2021年07月13日

おめでとうございます! *周藤先生&久保木夫人卒寿のお祝い* 《証しと挨拶》



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先日、周藤先生と久保木夫人の
卒寿(90歳)のお祝いがありました。



お母様の愛の中で、久保木哲子
夫人と周藤健先生の卒寿を祝賀


6月30日 東京・渋谷、松濤本部

大先輩が築いた伝統を相続し、創立
100周年を勝利で迎えることを誓う


6月30日、東京・渋谷の松濤本部で、
久保木哲子・名誉会長夫人(430双、1931年6月30日生まれ)と
周藤健・前副会長(43双、同年2月23日生まれ)の
卒寿(90歳)記念祝賀会が開催され、
天の父母様聖会の方相逸・神日本大陸会長夫妻をはじめ、
会長団、先輩家庭、本部職員など約40人が集いました。

草創期から神日本家庭連合を牽引し、
現在も天寶登載勝利家庭として全国の教会員たちの
模範となって歩む二人の大先輩を迎えた祝賀会は、
お二人が築いた伝統を相続し、勝利を誓う場ともなりました。


  絶対信仰や神霊に導かれた証しが会場を魅了

入教時の証しの映像
久保木夫人の証し

「渋谷・南平台の教会で初めて真のお父様にお目にかかったとき、
『あなたが久保木の奥さんですか。
この道はあなたも来なければならない道なんですよ。
来てくれますね』と言われ、
当時抱えていた全ての事情を超えて
『はい、分かりました』とお答えしました。

以来、お目にかかるたびに、お父様は
『哲子は先生が伝道したや。先生の娘よ』と言ってくださいました。

これがどれほど名誉なことであるかが分かったのは、
随分後になってからでした」

(2010年インタビューより)

周藤先生の証し

「私は青年時代、無神論者で、
『もし神がいるなら見せてみろ』とうそぶいていました。

そんな私が病に倒れ、闘病中に聖霊体験をして
涙の悔い改めをしたのです。
そしてキリスト教会に通い始め、
イエス様と深く交流するようになりました。

ところが、イエス様の言葉と牧師様の言うことに
矛盾を感じて、悩むようになったのです。

そういう中、統一原理を聞きました。
イエス様がおっしゃることとぴったり一致していたので、
全てはここで解決すると確信しました」

(2014年インタビューより)

李成萬・神日本家庭連合副会長が登壇し、
「白寿(99歳)、皇寿(111歳)、そして大還暦(120歳)の
3つの目標を立てて、お元気で長生きしてください」
と述べた後、勝利提議(乾杯)を行い、和やかに会食が始まりました。


  お母様から「よく祝ってあげなさい」とのみ言

会食後、田中富広会長が祝辞に立ち、次のように語りました。

「お母様は『神霊と真理に満ちた草創期の教会を取り戻す』
と言われましたが、日本家庭連合の草創期は、正にそのような教会でした。

その伝統を築いてくださったお二人が、今、
天寶登載勝利のモデル家庭であることに感謝いたします。
お母様と共に、33年後の創立100周年を元気に迎えましょう」


続いて方相逸・大陸会長が記念メッセージを語りました。

方相逸・大陸会長は初めに、
この祝賀会についてお母様にご報告したところ、
「日本の本部がしっかり準備して、よくお祝いしてあげなさい」
というみ言を下さったことを紹介し、
お母様の愛と許諾のもとに開かれた祝賀会であることを伝えました。

そのうえで、「元気で長生きすることこそ、福の中の福です。
皆さん、このお二人を自分の親だと思って、大切にしていきましょう。

子供は親よりも長生きしなければなりません。
子供である私たちは、お母様以上に元気で、頑張りましょう」
と訴えました。



挨 拶

  神様に守られ生かされた命─久保木哲子

私は4歳のときに肺炎で死にかけましたが、
奇跡的に生かされて今日に至っています。

命というものは、どんなに生きたいと思っても、
またどんなに死にたいと思っても、どうにもならないものです。
命は神様が守り、導いてくださると感じています。


  イエス様の恨を解いた真の父母様─周藤健

真のお父様が2度目の世界巡回から戻られたとき(1969年)、
イエス様について、
「3日間慰めても慰めることができないほど、悲しい男だ」
と語られ、衝撃を受けました。

