2014年11月18日

日本と韓国はこんなに違う! だから一つになれる?!



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神様はなぜ、私たちに
兄弟を下さったのでしょうか。
世界がすべて自分の国、
兄弟は全世界の人類を象徴します。




かつて「近くて遠い国」と言われた、お隣の国、韓国。
その言葉は、「近くて近い国」
という表現に変わった気もしますが、
最近は、お互いの関係においては、
ヘイトスピーチなどを中心として、
「近くて、さらに遠い国」
そのように認識する人もおられるのではないかと思います。

今、韓国に在住している日本人で最も多いのが、
まさに、私たち統一教会の信仰を持ち、
韓日・日韓の祝福を受けているメンバーたちです。

彼らも信仰は持っていたとしても
簡単に、韓国になじんで生活していったわけではありません。
配偶者やその親族、さらには地域の人たちと一つになるというのは、
相当大変なことがあったと思います。
また、現在進行形で奮闘されている方たちもおられることでしょう。

韓国の女性と3万双の祝福を受け、
日本と韓国の架け橋になりたいとして、
日本の文化と韓国の文化を徹底的に研究し、
韓国の本部にスタッフとして在籍しておられる方が、
先日、日本と韓国の違いについて、講演をされました。

教会長がその映像を視聴し、解説してくださったので、
少しアレンジして紹介したいと思います。


日本と韓国の違いは大きく分けると三つになりますが、
今回は、二つ紹介します。

まず一つ目は、規範文化の違い、すなわちベースの違いです。
日本は、「社会」を大事にします。
社会で「人に迷惑をかけないように」教育します。
『道徳』『ルール』『マナー』
こういうことをとても重んじます。

しかし、韓国は「家庭」を大事にする文化です。
特に縦の関係を重要視します。
『孝道』という言葉があるように、
目上の人をとても尊ぶ民族です。
親・先祖を敬い、大切に思う民族です。
先祖の先祖、それが神様です。
神様のことを『ハナニム』(一なる)、と呼び、
敬礼も큰절(クンジョル)と言って、
親や先祖(お墓)に必ずする風習があります。
神様や真の父母様に敬礼することに対しても
日本の私たちから見ると、何か仰々しい感じがしますが、
韓国の人たちにとっては当たり前のことです。

ちなみに、日本では、5月5日がこどもの日、
韓国でも5月5日が子供の日です。
さらに、5月第二日曜日は、日本では『母の日』ですが、
韓国では、5月8日に『父母の日』を祝います。
ちなみに、5月の連休は日本では『ゴールデンウィーク』ですが、
韓国では『孝道休日』と呼ぶそうです。

日本でも家庭を重んじていないわけではありませんが、
韓国では、社会よりも家庭に重要性をおいている一つの表現としては、
同姓の友達と手をつなぐ風習があることがあると思います。
女性同士、男性同士でもつないだりします。
しかも、同性愛者ではなく、親友同士で行ないます。
日本では、やはり世間体というか、周りの目を気にしてしまうのではないでしょうか。

また、食事をしていても、例えば、鍋料理など、家族でなくても、
一つの鍋をみんなでつつきあうのが当たり前です。
これも日本ではちょっと理解できないことかも知れません。


二番目の違い、これは『格位』の違いです。
日本は真のお父様が『母の国』というように、
どちらかといえば、女性的であり、
対象的であり、受身的な国であると言えるでしょう。
そして、韓国は男性的、主体的、能動的なのです。

一つには、言葉に現れます。
日本語と韓国語において、顕著に現れます。
日本は、受身の言葉が多いのです。

食事をする時の挨拶は、何でしょうか。
「いただきます!」です。
これは「もらう」の謙譲語である「いただく」という言葉です。
ご馳走を頂くという「対象」になって表現します。
食べ終われば「ご馳走様でした」と挨拶します。
これも「対象」に立って相手にいう言葉です。

ところが韓国語では何と表現しますか?
そうです。
ご飯を食べるときに、「チャール、モッケスムニダ」、と言います。
意味は、「良く食べます」です。
さらには、食べ終わった時には「チャール、モゴッスムニダ」
つまりは、「良く食べました」、となるのです。
相手がどうのこうのではなく、私が食べた、食べ終わった、
すなわち、「主体」に立って表現する言葉なのです。

