2023年03月17日

鏡を見なさい、顔を変えなければならない人が、多くいます 《金元弼先生》



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金元弼先生のみ言
「何よりも神のものを愛す」より
『勝利基盤の上で語られるみ言』を紹介します。



先生は時々、「あなたの顔を
鏡で見て御覧なさい」と言われます。

「お前の顔は、上向きになるのが美しい」とか、
「笑う時には、こうした方が美しい」とか、
色々気を配ってくださいます。

心はそうでなくとも、顔つき、座り方、
いろいろなことによって、
人々にいい感じを与えたり、
良くない感じを与えたりすることがあるのです。


皆様の中にも、顔を変えなければいけない人が、
たくさんいます。

顔が上向きになるのと、下向きになるのと、
正面向きになるのとでは、表情が全然違ってきます。

例えば、私がここにきちんと立って話すのと、
近寄って話すのとどう違いますか。
笑顔を作って話すのと、厳かな
恐縮した形で話すのとまた違います。

先生はそういう点まで非常に細かいのです。

私は初めて会った人でも、笑いながら話す習慣があります。
私が笑顔でやっていくものだから、
気持ち悪く感じたらしく、言葉も通じないから、
誤解されてにらまれたこともありました。

「あまり笑顔で話しかけると軽く見られるんだ」
と先生が教えてくださいました。

また髪の毛を真ん中から分けた時も、
「こちらの方から分けなさい」と言われました。

 
そのように先生は女性会員でも、男性会員でも、
一々そういうところまで気を付けて、
人のたくさんいるところではなく、
先生と二人でいる時に、静かに教えてくださいました。

ですから、中心に立つ者は
メンバーを嫌いになってはいけません。
いやになったら、もう何もできません。

先生がそのようにしてくださると、
私たちは先生を好きになって、
どんどん話したくなります。

初期のころ先生は、若い人の話も
年取っている人の話も、
おじいさんの話もおばあさんの話も、
よく聞いてくださいました。

そのころはおじいさん、おばあさんを
仲間にして話し合ってくださった時期だと思います。
中間期には、壮年の方とよくお話しされました。
今の時期は青年の時代です。

 
先生は、「人のために尽くしなさい。
指導者はこういうものです」
と色々話してくださいますけれども、

それは御自身が勝利された上で
話してくださるみ言なのです。

先生のみ言がどこからどのようにして出てくるのか
ということを考えた時の結論です。

心情という言葉も、一九六〇年の
二、三年前から初めて使われました。
そういうのはたくさんあります。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「勝利基盤の上で語られるみ言」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
わかりやすく読んでいただくため、
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2


一人一人の食口に対し、
ただみ言を語られるだけでなく、
生活面でもご指導された
お父様であったと思います。

また、身なり服装は、
自分のためではなく、回りの人のために
整えていかなければならない、
そのことを改めて感じます。

身近な食口に対して、
愛をもって接してくださるお父様が、
恋しく、懐かしく思うのです。




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2023年03月16日

手をつながないつもりだったけど 私のマリッジブルー体験談 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム。
今回は、『手をつながないつもりだったけど』。

家庭をもつ前の4日間のセミナーに
参加した女性の体験談です。

マリッジブルーというのがありますが、
祝福結婚であっても、
やはりあるようですね。

(女性 30代)

家庭修練会に参加しました。

本当はボイコット計画も立てていたくらい、
葛藤を抱えていたのですが、
それでも良心の導きで参加することになりました。

講義の合間に毎回、
「私はこういう恩恵を受けた」という話を
主体者(夫となる相手)にしていたところ、
彼の堪忍袋の緒が切れて、
「感想なんてない!」と言い出しました。

それが家庭修3日目の午後でした。

感想がないなんて!
心も頭もあるでしょ!
理解できない!