その理由は、メシヤとして生まれながら、
人類の原罪を清算する祝福を誰にも授けることが
できなかったからだと私は思っています。

そのイエス様の恨、悲しみを全て解いてくださったのが真の父母様です。

ご自身のご在世時に世界の3分の1を復帰したいという
お母様の願いに、少しでもお応えしたいと思っています

(中和新聞より抜粋)



お二人ともとてもお元気そうですね。
本当に喜ばしいし、
私たちにとっても嬉しいことです。。。

卒寿というのは、90の九と十を縦に書いた「卆」が
「卒」の略字なので、そこから取っているとのこと。
米寿(88)や喜寿(77)も、漢数字の組み合わせに見立てていますね。

白寿は、百歳から一引いたという意味で
99歳を祝います。
数年前に聖和された李ヨハネ先生は
白寿のお祝いを受けられていました。

皇寿(111歳)は初めて聞きましたが、
「白」が99歳、「王」は「十」の上下に「一」で、
「99+10+1+1=111」という意味だそうです。

田中会長が言及されていましたが、
お母様は先日のみ言で、33年後の2054年、
家庭連合創立100周年のことを語られました。

33年後だとずいぶん先ではありますが、
その年は、真のお母様が111歳の
皇寿を迎えられる年になりますね。

地上の人生をどれだけ送ることができるのか、
それは私自身で決めることはできませんが、
「天宙主管の前に自己主管」というみ言があるように、
健康で長生きするために自己管理することも、
み旨であると感じます。

私も本部から提供されたアプリを使って、
ダイエットを心掛けています。
少しスリムになりました(笑)
やはり、健康には気をつけていきたいですね。

改めて周藤先生、久保木先生の
卒寿をお祝い申し上げます。




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2021年07月08日

こんな私に神が「行け」といわれるのはなぜ?! その心は 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》

「行け」というのも神、奇跡を起こすのも神・・・



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モーセが紅海の水を分ける


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「信仰と生活」のみ言より
「心を土台として神がやる」です。


神は、一遍に三つ、四つのことを命令する時があるのです。

そういう時は、「行け」と言っても、行くのを見るのが目的ではなく、
「行け」という命令を受ける時の、その人の
「行きたい」という心構えを見るのが目的なのです。

だから、「こんな人間に、あれやこれやと忙しく仕事を
させなくてはならない神は、かわいそうだな」という
神に対する同情心がわき上がるくらいの心情があるならば、
こんな自分も神にとっては必要であり、
こんな自分をも信じてくれるのだという
縦的な因縁を発見するのです。

そのように、神と神が命令した人との間に、
相対基準ができれば、たとえその場に座っていても、
あとは神がやってしまうのです。

そういう信仰がないと、「体は一つなのに、
あれもこれも……」と不平を言いやすいのです。


モーセに率いられた六十万の民は、紅海を前にして、
「たくさんの人を連れてきて、どうするつもりか」と、
モーセに不平を言ったのです。

もしもその六十万の民が、
「エジプト軍の馬の足に踏まれて死ぬのは恥である。
海の中に飛び込んでも、私たちをここまで連れてきた神が、
滅ぼすはずはない」と信じたならば、
モーセが杖で海を打つ必要もなかったのです。


だから、ああやれ、こうやれという事情がぶつかってくる時には、
「人間はたくさんいるのに、神様、こんな者を
選ばねばならないのは、本当にかわいそうですね」
と祈ってみれば、自分も涙が出るのです。

その涙は、神の涙です。
その時に神の悲しみを体験するのです。
そのあとで、我知らず「やるぞ」
という誓いが出てくるのです。

すると、神が仕事をやるのです。

命令は神がして、なすべき結果も神がするのです。
人間は復帰摂理に加担しているけれども、
仕事は全部神がしているのです。

私たちの「心」を土台として、神がやるのです。
私たちが伝道に出た時など、特にそれを経験するのです。

何かに成功しても、神の前には「それは私がやったのです。
私でなければできないことです」とは言えないのです。
縦的関係において、「やりたい」という気持ちがあれば、
仕事は神がやっていくのです。