このように、日本語は対象的な表現が多いことが特徴です。
「愛される」「笑われる」「殺される」というように、
「〜される」という言葉が多くありますが、
韓国語ではそのような意味を一言で表現する言葉がありません。

日本では、言葉が対象的なので、行動するときも相手はどう考えているのか、
どうしたら喜んでもらえるか・・・・と相手を中心にして、
自分が対象になって考える傾向があるのです。
一方、主体的な表現の多い韓国語を使う韓国人は、
発想が主体的になり、私があなたにしてあげたい、
私が喜ばせたいというように、主体的に行動します。

さきほどの『父母の日』ですが、
子供たちは親に対して感謝する言葉が違います。
日本では、お父さん、お母さんに
感謝する時にどんな表現をするでしょうか。
そうです。
「ありがとうございます」ですね。
ところが韓国では、そういう言葉ももちろん使いますが、
別の言葉をたくさん使います。
それが、「アボジ、オモニ、サランヘヨ!」
「お父さん、お母さん、愛してます!」なのです。


少し極端な表現もあると思いますが、
あたっているところも多いのではないでしょうか。

まさに、日本は対象になって主体に「美」をお返しする文化があり、
韓国は主体になって「愛」を表現する文化があるということです。

このように、男性と女性の性質が正反対であるように、
韓国と日本もそのように対称的な関係だと見ることができます。
そして、夫婦が一つになればなるほど家族が幸せになるように、
韓国と日本が父母として一つになれば、
世界を一つにする文化をつくりだすことができるのではないでしょうか。

来年は国交樹立50周年です。
真のお父様は、韓国が父の国、日本が母の国、
そのように表現してくださっています。
日本と韓国の関係が、そのように
父母として一つになれることを心から祈りたいです。



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posted by ten1ko2 at 17:56 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月17日

(証し) 私の心の玄関が閉まっていた?! 「為に生きる」を実践、家庭書写会は素晴らしい!



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幸福は、
人のために生きる人生の中にあります




先日、「幸福を引き寄せる
文鮮明先生自叙伝書写奉納式」を行いました。

浅川先生は全国を駆け巡っておられるので、
私たちの教会では、いつもDVDを使って講演会をしています。

今日は、浅川先生が語られた内容を含めて、
感じたことをまとめていきたいと思います。
講演会の内容はとても濃いものですが、
歌手「三波春夫」を例題にあげて、
ために生きる喜びの世界を語られている内容、
そして「証し」の部分を紹介します。



「幸福は、人のために生きる人生の中にあります」

真のお父様の生涯はまさに
「ために生きる」人生であると結論づけることができます。

幸せというのは、人の喜びのためにある
すなわち人を幸せにする時に本当の喜びを感じます。

三波春夫という歌手がおられます。
彼は浪曲師として歌手デビューをしました。
そのあと、戦争に出兵するのですが、
終戦後、シベリアに捕虜として、4年間抑留生活をします。
この時、本当に悲惨な生活をしました。
極寒の地であったので、凍死した仲間が何人もいました。
そんな中、歌を通して人を喜ばせることを学びました。

日本に戻り、もう一度浪曲家として舞台に立ちます。
しかし、泣かず飛ばずだったといいます。
浪曲風の歌に人は来なかったのです。

しかし、そんな中で、ある人が自分の歌を熱心に聴いてくれ、
感動してくれました。
そして、彼自身も感動したのでした。

その後、歌謡曲の歌手、三波春夫としてデビューし、
生まれた言葉が「お客様は神様です」でした。

「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、
雑念を払って、心をまっさらにしなければ完璧な藝をお見せすることはできないのです。
ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。
また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。
だからお客様は絶対者、神様なのです」




私たちは、人を喜ばせる人生、
ために生きる人生が人生の目的であると知っています。

ある婦人の証しです。


我が家で家庭書写会を始めて、15回くらいになりますが、
実は一度も、書写会員以外の方をお招きしたことはありません。

何故って・・・人を招くのは、面倒くさいからです。
だって、人を招くには、家を掃除しなければならないでしょう。
お料理も面倒ですし。
簡単に言えば、私はずぼらでした。