「明日はもう閉講式なのに、どうしよう」
と、心の迷路にはまりました。

いろいろと祈ってみるのですが、
「ごめんなさい」が言えない私でした。


そこで、「私は今、自分本意の考えに
(とら)われている」と唱えながら、
「自覚を取り戻す」ワーク*を始めました。

すると次第に、「家庭というのはこうありたい」
「変な道にそれてしまいたくない」
「み言に即して思い描いた理想的な姿になりたい」
「間違ってはいけない」
「だからこうしてほしい」

という、たくさんの“正しさ”で
自分の理想を守ろうとする思いが
強く強く働いていることが分かってきたのです。

ようやく心の霧が晴れて、
本当は自分に尽くしてくれている
主体者の優しさ、思いやりが見えてきた感じがしました。

 
しかし実際は、主体者は私を無視、
私も彼を無視──。

その状態のまま最終日になり、
講話の時間に43双の大先輩をお迎えしました。

よりによって私たちの席は一番前!
主体者の反応が心配でした。

しかし隣の主体者の波動は穏やかで、
どうやら講話に聴き入っているようでした。

「え? 感想も何もないって言っていたのに、
なんなのこの人!」と思っていたら、
やがて携帯をいじりだす彼…。

「講話中に何やってるの!」
注意してやろうかと思いましたが、
今はお話に意識を集中する時だと思い直し、
言うのはやめました。


そんなこんなで、最後の祝祷も
手をつながないつもりだったのですが、
導かれて手をつなぎ、思いがけず涙の場となりました。

後から彼に聞くと、携帯をいじっていたのは、
大事な話だから私のために
録音をしてくれていたのでした。

すったもんだありましたが、
主体者を心の目**で見つめ、
一つになる方向に導かれています。

自己牧会プログラムの実践のおかげだと
感謝しています。

私の心の中にいる神様 164
手をつながないつもりだったけど
*自覚を取り戻すワーク:
自己本位の思考をしている自分を
客観的に眺める位置に立ち(自分を客観視)、
今ここは、自由・平和・統一・幸福な
世界があるだけだとイメージする。
ワークは、ここでは祈り、瞑想

**心の目:神の目。
自己中心的な一方的な見方ではなく、
万民を愛する神の視点、愛情をもった広い視点。


携帯をいじっている男性の姿。
見た目とは違い、奥様のために録音していたとは。。。

どんな動機で行動しているかは、
外見では全くわからないな、と思います。

「感想なんてない!」という言動も、
本当は違っていたのでしょう。
男性側の感想も聞いてみたいですね。

特に結婚前の女性は、結婚というものに
淡い理想をもっているといいます。

本人は淡いものだと思っていても、
いざ結婚、とそれが現実になると、
さまざま具体的になってきます。

すべてを丸呑みできないので、細かい所で
いろんな葛藤がおきているのかもしれません。

男性と女性は本当に違いますし、
育った家庭環境も違うのですから、
当然と思っていることが
お互い違っていたりすることでしょう。

話し合って理解していくことも
とても大切でしょう。
お互いに知って理解することも必要でしょう。

より理解し合う関係を築くためにも、
物事を平面的、外見で捉えるのではなく、
その背後の深い心情を求めていけるよう、
良心に尋ね求める習慣を持ちたいと思うのです。




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2023年03月15日

悔しくて・・・ 圧倒されるような悲しみに包まれた神様 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「真理を求めよ」より、「神様の悲しい心情」です。



お父様(文鮮明先生)は最近、「真を求めよ」というみ言を
よく語られますが、私たちが真を求めにくい理由は、
私たちに堕落性がにじんでいるからです。

真という考え、願いは簡単にもつことができますが、
自分の堕落性を清算しながら、
どういうふうに真の心情を自分の本性に
芽生えさせるかということが、
私たちが生活の中で取り組んでいくべき問題です。


