2013年12月06日

私たちは「預言者」?! タスキとノボリで真の父母を証そう!!


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先日の礼拝で、『希望の預言者となろう』
という題目の説教がありました。

預言者とは、神様のみ言を預かった人という意味です。
私たちがまさに預言者の立場である、として
預言者エゼキエルを挙げながら、
私たちの立場を示してくださいました。

エゼキエルはバビロニア帝国のネブカデネザル王が
ユダ王国に2度目に侵攻したとき、
他の多くの同胞とともにバビロニアに捕囚となりました。

エゼキエルが30歳の頃に、
捕囚となったユダヤの民が集められたケバル河の辺で、
栄光の主の幻を見て(紀元前593年)
神様からの言葉をエルサレムの同胞の民と
捕囚となった同胞の民に伝えました。

エゼキエルは二十二年以上の間、預言を続けました。
初めは誰も信じませんでした。
しかし、エルサレム陥落を預言してからは
人々は預言者エゼキエルを信じるようになっていきました。

私たちは、神様から与えられた貴いみ言、
真の御父母様のみ言を『預かった』者たちです。
ですから、まさに『預言者』なのです。

真のお父様が神様に召されて、
再臨主としての道を出発されました。

そして、私たちも
神様に召されてこの道に来たのです。

エゼキエルは神様の言葉を民に伝えます。

「わたしは新しい心をあなたがたに与え、
新しい霊をあなたがたの内に授け、
あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、
わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
あなたがたは、
わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、
わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。」


(エゼキエル書36章26節〜28節)


   


私たちも神様の言葉を万民に述べ伝えないといけません。
また、叫んで、受け入れなかったとしても
それでも叫び続けないといけないのだと思います。

そうすれば、必ず受け入れる人が現れます。

どんなに硬い岩でも、キリを通して
穴を開けることができます。
しかし、キリの先が丸かったら、
あるいは曲がっていたら穴は開きません。
キリの先は尖っていないといけないのです。

真の御父母様が何よりも、この堕落世界に
天国の門を開いてくださいました。
まさにキリの先の立場です。

私たちも同じようにキリの先になって、
天国の門を開くべく、
み言を述べ伝えていかないといけないと思います。

うちの教会でも、タスキとノボリを注文し、
先日は、タスキが到着したので、
早速、夜の訓読会で、教会長を中心に
タスキをかけながら訓読をしました。
何か、気分が違いました(笑)。
ノボリが到着したら、駅前で、
堂々と真の父母様を証ししていきたいと思っています。

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posted by ten1ko2 at 13:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする