2013年04月15日

自分は空腹でも、友達に与え満足する?! 化粧は何のためにするのか?! 《愛天愛人愛国の生活》幸せをつかむには1


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今日は書写奉納式をし、
浅川先生の講演会を参考に
話させていただきました。
少しまとめて紹介します。


私達は幸せになるために
どうしたらいいのでしょうか。

幸せを実現するため、
みんな努力します。

またある人は寺や神社に行き祈願します。
家庭円満、商売繁盛を毎年願うのではないでしょうか。

どうしたら幸せになることが出来るでしょうか。

私達は、幸せになりたいと思いながら、
現実はそうなっていません。

夫婦の関係・親子の関係・嫁姑の関係に
恨みが生じています。

しかし、お父様は
「幸福は待っている」
「幸せな道を歩みさえすれば幸福は準備している」
そのように語ってくださいます。

幸福は逃げていないのです。
幸福は待っています。
ただ、道を間違えただけなのです。

幸福駅はあるのに、
乗る電車を間違えて着くことが出来ないのです。

お父様は幸福駅に着くために、すなわち
本当の幸せを得るためにどうしたらいいのか、
その生涯を通して教えてくださいました。

浅川先生はお父様の歩まれた心情世界を参考に
大きく二つに分けて話してくださいました。

一つ目は、『幸せはどういうものか』というものです。
お父様が悟られたのは、
人を幸せにしてあげるときに感じる喜びのことを幸福というのです。
ですから、自分だけが幸せになろうとしても
幸せになることが出来ないのです。

自分さえよければ、という思い、
自分が幸せになりたい
という思いを持っていたらどうでしょうか。

私が幸せになるために夫がいる。
夫は私の為にいると思ってしまうとするなら、
夫の愛の不足で私が不幸になっていると思い、
苛立ち、要求の思いになってしまうのです。

逆に夫もこう思う人がいます。

『俺が汗し涙し、
嫌いな上司に頭を下げているのに、
苦労して帰ってきたのに
妻は、現場監督のように今日も元気で行って来いと送り出す。
笑って送り出すのは毎月一回、給料日だけじゃないか、
あの妻が毎日笑って優しい声をかけてくれれば
俺の人生はもっと違うのに・・・』

そういって、妻に要求したい思いが出てきます。
我欲によって、本当の幸せが見えなくなってしまうのです。

お父様は自分のため、自分の幸せのために祈ったことがない方です。

お父様は小学生の頃、お腹がすいている人を見たとき
心がいたたまれなかったといいます。
お父様は実家で農家をされていたので、
ご飯は白米を食べることができました。
 
しかし、となりの友達の弁当は粟のご飯でした。
お父様は死ぬほどに悲しくなりました。
白米を友達にあげて、自分は粟飯を食べました。
友達が白米を食べて喜ぶ姿を見て本当に嬉しくなったのです。

高校生の時、時間の合間を縫って、橋の下に行きました。
そこには、こじきの部落がありました。
その人たちを見ると、お父様は心が痛みました。
彼らは、髪を洗ったことがなく、伸ばし放題です。

はさみで髪の毛を切ってあげました。
彼らは、こんなことをする人がいると、
言葉を失って、涙を流しました。

お礼といっても渡すものがありません。
垢だらけの手で町で拾ったおにぎりをくれました。
お父様はこれが本当に美味しいといいます。

大学時代には、学費として仕送りが来ましたが、
苦学生たちのために、すべてのお金を
食券にかえて全部に与えてしまいました。

自分はお腹がすいても、
友達に与えたら満足だ。

これがお父様の精神です。
この情感が私たちと違うのです。

子供は親が何もしてくれないといい
親は子供が言うことを聞かないといいます。

お父様は、化粧は誰のためにするのか、
ちゃんと定義づけています。
そうです。夫のためです。
夫の為に化粧をしなければ、
化粧の根本的意義を失うというのです。

夫が起きる前に奥さんは早く起きなければなりません。
そして化粧をするのです。

綺麗な顔を夫に見せて、それで玄関で見送ります。
しかし皆さん、だいたい夫が出てから
化粧するのではないでしょうか。

しかも、また夫が仕事で疲れて
帰ってきたら、またスッピンになっている(笑)。

人の幸せの為に生きるようになっているというのが、
お父様の言われる人間の定義です。



少し長くなりました。
後半は明日に。

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幸福は人のために生きる人生の中にあります。
いくら小さくて、取るに足りないことでも、
相手のために、人のためにするとき、幸福と感じるのです。