1.牧会
心を土台として神がやる

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」
李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


神様を動機として歩むこと。
結果はどうだったとしても、
すべて神様が主管される。。。
そのように思うことが重要だと思います。

私たちは、結果に左右される堕落性があります。
ダメだった時は、反省し、
悔い改める、というより、
ただ悔いるだけで終わってしまったりします。

また、結果が良かった時には、
神様を忘れてしまって満足してしまう、
つまり栄光在天ではなく、
自分に返してしまうこともあるでしょう。

置かれた環境に、神様の意図、配剤を感じる。。。
いつの時にも、しっかりと心を神様に向け、
神様を中心に歩んでいけるように、
あらためて心がけていきたいと思います。




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2021年06月28日

「子女が愛をもってくる」  子女を通して私たちも神も貴く輝く 《蝶野部長》



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蝶野知徳・家庭教育部長の「孝情を育む」より
題目に目が留まったので紹介します。
『子女が愛をもってくる」です。

子女が愛を持ってくる

子女を授かることの意味は、愛のためです。
愛するために授かったのであり、
愛を体験するために与えられました。
つまり、子女は父母に愛を持ってきてくれた存在なのです。

子女の行動や性質に焦点を合わせ、一喜一憂する前に、
神様が与えてくださった子女の
存在そのものの価値に対する感謝の心が必要です。

その心を神様に捧げながら子女を見なければなりません。
それがいかなるときも、
父母の愛を支えてくれるものとなるからです。

愛の本質

子女は、愛という価値を通して見たときに、
その存在の貴さを発見できるようになっています。

「相手の性質に左右されない」という心情が、愛の本質です。
具体的には、欠点のように見えることや、
抱えている問題も全て超えて、その人を
「愛おしい」と感じられる心が与えられたとすれば、
それは愛の本質に触れていることになります。

障がいを持つ子女

ある父母は、生まれた子女がダウン症であることを伝えられた時、
絶望と悲しみの中で苦しみました。

しかし自分たち父母が愛の責任を持って育てる以外に
道がないことを受け入れました。

その子の未来が見えないと感じる中でも、
一つ一つ希望や願いを持って接し、
それを積み重ねていくうちに、
純粋な笑顔を無償で振りまくわが子に、
表現できない愛おしさが湧いてきたといいます。

障がいを持って生まれた子女を授かったとしても、
それは愛し難いものを愛するということが
父母のテーマとして願われているのではありません。

「“その子女の存在、丸ごとを愛する喜び”を
体験してしまうこと」にあるのです。

「愛の体験」をしたということは、
それが「喜び」になっているということです。
つまり、この一見、不自由な状態にある子女から
「喜びが与えられている」ということを発見したのです。

愛によってこそ貴い存在に

これらの高度な愛の喜びの基準は、
この親から生まれたものではありません。
明らかに子女が持ってきてくれたものなのです。
この愛の立場に至れば、子女に感謝が尽きないのです。

この愛の喜びを体験した父母も貴くなります。
そして、この子女をこの親に担当させながら、
それを抱えておられた神様も貴くなるのです。

私たちは、全てを貴い存在として輝かせるために、愛するのです。
愛によってしか、全ての存在は貴くならないからです。

孝情を育む 8
子女が愛を持ってくる

家庭教育部長 蝶野知徳
(Blessed Lifeより)


あまりいい表現ではありませんが、
子供は親の願うようにはいかないですね。
何度も書いている気がします。。。

しかし、だからこそ
親として、愛の器を要求されていると思います。

それがまさに、子供が愛を持ってくる
ということなのかな、と思います。

蝶野部長が先日の講座で語られていましたが、
子女のために何をしたらいいのかと悩むばかりで
何もしないのではなく、
「初動と精誠」が必要であるということ。

つまり、とにかく行動を始めること、
精誠を捧げること、内外の条件を立てること
愛することに徹していくことを通して、
あきらめなければ道が開かれていくことでしょう。

昨日も、松戸教会で
「子女復帰のための孝情奉献礼式」がありました。
これもささやかな、初動となり
精誠の条件となることを願ってやみません。




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