まず、私たちは創造主を知らずにいました。
堕落という出来事を通じて、その時、
創造主の心情がどうであったかを考えてみます。

その時の神様の心情は、家庭の中で
悲しいことがあった場合に例えることができます。

家庭関係、夫婦関係、親子関係で悲しむ時とは
どういう時かというと、激しくお互いに逆らった時、
葛藤した時、あるいは自分勝手なことをした時です。

関係をもっているということは、自分を肯定することが
できない立場であるということです。
それなのに、自分勝手に振る舞った場合には、
悲しみを感じるのです。


創世記の第三章九節に、神様が
アダムを訪ね回った話があります。

神様は、「アダムよ、どこにいるのか」
と、アダムを捜されたのです。

しかし、どこにいるか分からないから
捜したのではなく、勝手なことをして
隠れているアダムに向かって、
「どこにいるのか」と捜されたのです。

その言葉の背後には、
神様の説明できない悲しみがあります。


私たちの家庭の中で勝手なことをした人に対して
話す時も、この悲しみと同じなのです。

だれがだれに許諾を受けた生活なのか
というのが問題なのです。


「どこにいるのか」、
「だれがお前にそんなことをさせたのか」。

神様からこういうふうに聞かれた時に、
アダムは何とも答えられない恥ずかしい、
弁解することができない立場に立っていました。

アダムは、「自分がした」とは言わないで、
「エバがしたのだ」と言い、
エバは「天使長がした」と、
このように転嫁していったのです。

私たちは、そういう時にはよく、
アダムが神様の悲しみや悔しい心情を
知らなかったからだと言います。

「あなたはどこにいるのか」という神様の言葉の背後に、
聖書には表れていませんが、
神様の悔しい心情があるのです。

お父様が神様の立場、心情を話されるまでは、
私たちもそのような神様の心情を
知っているようで、実は知らずにいました。


それから伝道の書第七章二十八節には、

「わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。
 わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、
 そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった。
 見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである」


とあります。
聖書の聖句を一つ一つ、このような神様の心情を
分かって読んでいくと、

「わたしは千人のうちにひとりの男子を
得たけれども、そのすべてのうちに、
ひとりの女子をも得なかった。
見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである」

という言葉の背後にも、とても悔しい
神様の心情が含まれているということが分かります。


聖書を再び読んでみると、神様が人間に対して
話される言葉はみな、恨をもった心情で
話されていることが分かります。

ノアに向かって話す時も、アブラハムに向かって話す時も、
みな悲しみに包まれて話されたのです。

アブラハムも、その言葉の背後に
神様の悔しい心情があるから、
何とも答えられなかったのです。


アブラハムが、神様の命令にあれほど絶対服従したのは、
自分の信仰からという面もありましたが、
神様の言葉の背後に悔しい内容があることを
感じ取ったからではないでしょうか。

ですから、「アブラハムよ、そのカルデヤのウルから
出てきなさい。出発しなさい」という一言で、
びっくりして目的も知らずに出発したのです。


お父さんがあまりにも悔しくて子供を呼んだ場合、
子供は勝手なことをして良心の呵責があって
恥ずかしくて隠れていたとはいっても、
「お前、出てきなさい」と言われた時には、
「なぜ出てこいと言うのですか」とは言えません。

「なぜ強制的に呼び出すのですか」
とは言えません。
それは、自分がお父さんを悲しませた理由を
知っているからです。


それと同じく、アブラハムも神様に召命された時に
絶対服従したというのは、
神様の悲しみに圧倒されたからです。

神様の心情を知らなければ、
それは強制的な言葉に聞こえますが、
神様はアブラハムを呼び出した時、
本当に悲しい心情に包まれて、
命令せざるを得なかったのです。

24・真理を求めよ
「神様の悲しい心情」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
わかりやすく読んでいただくため、
行変え、段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2


言葉の背後には、心情があります。
聖書の神様のみ言にも、
神様の心情が込められています。

神様の心情の中心は愛ですが、
人類のゆえに、悔しく悲しい心情に
満たされているというのです。

その悲しみの神様を解放されるために、
生涯をかけて歩まれた、
真の父母様です。。。

そして、どのように天の父母である神様に
真を返していけるのか、
その方法がわからず親不孝を繰り返す
人類のために、そんな私たちを導くために
生涯をかけてくださっています。

天の父母様、真の父母様、
心から感謝します。



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