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あくまでも個人において、書いているものであり、
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posted by ten1ko2 at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月14日

『愛天愛人愛国生活』の愛はどこからくるのか?!・・・ 衝撃!! 親に毎朝挨拶をする子女はどれくらいいるか?!


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昨日今日とすさまじく忙しかったので、
少し遅くなりました。

今日は日曜日でしたが、
久しぶりに小学生礼拝と
中高生礼拝を担当しました。

『愛天愛人愛国生活』ということで
説教したので、紹介します。


みんなはお父さん・お母さんに挨拶しますか?
朝起きて、「お父さん、お母さん、おはようございます」
ってしっかり挨拶している人、手を挙げて!

じゃあ、みんなの家に
おばあちゃんがいるとしましょう。

お父さんとお母さんに
朝起きて「おはよう」
と元気良く挨拶をしても
となりの部屋のおばあちゃんには
なんの挨拶もしなかったらどうだろう。

学校に行くときにも
「お母さん、行ってきま〜す」
と言っても、
おばあちゃんにでかける挨拶をしなければ
おばあちゃんはどう思うかな?

そうだね。
おばあちゃんは、淋しいし、悲しいよね。

だったらみんなはどうするかな?
そうだよね。
おばあちゃんに最初に挨拶するよね。

そうしたら、おばあちゃんは
一番喜ぶし、嬉しいし、
何かみんなにしてあげたいと思うんです。

そのおばあちゃんの立場が
神様なんですね。

だから、朝起きるときも
学校に行くときも
学校から帰ってくるときも
そして、夜寝るときも
最初に挨拶するのは、
神様なんです。

そうしたら、神様は
喜んでくださると思いますよ。

「愛天」の生活というのは、
神様を愛することです。

神様を一番大事に思うことです。

蝶は、捕まえようとしても
なかなか捕まえるのが難しいですね。

でも花にはとまります。
花は別に捕まえようとしなくても
蝶は花にとまるのです。

蝶は幸運と同じです。
幸運を引き寄せるには
どうしたらいいでしょうか。

愛天愛人愛国の生活
自叙伝心の書写をすることで、
幸運(天運)を引き寄せる
私となることが出来るのです。



実は親に挨拶をしているか聞いた時、
小学生の子達はほとんど手を挙げましたが、
中高生の子は半分以下でした。
正直、ショックでした・・・

また、自叙伝書写を
しているかという質問にも
小学生は半分以上挙げたのに、
中高生はごくわずかでした。

教会の子供たちには しばらく
ほとんど携わっていませんでしたし、
スタッフでもない立場ではありますが
「ちょっと投入しなければ」
そう思わされたのでした。

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お父様のみ言

花畑を飛び回っていたミツバチが蜜の匂いを嗅ぐと、
花びらにしっかりと足をつけ、
尻尾を後にしたまま口を
雄しべと雌しべに差して蜜を吸います。
その時、ミツバチに近づいて、
尻尾をつまんで引き抜いても蜜から離れません。
命がけで蜜を守るのです。

 家庭を持って暮らす父母の愛は
まさにこのミツバチと同じです。
自分の命が尽きても、
子供に対する愛の紐を放しません。
子供のために命を捨て、
さらには命を捨てたことさえ忘れるのが
父母の真の愛です。
いくら道が遠く険しくても、
父母は喜んでその道を行きます。
父母の愛は、
世の中で最も偉大な愛です。



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2013年04月13日

「拉致監禁はなかった」という反対派のために?! 〜「拉致監禁はあった!!」証拠文献の一例〜 後藤裁判では・・・?!


