな」と止めたのも神様です。
神様どっちなの?ってことなんですよ。

殺せというのが、信仰基台の命令です。
今の時代には、ありえないけどですね。

殺せと言いながら、最後「殺すな」ということは
つまり、「殺せ」という外的命令は、
目的ではなかった、ということです。

内面が見れたので、もういいってことでしょう。
信仰基台は、内面を見させるために、
外的命令するのです。

だから、親子が一体化して、
完全に神様の命令の前に、
親の情、子供の情を越えた、
それが見れたので、「もういい」と言ったのです。


ノアの箱舟もそうです。

動物をいっぱい入れて、村の人をいっぱい入れるために
大きくしただけではないんですね。
まぁ実際、(村の人々は)入りませんでしたが。

それは、ノアがどれぐらい神を愛しているのかを、
神様が見るために、船を大きく作らせたという、
お父様のみ言があります。
1960年代のみ言です。

ちっちゃい船だったら、惰性で作れるんですね。
あんなにデカいのを、ほぼ一人で作った。
最初は子供が手伝ってたけど、途中から
手伝わなくなったという話もありますけど。

(これも)どれだけ神様を愛してるのか、
というのを見るためだった、というのです。


ですから、信仰基台を、本当に理想的にやったら、
実体基台というのは実は自動的なんです。
自動的と言ったら、ちょっと語弊がありますが、
ほぼ導かれるんですよ。

ところが、なぜ実体基台を失敗してきたか。
信仰基台が、外的なものだと
勘違いしてきたからなんです。

自分をつくることができなかった、ということですよ。

実体基台って、自分がいるでしょう。
人を愛しに行く話ですよ。
自分をつくってないから、
「愛せません!」ってなるのです。

信仰基台は、本当は、自分をつくることです。


だからよく考えると、信仰基台というのは、
成長期間の蕩減復帰なんですね。

そこに成長する要素がないと、
本当は信仰基台ではないのです。

創造原理においては、これは普通の成長期間です。
復帰原理においては、
成長期間を果たせなかったので、
信仰基台があるんですね。

成長期間は、外的蕩減条件ではない、
内的蕩減条件です。
だから信仰基台は、外的献祭で、内的蕩減条件なんです。
実体基台は反対です。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
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(文責:ten1ko2)


信仰基台の根本は、神様を愛する、ということです。
神様のために、万物を捧げていく時に
神様はどれほど喜んでおられるでしょうか。

その動機と心情は貴いものです。
その聖なる思いを持続させていくことは、
口で言うほど簡単なことではないでしょう。

外的環境が変わったとしても、
変わらない内的な心情、
心の姿勢が重要であると思います。




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