私は昔から、外に働きに行く方が好きで、家の家事は正直、嫌いでした。
今思えば、3年前に亡くなった主人には本当に申し訳なかったなと思います。
当然、私の人生は、家と職場の往復だけで、
近所の人には、ほとんど関心がなく、お付き合いもしてきませんでした。

でも心の中では、「いつか、この書写の素晴らしさ、書写会の素晴らしさをみんなに伝えたい」
「みんながこの素晴らしさを知って、幸せになって欲しい」と思っていました。
書写も「どうか、多くの方が書写を通して、書写会を通して幸せになって欲しい」
と願って書いていました。
そして口では、家に来て下さっていた書写会員の皆様には、
多くの方にこの書写会の素晴らしさを味わって欲しいねと言っていましたが、
心では『本当に、うちに、いつもの書写会員の以外の新しい方が来たらどうしよう』
と正直思っていました。

ある時、書写をして、瞑想をしていると気づきがありました。
「私の心の玄関が閉まっている・・・・・・」
それは、神様の声だったと思います。

口では、我が家に来て下さった書写会員の皆様に、
「どうぞ新しい方も連れてきてください!
書写会の時は、家の玄関をいつでも開けていますから」
と言いながら、言っている私の心の玄関が、
「掃除」「料理」「面倒くさい」という、
いくつもの鍵で閉まっていることに気づいたのです。

実は、息子は結婚して家を出て、夫も3年前に亡くし、
今、娘と2人になったこの家で、寂しくなった私の心を
誰にも言ったことはなかったのですが、神様がよく御存じで、
家庭書写会によって、また、私に
たくさんの家族を与えてくださろうとする暖かい愛の親心を感じました。

「心を開きなさい!!」
そんな神様の言葉が聞こえてきました。
神様はたくさんの方に、この書写会の素晴らしさを広めたいと思っている以上に、
私に、この書写会によって幸せになって欲しいと思われているのだと瞑想で感じました。

その瞬間、私の心の『まなこ』が開かれました。
目が開けたんです!

掃除、料理、面倒という錠がぱらぱらと崩れていくのがわかりました。
私の心の玄関が開いたのです。

・大掃除をしました。人様にせめて、畳を踏んでいただくために。
・料理も勉強しました。何年ぶりでしょう。嫁入り修行以来でしょうか!
せめて、人様が食べられるものをつくるために!

ずぼらな私のはずが、とっても嬉しく掃除と料理をしているのです。
鼻歌を歌いながら・・・。
これって私の中の奇跡なんです。

するとどうでしょう!
一人の会員の方が、次の家庭書写会に新しい方Hさんを連れて行きたいと言って下さいました。
驚きと、大変な喜びがありました。

そして、そのHさんが来られ、あなたの料理は本当にうまい!!うまい!!と言って、
次の月の書写会にもまた来てくれたんです。

そして、そのHさんは私に、ご主人様から、掃除や、洗濯など、
家事について厳しいことを言われるんだと、悩みを打ち明けてくれました。

Hさんに、実は私も今まで家事に対しては相当『ずぼら』で、
逆に、亡き主人は几帳面で、きれい好きだったので、
私も、主人には、家事の事で厳しいことを言われ続けたことを話しました。
新婚当初から夫に「デブ、ブス、バカ」と言われ続けてきました。
耐えられなくなって実家の母に泣きついたこともありました。
その時、母に、『あなたに「デブ、ブス、バカ」と言うのは、
夫が、あなたを愛しているからなんだよ。
あんたが、かわいいから、「かわいい」と言えなくてそう言うんだよ』
と言われたことを思い出して、
Hさんに同じことを言ってあげたら、
初めて私の悩みをわかってくれる方に出会えたと大喜びをしてくださり、
また来たいと言ってくれました。

私もHさんとの出会いで、また家族が増えたというすごくうれしい気持ちになりました。
本当に家庭書写会っていいですね。
もっともっと家族を増やしたいです!!
ありがとうございました。



