先日お伝えしたように、
お母様は二世たちに祈祷を変えるように言われました。
お母様の指示は本当に的確です。
時に応じて
ふさわしい内容が与えられます。
以前、史吉子先生が
お母様の証しをされています。
☆
『真のお父様が称賛された三点』
『真のお父様が称賛された三点』
私が、真のお母様のお近くで侍るようになったのは、
お母様が譽進様に続いて孝進様をお生みになったときからです。
そのころ、真のお母様と多くの対話をしながら過ごしました。
私は、真のお母様よりも十歳年上ですが、
真のお母様に接しながら感じたことは、
真のお母様は、大母様の信仰の土台の上で生活し、成長されたので、
相当、信仰的に深い内容をお持ちであるということでした。
真のお母様は、聖貞(現・善正)女子中学校を出られた後、
看護学校に通われていたときに、真のお父様とご聖婚されました。
私は、真のお母様に侍りながら、
世の中の知識から得ることができるものは、
とても表面的であるということが分かりました。
その反面、真のお母様が持っておられる世界は、
とても霊的であり、啓示的です。
ですから、私が十のことを話したとしても、
それは表面的であり、一般的な知識なのですが、
真のお母様は、それを一言で整理してくださるので、
私は、その一言に驚くのです。
真のお母様は、普通の人とは違い、
深い知恵と霊感があられ、
とても正確に物事を認識されるということです。
ですから、真のお母様に接するとき、
この世の中の学問、知識も、お母様の内的な世界には
及ばないということを、いつも感じます。
真のお父様は、以前、真のお母様に対して、
三つのことを挙げて、とても称賛されました。
一つは、非常に霊感的であられるということです。
真のお父様が何か決定を下そうとされるとき、
真のお母様が、ある一言をおっしゃると、
お父様は、そこからヒントをお受けになるというのです。
二番目は、真のお父様に対して、
信仰的に絶対に従順であられるということです。
三番目は、非常に心情的であられ、
所有観念がないということです。
例えば、真のお母様は、多くの贈り物を受けられますが、
そのさまざまな装飾品や服などをご自分のものにしようという思いは、
全くお持ちでないのです。
受け取られると、まず、“これは、だれに必要だろう?”と考えられるのです。
これは、有名な話ですが、
真のお父様が世界巡回をされたとき、
当時、十分なお金はなかったのですが、
真のお母様に指輪を一つ買ってさしあげられたということです。
真のお父様は、真のお母様が、その指輪をはめているのを、
一度も見かけられなかったそうです。
それで、真のお父様が、
「その指輪を、どうしてはめないのか?」
と尋ねられると、真のお母様は、
「それは、だれかに上げました。」
と、おっしゃったというのです。
真のお母様は、その指輪をだれに上げられたのかさえも、
お忘れになっていたのです。
それで、真のお父様は、
「皆さんは、このような真のお母様に侍っているということが、
どれほど幸福なことか分かりますか?」と、おっしゃいました。
もし、真のお母様が、“自分が受け取るものは、自分のものである。”という、
そのような所有欲のあるかたであられるとすれば、
「それを、だれだれに上げなさい。」と、いちいちおっしゃらないはずです。
ところが、何か良い物が手に入ると、
ご自分のことは考えられずに、“だれに上げようか?
これは、だれにとって必要だろうか?”と、真のお母様は考えられるのです。
例えば、私が、“服が必要だ。”と思うと、
口にも出していないのに、ちょうど私に合った服を下さるのです。
(証し・証言 より)
お母様が譽進様に続いて孝進様をお生みになったときからです。
そのころ、真のお母様と多くの対話をしながら過ごしました。
私は、真のお母様よりも十歳年上ですが、
真のお母様に接しながら感じたことは、
真のお母様は、大母様の信仰の土台の上で生活し、成長されたので、
相当、信仰的に深い内容をお持ちであるということでした。
真のお母様は、聖貞(現・善正)女子中学校を出られた後、
看護学校に通われていたときに、真のお父様とご聖婚されました。
私は、真のお母様に侍りながら、
世の中の知識から得ることができるものは、
とても表面的であるということが分かりました。
その反面、真のお母様が持っておられる世界は、
とても霊的であり、啓示的です。
ですから、私が十のことを話したとしても、
それは表面的であり、一般的な知識なのですが、
真のお母様は、それを一言で整理してくださるので、
私は、その一言に驚くのです。
真のお母様は、普通の人とは違い、
深い知恵と霊感があられ、
とても正確に物事を認識されるということです。
ですから、真のお母様に接するとき、
この世の中の学問、知識も、お母様の内的な世界には
及ばないということを、いつも感じます。
真のお父様は、以前、真のお母様に対して、
三つのことを挙げて、とても称賛されました。
一つは、非常に霊感的であられるということです。
真のお父様が何か決定を下そうとされるとき、
真のお母様が、ある一言をおっしゃると、
お父様は、そこからヒントをお受けになるというのです。
二番目は、真のお父様に対して、
信仰的に絶対に従順であられるということです。
三番目は、非常に心情的であられ、
所有観念がないということです。
例えば、真のお母様は、多くの贈り物を受けられますが、
そのさまざまな装飾品や服などをご自分のものにしようという思いは、
全くお持ちでないのです。
受け取られると、まず、“これは、だれに必要だろう?”と考えられるのです。
これは、有名な話ですが、
真のお父様が世界巡回をされたとき、
当時、十分なお金はなかったのですが、
真のお母様に指輪を一つ買ってさしあげられたということです。
真のお父様は、真のお母様が、その指輪をはめているのを、
一度も見かけられなかったそうです。
それで、真のお父様が、
「その指輪を、どうしてはめないのか?」
と尋ねられると、真のお母様は、
「それは、だれかに上げました。」
と、おっしゃったというのです。
真のお母様は、その指輪をだれに上げられたのかさえも、
お忘れになっていたのです。
それで、真のお父様は、
「皆さんは、このような真のお母様に侍っているということが、
どれほど幸福なことか分かりますか?」と、おっしゃいました。
もし、真のお母様が、“自分が受け取るものは、自分のものである。”という、
そのような所有欲のあるかたであられるとすれば、
「それを、だれだれに上げなさい。」と、いちいちおっしゃらないはずです。
ところが、何か良い物が手に入ると、
ご自分のことは考えられずに、“だれに上げようか?
これは、だれにとって必要だろうか?”と、真のお母様は考えられるのです。
例えば、私が、“服が必要だ。”と思うと、
口にも出していないのに、ちょうど私に合った服を下さるのです。
(証し・証言 より)
☆
霊界におられる
真のお父様を証ししようと
お母様は
7年間は完全投入する決意で
臨んでおられます。
お父様が基元節を宣布されたのは
12年前でした。
そのときは12年、と考えてきましたが、
もうあっという間に過ぎ去っていきました。
そう思うと、7年なんて
『光陰矢のごとし』です。
お母様の願いに応えていけるように
一日一日精一杯の歩みをしていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)