◇妻の手記の続きです。妻は海外でのボランティア活動中でしたが
日本には帰国しませんでした。
それには意味があったのですが、
私は解放された当時、それを寂しく感じてしまいました◇
日本には帰国しませんでした。
それには意味があったのですが、
私は解放された当時、それを寂しく感じてしまいました◇
電話でどんな会話をしたか覚えていませんが、
「すぐに帰国してください」と言われたと思うのです。
以前述べた通り、私はお祈りの中で、
「三年間は帰国しない」と、神様に約束した直後でした。
それが神の願いだと、天啓のようなものが与えられていました。
多分二度目の電話の時だったと思います。私は電話で尋ねました。
「帰国して私の出来ることはあるのですか?」
もう、長期で留守を決め込んでいる主人の実家には誰もいないはずです。
時々郵便物を取りに来るはずだから、
それを張り込むくらいしか方法がないというのです。
つまり、何も出来ることはないに等しかったのです。
主人のことを考えるなら、
すぐに帰国するのが当然という状況だったかもしれません。
しかし私は、日本には帰りませんでした。
私は東欧の地で、奉仕活動をしながら、現地の人と交わりながら、
私のできることをしようと思いました。
日本に帰っても、私の出来ることはないに等しかったのですから。
神様の前に約束したことを大切にしたかったのです。
文先生が夢の中でおっしゃったこと、「信じ合っていくんだね」というのは
今のために言われた御言葉だったと気づきました。
「日本には帰りません」と電話で告げた時、主人の中心者は驚いていたようでした。
「いつ頃帰ります」という返事を期待していたと思いますから。
後に解放された際、
てっきり日本で自分の帰りを待ってくれているだろうと思っていた主人は、
やはり私の真意がわからず、がっかりしたようです。
彼が拉致されたのは、私たちの二周年目の祝福記念日のことでした。
に 日輪の
しゅ 祝しし木々は安からん
う 憂きこともなし
ねん 年輪刻みて
こんな自作の詩を添えた彼への手紙も日本に届いたはずですが読む人もないまま、
八月、そして九月が過ぎていきました。
◇妻の手記は、不定期にまた続きます◇
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