「どこの誰も、勝利したいと思うこの欲求の心情を
奪っていくことはできない」
という自信を持って進まなければなりません。
自信のない勝利は、偶然の勝利です。
そのような勝利ではなく、
自信のある絶対的な勝利をしなければなりません。
そのような勝利は、歴史的な勝利であると同時に、
創造理想の勝利です。
信念に燃える勝利的な心がなければなりません。
どんな試練でも、勝ち抜くまでは
勝利の月桂冠をかぶることはできないのです。
天聖経「勝利者になる道」より
☆
奪っていくことはできない」
という自信を持って進まなければなりません。
自信のない勝利は、偶然の勝利です。
そのような勝利ではなく、
自信のある絶対的な勝利をしなければなりません。
そのような勝利は、歴史的な勝利であると同時に、
創造理想の勝利です。
信念に燃える勝利的な心がなければなりません。
どんな試練でも、勝ち抜くまでは
勝利の月桂冠をかぶることはできないのです。
天聖経「勝利者になる道」より
☆
誰もが勝利したいと願うのですが、
それを邪魔するものがあります。
それは、サタンでしょうか、それとも──
教会長が以前語られたみ言を
少しアレンジして紹介します。
☆
勝利者になろうとする者にぶつかってくるあらゆる環境条件は、
協助する環境ではなく、反対する環境です。
そのような時、その環境に耐えられなければならず、
心だけは、信じて頼ることができるようにならなければなりません。
この心は、歴史的な血と涙と汗がまだらに染まって
私たちにまで連結されてきます。
ですから、どんな困難にも、心だけは動かず、変わってはいけません。
私たちは基元節を通して
神様の息子・娘になりました。
過去の私ではないのです。
生まれ変わったという自覚を持たなければなりません。
「私は〇〇の子供です」 そう言っても
〇〇さんが、「あなたは私の子ではない」
そう言ったら子供になることは出来ないのです。
基元節を起点として、神様が私のことを
「私の息子・娘だ」
そのように言ってくださっています。
いつまでも過去の親を懐かしがっているのでしょうか?
悪いクセにとどまっていてはいないのです。
先日、ある既成家庭のご夫婦が来られました。
お子さんを伝道し、祝福に導き、子女も授かって
幸せな家庭を築いてきましたが、
あることがきっかけとなって、
だんだん教会から遠ざかるようになりました。
この前、訪問したとき、
「今度、家に来たら、教会の話を一切しないでくれ」
そのように言われたそうです。
それは親として、どれほど胸痛いことでしょうか。
しかし、そのご夫婦は
お子さんたちを責めずに
「自分たちが問題だ・・・」
そのようにして、必死に精誠の条件を立てています。
それは、天から見たらどうでしょうか。
何か、役事が起こらないでしょうか。
起こるに違いないのです。
厳しい状況ではありますが、
それでも乗り越えようとする姿に
私たちも悟らないといけないと思います。
訓読したお父様のみ言(上記)の如く、
「どこの誰も、勝利したいと思う心情を奪っていくことはできない」のです。
勝利することのみを見つめながら、
あきらめることなく、
前進する姿を相続していきたいと思います。
私たちは勝利者にならないといけないのです。
それはなぜかといえば、
神様の息子・娘だからなのです。
『自信のある絶対的な勝利』
それは、『私の勝利』という傲慢な姿ではなく、
まさに、『神様の息子・娘としての勝利』なのです。
☆
私たちは、偶然に、運よく勝利したいのではなく、
自信のある勝利をしていきたいですね。
自分でやるなら傲慢になってしまいますが、
神様と父母様の子女だから、絶対に勝利できると信じ、
あきらめないで愛していきたいと思うのです。
そして、神と父母ゆえに、誇りをもって、勝利していきます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)