2013年03月21日

〜「復帰の心情」の原点〜 お父様が最後に行きたかった地、野牧(ヤモク)とは?!


野牧.png


ファミリーフォーラムに
 〜お父様が聖和される前、最後に行かれたかった場所〜野牧(ヤモク)
という題目で記事が掲載されていました。

記事の内容を紹介します。


真のお父様が、最後に、み言を語られた場所は、
ソウルの五山中高等学校ですが、
実は、その時、お父様は、
五山中高等学校ではなく、
”野牧(ヤモク)”という場所を
訪問されたかったと言われています。

何故、野牧へお父様は行かれたかったのでしょうか?
野牧は、日本ではあまり馴染みのない場所ですが、
実は、お父様にとっても、
そして統一教会にとっても、
非常に重要な場所なのです。

第二の定州と言われている。
お父様は、定州へ行きたい時、
野牧へ来られたと言われています。
そして、豊かな自然を持つ野牧は、
エデンの園に似ているとも語られています。
亨進様も、北朝鮮へ行かれる前、
お父様の指示で、この野牧で
1週間精誠を尽くされました。
また、野牧は、四大聖地
(釜山ボンネッコル、黒石洞、原殿、そして野牧)
の一つとして指定されています。

統一教会の出発点と言える場所である。
お父様は、今日なされた全ての摂理を、
この野牧で構想されたと言われています。
1957年には、野牧にいた120名のキリスト教信者が
一気に統一教会へ改宗しました。
そして、第2回全国伝道師40日修錬会を受けた人たちが、
世界宣教へ出ていくなど、
野牧は、伝道発展の出発地と言える場所です。

聖歌16番「復帰の心情」が誕生した場所

何よりも、何よりも、お父様が生前、
最後に行かれたかった場所が、この野牧なのです。



聖歌16番「復帰の心情」が誕生した
ということですが、
『聖歌のゆかり』という本があります。
見ると、野牧の内容がありましたので、
その一部を紹介します。


作詞者の李容熙(イヨンヒ)さんは
七二家庭の婦人です。
この詩は、李容煕さんが
十六歳ごろ初めて原理のみ言に触れたときに知った、
天の父の切々たる心情を書き表したものです。

李さんの故郷の、野牧という所
(田舎で、水原という地に近い)で
伝道復興会が開かれたのは一九五五年、
初秋でした。会場は車牧師の営む教会です。
車牧師はかつて平壌で文先生の弟子となりましたが、
北韓で別れ、再び南で文先生に出会って、
既成教会の伝道師をしながら歩んできたかたです。


この車牧師についての話を
以前聞いたことがあります。
まとめてみますと──

「平壌で文先生の弟子となりました」
と書いてあるように、
お父様から直接み言を受け、
様々な知識を得ていきました。

故郷である野牧に帰り
お父様から学んだみ言を
語っていきました。

その中でも聖書に対しての解釈は
ずば抜けたものがあり、
牧師になったらどうか
そのような話があって、
長老教会の牧師になりました。

車牧師は、
お父様からおそわった
原理と聖歌を
信徒に教えていきました。
おそらくこの地で生まれた
聖歌16番も
何度も歌われたことでしょう。

そして、約120名の信徒になり、
みなが、信仰生活を送っていったのです。
当時、たくさんの役事がおきたといいます。

実は、信徒たちは
車牧師が語っている内容が
統一教会のものとは知りませんでした。

ところが、ソウルで基督教を学んだ
ある青年が、故郷の野牧に帰ってきて、
長老教会の礼拝に参加するため
車牧師の教会に行きました。

話を聞くと、
何と統一教会の原理だったわけです。

青年はびっくりしました。
「この教えは統一教会の教えだ。
悪いところだから、止めたほうがいい」

しかし、だれもびくともしませんでした。
ついにはその青年は裁判を起こします。

『ただちに統一教会の信仰を捨てるように、
さもなければ、長老教会から
出て行くように』
車牧師は、
そんな命令を受けたようです。

そうして、
最終的には123名の信徒の中で、
120名がついていきました。

野牧という地は
聞いたことがないし、
行ったことのない、
そんなところではありましたが、
場所としても
とても素晴らしいところのようです。

さらには、証しのように
信仰の出発の原点としても
素晴らしいものがあります。

そういう意味で、真のお父様が
最後に行きたかった場所だったのではないか、
そのように推測します。

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お父様のみ言

野牧修練会での話を一つします。
貯水池に蓮があったのですが、
とげがあって恐ろしい姿をしていました。
その真っ青なとげに毒があり、
ちょっと刺しても全部膿むのです。
こういう所に、男性、女性を問わず
全部入って魚捕りをするのですが、
先生が先頭に立って全部引っ張って入りました。
ところが、
「やあ、あそこにどうやって入るのか。
風邪を引いたらどうする」と言う人がいます。
ですから、
「お前の好きなようにしろ」と言いました。
そう言った人を、今も記憶しています。
名前は言いません。
その人に野牧でのことが思い出されるかと尋ねると、
「もう一度そういう時があればいい」と言います。

しかし既に時は過ぎ去りました。
もう十回でなく、百回やって蕩減すると言っても、
本物にはなりません。
本物は一つです。
二つではありません。
いくら気勢のいい人も、
野牧修練会の話さえすれば、
良心があって恥ずかしがります。
良心は本当に良く、
素晴らしいものです。
恥ずかしいことをすべて知っているからです。
その恥ずかしさが救いです。


(牧会者の道『野牧修練会であったこと』より)



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posted by ten1ko2 at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする