2014年11月26日

お父様の初公判! 法廷で祈る食口たち、罵る元信徒、嘲る人たち…?! 〈草創期の教会〉



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統一教会の草創期の内容を
「受難と源流」から紹介していますが、
意外と好評です。

今回は、『第四号法廷での初公判』を紹介します。

お父様が7月4日に拘束され、
4人の弟子と共に西大門刑務所に収監されますが、
その初公判の模様です。
写真はその時の様子です。



1955年9月20日、ソウル地方法院の第四号法廷で初公判が行われた。
そのため、文師一行は西大門刑務所から朝早くバスに乗って
地方裁判所にやってきた。
裁判がいつ始まるか分からないため、
鳩小屋といわれる狭い部屋で待機していなければならなかった。

文師が裁判所の法廷と控室を行き来するとき、
統一教会の信者たちは通路の両側に立ち、
敬虔かつ沈痛な面持ちで頭(こうべ)を垂れた。

それを見ていた靴磨きの少年は、
「たぶんどこかの国王が捕まって来たのだろう」
と語り、このような待遇を受けることができるなら、
その少年も囚人になってみたいとも言ったといわれる。

公判中、この事件を担当した金思萬(キム シマン)弁護士は、
終始一貫して文師と劉孝元氏を「文先生」、「劉先生」という敬称で呼んだ。
同弁護士の弁論は、論調が整然として表現が絶妙であった。
彼の答弁の一部をここで簡単に紹介しよう。

「本弁護人の見るところ、文先生はとても純真でいらっしゃいます。
初めからある米国の青年でも一人連れて、
『この人がこのような偉大な原理を発見した』
と言っていたら何事もなかったでしょう。
それをありのまま『私が原理を解明した』と言ったのです。
国産品であれば軽視し排斥する社会風土の中で、
どうして反対されずに順調に大きくなっていけるのでしょうか?」

時には、ある弁護士の弁論があまりにも現実味に欠けていたことがあった。
それを聞いていた劉孝元氏は、被告席でいらだちを抑えることができず、
弁護士に注文をつけようとした。
それを見た文師は、すぐに劉孝元氏の行為を思いとどまらせた。

法廷に入ることのできた信徒たちは、一部始終を聞きながら手を握り合って祈った。

9月21日付の「ソウル新聞」は、「女信徒たち法廷で祈祷」の小見出しで、
統一教会事件の初公判を伝えている。

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文師とともに被告として法廷に立った金元弼氏は、
「このときの文師の威容と固い信念にあふれた答弁が忘れられない」と語る。

この日の午後、再び開かれた公判で検事は次のように求刑した。
▼文鮮明 懲役二年
▼劉孝元 懲役二年
▼劉孝永 懲役一年六月
▼劉孝敏 懲役一年六月
▼金元弼 懲役一年六月

公判が終わった夕方、(文師一行は)再び護送車に乗り込んだ。
そのとき、文師はそこに来た教会員一人ひとりを見詰めていた。
車が動き始めると、信徒たちは泣き崩れた。
文師は翌日、面会に来た教会員に、昨日、顔を見せなかった信徒の安否を気遣った。

この公判の日、文師にとって生涯忘れることのできない出来事があった。
それはある婦人が、手錠をはめられた文師に近づいて、次のようにののしったのである。

「文さん、まだそんなことをしているの? まだ気がつかないの?」
このように嘲笑したのは、1940年代後半に
文師が平壌で伝道活動をしていたときに、同師に従ってきた女性だった。
この女性は、かつて文師が平壌で収監されたとき
「神の息子であり、神があなたを愛しているならば、なぜ監獄に入るのか?」
と言って、文師に不信を抱いた人物である。

公判の日、文師をののしった婦人の近くにいた朴奉愛(パク ポウエェ)女史は、
嘲笑したその女性の声を忘れることができなかったという。
彼女はその女性の言行に対して悔しく、
わき上がる憤りの心を抑えることができなかった。

文師にとって、生死をさまようような拷問も耐え難いことではあったが、
かつて共に神の道を歩んだ人から嘲笑・罵倒されることのほうが、
もっと耐え難くつらかったに違いない。



お父様は結局、次の月の10月4日に
無罪釈放されます。
拘束された時、また初公判の時は
あんなに書きたてた新聞は、
無罪については、ほんの小さな記事を掲載しただけでした。

皆様もご存知の聖歌13番『苦難と生命』は
この当時の様子を劉孝元先生が作詞されたものです。
(ただ、お父様を罵った婦人のことは、特別書かれてはいません。
「ののしるユダ人」とはありますが。)

昔ともに歩んだ人からの中傷・罵倒は
目撃した食口にも忘れられない内容でしたが、
神様もお父様も心を痛められたことでしょう。
後に、お父様がその女性に対して言及されたことがあったと
記憶しています。(そのみ言は探せなかったのですが)
その人のことも許し哀れんでおられました。

また、お父様は、自分が大変な立場でありながら、
それでも食口を心配されています。
これがまさに親の姿ではないでしょうか。

先生と弟子の関係ではなく、
愛する子供のことを心配する父ならば、
自分がこれから服役する立場にあることなど関係なく、
食口の行く末を心配され、声をかけられるのではないでしょうか。

そんなお父様が霊界で
私たちの姿を見つめておられることに感謝して、
さらにみ旨に励んでいきたいと思います。


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