2010年11月12日

被害者の妻から見た拉致監禁9


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どの辺りのことを書いていたか忘れるほど、前回から時間が経ってしまいました。

韓国SBS放送 を見てつくづく思いましたが、
主人も経験した拉致監禁というものは、言い表せないほど残酷なものですね。
体験者の姿をビジュアルを通して知らされて初めて実感するものも多かったです。

今日は、続きからは、話が飛びますが、私の感じるところをお話したいと思います。

私も海外にいて会えなかったのですが、主人が解放された当初は、随分傷心して療養の期間が必要でした。

私は、それまで会った拉致被害者がたまたま、元チャーチマザーの神々しい姿だったり、
飄々と自力で両親を説得した兄弟だったりしたので、(過去記事被害者の妻から見た「拉致監禁」1
トラウマに苦しんだりすることがよく理解できていませんでした。

それまでは、まぁまぁよく手紙を書く人という印象だったのに、私への手紙は滅多になくなりました。
彼の霊の子などがよく手紙をくれたので、様子を聞けるくらいでした。
直接話すこともできないし、電話も掛けにくい環境だったので、状況がわからず
私も気をもみました。

その頃の主人の写真を見て思いましたが、うつ状態に近かったのではないかと思います。

ある期間を経て、現場に復帰してからはそんな様子は見えなかったようですが…。

今では何もなかったように過ごしていますが、主人の家族や親族との関係は
一応修復されたとはいえ、絶対元通りにはなれない、深い傷を残し、
間には溝どころではなく、深くて広い川が横たわっているかのようです。

主人と家族の関係は、もう一つ屋根の下に暮らすことのない距離を置いた関係だからこそ
穏便に成り立っているような、実は繊細な状況にあります。
一切、拉致監禁のこと、統一教会のこともタブーのように口にしていません。

数々の拉致監禁事件の中で、主人のケースは、まだまだよい方だといえるかもしれません。

心に傷を残し、家族との関係を壊す、これまで拉致監禁の事実をよく知らなかった教会員も
ようやく理解できる段階に入って来たと思います。

人の意見を真に受けやすい素直で人のいい人が多い教会員が、
拉致監禁の想像を絶する環境の中で、どれだけ痛手を負うか。

このような非人道的なことも、統一教会の信仰を持つ者には許されるというなら、
拉致監禁を陰で指導する反対牧師や監禁屋は、統一教会人を人だと思っていないのでしょう。
魔女のようなものだと考えているのでしょうか。

こうでもしないと棄教しないから、他に方法がない、ということを口実にしているようです。
つまり、統一教会の人たちを恐ろしがっているのかもしれません。

正しく教会も教理も知ろうともせず、排除しようとするのは、
魔女狩りと同じと言われてもしかたないでしょう。

この拉致監禁という非人道的な犯罪行為が、家族親族を仲介して成り立つというところに
問題の悲惨さがあります。
家族の愛情を利用して、人助けと称しながら、何年もそれで生計を立て、建物も立派に改築して私服を肥やした、監禁屋。

いい加減にした方がいいですよ。許されることではありません。
詭弁を使わず、人にも自分にも正しく生きてほしいと心から願います。

神様の悲しみを、そして引き裂かれる家族の悲劇をこれ以上増やさないでください。

とはいえ、教会員である私たちがまず、変わっていかなければならないと私は考えています。
パウロの改心のようなことが、反対派の身にも起こるかもしれませんが…。
彼らはすでに罪を犯していますから、私たちの正当性など考えるはずがありません。
アベルがまず変わらなければならないでしょう。
私たちが正しく、また幸せにならなければと考えています。

被害者意識に立っていたら何もできないので、あの時のことは痛みですが、トラウマにはまりこまないように前だけを見ていきたいですね。
何も知らない子供たちが、伸び伸び育っていけるように。


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タグ:拉致監禁

2010年09月17日

被害者の妻から見た拉致監禁8 「中心に繋がらなければならない」

En-Gloria-GuidoReni.jpg

◇監禁された私とは遠く離れた海外で
妻は私を祈りながら歩んでいました◇



主人が拉致され、監禁生活を送り始めた頃、私は、日本に連絡し
できるだけ多くの人に祈ってもらい、自らも断食したりしながら、活動していましたし、
やれることは何でもしたかったのですが、
何か越えられない霊的な壁があるのを感じていました。

文先生が夢の中で「信じあっていくんだね」と言ってくださったその言葉を胸に、
どうしたら霊的に彼を支えてあげられるかと考えていました。

今思うと、私の状況と彼の監禁下の厳しい状況はどこか連動していたように思えるのです。
その霊的な壁とは…。

一番大切なのは、「中心性と一体化」。
教会の生活の中で私が学んだことのひとつです。

私たちは、教会生活において、当然自分ひとりではなく教会のメンバーと関わっています。
常に報連想する直接の責任者、そして全体に責任を持つ中心者…、
そしてそれは、文先生ご夫妻に繋がっている、これが私たちの信じるところです。

私たちがしっかりと中心に繋がってさえいれば、
私たちには怪獣に押しつぶされそうな危機であっても、
トップの文先生は、「蚊にさされた」くらいの軽さで、それを払い落としてしまう。
しかし、人と人のこと、その繋がるということが簡単ではない時が多いのです。

私は当時、ボランティアメンバーとして、ヨーロッパに配属され、
国ごとに10人ずつのグループで活動していました。

ヨーロッパの中で活動するので、教会員としては当然ヨーロッパの中心者が私にとって
要の人となります。
また、日本からの派遣メンバーとしての別個のつながりもあったのです。
文先生から、使命、つまり辞令を受けた立場でしたから。
そして、ボランティア活動のために派遣された立場でしたから。