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「『マインド・コントロール理論』
その虚構の正体」という本を見ていたら
「拉致・監禁による強制的暴力改宗活動の実態」
という箇所において、
脱会した元信者ふたりが「拉致監禁」を認めている記述がありました。
そのうちの一人はあの有名な山崎浩子さんです。

一部、紹介します。


「反対牧師」が親や親族を操作して行っている拉致・監禁は、
CANの活動と同様に非常に強制的・暴力的なものであり、
明らかに犯罪性が認められることは
多くの証言によって明らかになっています。

『週刊文春』(一九九三年四月二十九日号)
に掲載された山崎浩子さんの手記にも、
彼女が強制的に連れさられたことが書かれています。

「『しまった、やられた』私のこわばった頬を、
とめどなくあふれ出る涙が伝う」
「みんなの視線が、私に突き刺さっている。
逃げることはできない。
いや、逃げてはいけないと思った」
「姉達が拉致・監禁をするなんて――」

「私を真ん中にはさむようにして、姉と叔母がシートに身を沈める」
「車はどこにむかって走っているのか、全然分からない。
これからどうなるのか、それもまた、全く見当がつかなかった」

元統一教会員で、現在は反対活動を行っている
田口民也氏の『統一協会からの救出』(いのちのことば社)には、
彼の指示によって両親から拉致・監禁されたN君の手記が載っていますが、
そこには到底逃げ出せないような環境に
無理やり連れて行かれた様子が描写されています。

『そのうちに、あるアパートまで連れて行かれた。
それが、逃げられないように頑丈にしてあるのを見て初めて、
私はここまで来た意味がわかった。
こうして数か月間のアパート生活が始まったのである。』

この本にはN君を拉致した父親の手記も載っていますが、
そこには息子を拉致するためにロープやガムテープなどを
用意したという生々しい記述があります。

『親戚に初めて息子の状態を伝え、協力を願う。
十名の協力を得ることができた。
連絡があってから、一週間が過ぎる。
移動用ジャンボタクシー、
身につけるロープ、ガムテープなどそろえる。』

これらは父兄が主体的に思いついてやるのではなく、
明らかに牧師が事細かに指示してやらせているのです。

田口氏は著書の中ではっきりと、
「まず、体を集団ナルチシズム(集団生活および彼らの監視)から
隔離する必要がある」
「救出は、その組織から、体を引き離すことはもちろんであるが、
体だけを統一協会からだしても、それで安心してはいけない。
体だけではなく、心や霊までも解放しなければ本当の救出にはならない」
と書いており、信者の改宗にはまず物理的な隔離が必要だとの主張をしています。

そしてこの本には「第三章救出のためのテキスト」と称して、
牧師が親に出している具体的な指示が述べられており、
これは改宗のためのプログラムが牧師によって作られた
マニュアルに従って行われていることを示唆しています。

信者は監禁された状態のまま、
反対牧師による長期間の棄教の強要と説得を脱会するまで受け続けます。
長い場合は数カ月に及ぶこともあります。
そしてまず現状では本人が拉致・監禁された場合の救出、
あるいはそこからの脱出は不可能な状態なのです。



後藤さんの裁判においても
こういう書物はすでに証拠として
挙げられているに違いありません。

また先日お伝えしたように
教会を離れた元食口が
証人喚問の席で
すでに拉致監禁を認めています。

本来あったものを証明するのは
難しいことではなく、
次々に証拠は出てくることでしょう。
反対に
ないことを証明するのは、
骨が折れることでしょう。

今回の裁判においても
「拉致監禁はなかった」
そう反対派が主張するのですが、
「ない」というのは「ありえない」
ということになりますね。。。


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お父様のみ言

先生の心情をしのび
少しでも感じてください。
当時それは
不可能に近いほど困難な道でした。
また何と
寂しい孤独な道だったでしょうか。
当時先生は頻繁に取調べを受けながら
苦難の道を歩んでいました。
先生の 本来果たすべき
天宙的使命を知る者もなく
一人先生自身のみ
人知れず自分が何者であり
未来に何を成し
どこに行かんとしているかを知っていたので
ひとたび天の前に成した誓いと決意を
不変のものとしながら
ここまで歩み続けてきたのです。


愛のシンフォニー3
「主の道」より



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