本当に人の幸せのために生きる人生
それを教えてくださった真のお父様を相続して
歩んでいきたいと思います。


お父様のみ言


幸福は、必ず相対的な関係においてのみ成立します。 

生涯を声楽家として生きてきた人が、無人島に行って、
声が嗅れるほど歌を歌ったとしても、
聞いてくれる人がいなければ、幸福になることはできません。

私がある相対のために存在しているという事実を悟ることは、
人生の尺度を変えるような一大事です。
私の人生が、私だけのものではなく、
かのためのものであるとすれば、
今までの生き方とは全く違う道を行かなければなりません。  

幸福は、人のために生きる人生の中にあります。
自分のために歌を歌ってみても、
全然幸福ではないように、
自分のためのことには喜びがありません。

いくら小さくて、取るに足らないことでも、相手のために、
人のためにするとき、幸福を感じるのです。

幸福は、「為に生きる」人生を
生きる時にこそ、発見できるのです。



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2014年11月16日

(証し)真の御父母様に花束を?! 



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皆さんに真の愛の香りがあれば
付いてくるなと言っても
多くの人がついてきます。
真の愛で愛すれば
本心が惹かれるように
なっているのです。




お父様が聖和されてから久しくなり、
ご父母様との直接的な体験は、
とても得がたい貴重な宝となりました。
私たちが証しが好きなのは、
どのようなエピソードにも、ご父母様の
親としての愛が感じられるからだと思います。
お父様、お母様のエピソードは
いくら聞いても、飽きることがありません。

先日、韓日家庭のご主人から聞いた証しを紹介します。


ご夫婦は韓国で活動されていたとき、
ご主人はある教会の教会長でした。
ご夫婦でものすごく熱心に伝道をされ
ある祝福式のとき、伝道した数が、韓国全土で1位になり、
表彰されたことがあるほどです。

そんなことがあってか、1999年のある日
真の父母様の勝利帰国歓迎大会が挙行されるのですが、
ご夫婦が真の父母様に歓迎の花束をお渡しする
そんな記念すべき大役を与えられました。

当時の韓国会長から使命を仰せつかったのは
ちょうど1週間前のことでした。
ご夫婦は緊張し、また興奮しながら、
内外の準備をしていきました。
ご主人は床屋に行き、
奥様は韓服(チマチョゴリ)を購入されて、
当日に備えました。
カメラマンも教会から連れてきて、
しっかり撮影するようにスタンバイしていました。

そして、大会が始まりました。
真のお父様はこの日が来たことに
心から喜んでおられるご様子で、
興奮されてみ言を語っていかれました。

ご夫婦が花束贈呈をするのは、
み言を語られたあとになっていました。
ところがみ言がなかなか終わりません。
夕方に始まった集会ですが、
もう夜の10時を過ぎていました。

ご夫婦は花束を持ち、舞台の袖でずっと待っていました。
「このまま終わってしまうかも知れないな」
そう思っていたら、本当に終わってしまったのです。

お父様がみ言を語られた後に、
「じゃあ終わろう」ということで、
花束贈呈をカットして、万歳三唱になってしまい、
そして、閉会になってしまいました。

ご夫婦の心はどうだったでしょうか。
「大役を仰せつかったけれど、仕方がない。
今回は、自分たちは恩恵を受ける機会ではなかったんだ」
そう自分自身に言い聞かせても
やっぱり寂しい思いが湧いてきてしまいました。

すると突然、お父様が
「ん?何か忘れたような気がするな。
何だろう・・・」
そう語られたのです。

会長がすかさず
「お父様、花束贈呈をお願いします」
そう話されると
「ああ、そうだった」
そして、ご夫婦が花束を渡すことになりました。

ご夫婦とも、地獄から天国に登った気分です。
本当に忘れることの出来ない花束贈呈になりました。



ご父母様は、やはり人の情を敏感に
感じ取られるのではないでしょうか。
この御夫婦にとって忘れられない宝物のような思い出です。
そして、それはご父母様にとっても、きっと
貴重な思い出となっているのではないでしょうか。

ご父母様に愛をお返しできる
そんな者になりたい、お母様の地上におられる
このまたとない時に、忘れられない思い出を作る
チャンスを与えられている私たちである、と思うのです。


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