監禁された主人の行方は、ようとしてわかりませんでした。
霊的に私が感じる壁は、とても大きく強固で、
どうしたらいいのかパニックしそうなくらいの圧力で
私に迫っていましたが、幸い私はなぜかすごく落ち着いていました。

中心に繋がらなければならない。次に私が考えたことです。

その頃私は派遣された国の地方都市で、もう一人の日本メンバー(Mさん)と活動していましたが、
教会の地方の小さなセンターにお世話になる立場でした。

そして、正式には、みんなの前で夫の拉致監禁の話をしてはいけないと、
直接の責任者からは止められていました。
メンバーたちがまだ若く、教会の信仰にも浅いから、彼らには理解できないというのが理由でした。

私は、しばらくの間、各都市に散らばっている日本の十人のメンバー以外、
それを話して祈ってもらうこともできませんでした。

Mさんはいつも私を支えてくれましたし、現地メンバーも、何かあるとは思っていたのでしょう、
断食中や断食明けなど、とてもよくしてくれたのです。

私は、ナショナル・リーダーと呼ぶ、国の責任者に手紙を書くことにしました。
中心に繋がる道がなかったからです。

手紙の内容は、みんなで祈ってくださいというものだったと思います。
完璧ではない英語で苦労して手紙を書き、首都に行くメンバーに託しました。

あなたがもし、
疲れ果てて、もうダメだと思ったら、
「神様、
あなたは私よりも
もっと苦しんでおられます。
私がこうして苦労をすることで
あなたの心情に近づくなら、
耐えていきます」
と祈ってみなさい。
神様はあなたの一滴の涙まで
きっと覚えていてくださるでしょう。
「こころの四季」より


◇直接のアベルに届かない思い
ナショナル・リーダーには通じるでしょうか
妻の手記は、また不定期に続きます◇


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2010年09月01日

被害者の妻から見た拉致監禁7 〜霊肉の条件〜

images天使Guido Reni.jpg



◇「日本には帰りません」と覚悟して、海外での活動に精進した妻でした◇


拉致監禁されている主人のために私ができることは、
一つは、多くの人から祈ってもらうこと
もう一つは、中心につながること
またもう一つあげるなら、教会の言葉で「条件を立てる(積む)」ということでした。

私は、まだ慣れたとはいえない海外の生活をしながら、
神様が私に与えてくださった使命を少しでも果たしたいと思いました。
私が頑張ることが、主人が拉致監禁下にあって頑張れる霊的なパワーになると思いました。

私たちが条件を立てるために、自分の身を打つ「断食」をすることがあります。
一般的には「?」というものでしょうが、70年断食の印ヨガ聖者の記事でも述べているので
参考にしてください。

拉致監禁の知らせを受けて、私は、直ちに三日断食をしていました。
しかし、それは、取りあえずであって、
自分の限界を超えるような条件が必要だと思っていました。
一度、七日断食をしていましたから、どこかでそれをするつもりでした。

三日断食を明けて一週間しないで、七日断食を始めました。
場合によっては、体を気遣って許可が下りないこともあると思うのですが、
許可して頂いてありがたかったですね。
私の固い決意を何度も確認されました。

訓読(御言葉の拝読)、祈祷、というものに加えて、
この断食も私はよいものだと思っています。

断食をしたから何かが叶うとか、そういうものではありませんが、
切実に何かに祈り求める時、内的には断ったもの以上のものが得られると、
私は感じています。

何かできることがあるなら、なんでもしたかったのです。
監禁されて、霊的に大変な戦いをしているであろう主人の、力になれること。
私自身ができることはほとんど何もありませんでした。
断食しなければ悔やむことになったでしょうね。

うちの教会の断食というのは、一人で勝手にできるものではありません。
必ず報告して、祈って意識して頂いてる土台で、神様から守られるものだと思います。
私の力ではできません。

「死なんとする者は生きる」
「人はパンのみによって生きるのではなく、神のみ言によって生きる」というみ言葉は、
そのみ言葉自身が真実であり、活きたものだと私は思います。

私はこの断食で衰弱はしましたが、何かに守られたように、とても気丈に過ごせましたし、
通常の活動もこなすことができました。
やはり、食べ物を断つということは見えない恵みをたくさん得るのかもしれません。

それに、私の周囲のチームメイトや現地の兄弟たちが、とてもよくしてくれて
私は本当に愛を受けました。
涙が出るくらい嬉しかったし、心はいつも何かにつけて監禁中の主人に向いていましたが、
泣いたりすることはなかったですね。
すごく泣き虫なのですが、こういう時には、涙も出ないのです。
多少出たとしても無意識であって、記憶にないし、おそらく泣く余裕がなかったのだと思います。

その頃、主人は頑張り徹してくれていました。日々の強制改宗に耐えながら…。

他人から何と言われようと
他人が何と思おうと
けっしてあきらめることなく
自分が信じる道を歩み続けると決意するならば、
その瞬間
皆さんは信仰者として最高の基準に到達することができます。
その基準に到達した時に
神様は無条件で皆さんを信頼することができるのです。
だから、孤独の時、さびしい時こそ
神様のことを思いなさい。
神様を信じて
けっして希望を失わないこと、
これが信仰者にとって大切なことです。
「こころの四季」より


◇また不定期に続きます◇


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