「受難の源流」
今日は、黄煥ァ(ファンファンチェ)先生の証しです。
黄先生は、ずいぶん前に、日本の総会長をされたこともありましたが、
私もあまり縁がなく、また日本におられたのも
短かったこともあり、どんな風に導かれたのか、知りませんでした。
「教祖に一喝された男子学生」というタイトルで紹介します。
☆
梨花女子大学校の教授が統一教会に通い始めたころ、
延禧大学校(現、延世大学校)の学生が「統一原理」を学んでいた。
三年生の黄煥ァ氏である。
黄煥ァ氏が統一教会を初めて訪ねたのは、1954年10月29日。
韓忠ファ助教授が統一教会に来た11日後のことであり、
金永雲副教授が同教会に入信する2ヵ月ほど前のことである。
なお、延禧大学校の朴商來教授が、統一教会の信仰を持ったことが原因で
免職になったのは、1955年3月初旬のことであった。
☆
黄煥ァ氏は幼い時に洗礼を受け、
小学校の時からキリスト教徒として信仰生活を送ってきた。
彼を統一教会に導いたのは、黄煥ァ氏と同じメソジスト教会に通っていた
学友の柳景圭(ユ ギョンギュ)氏である。
ある日、学内で柳景圭氏は黄煥ァ氏に語りかけた。
「君は近ごろ信仰生活に喜びがある? 満足している?」
この何気ない問いかけが、黄煥ァ氏の心をとらえた。
彼は自分の信仰生活に、行き詰まりを感じていたのである。
黄煥ァ氏が、今まで聖書の分からないところを牧師に質問すると、
回答はいつも同じだった。
「聖書は理論的に納得するものではない。信仰は信じていくものだ」
信仰生活に満足していなかった黄煥ァ氏は、
ある日、大学の授業を抜け出して柳景圭氏が案内する教会に向かった。
黄煥ァ氏が統一教会に行った理由は、聖書の理論的説明を聞いてみたかったからだ。
さらに、もう一つの理由があった。
遊び好きの柳景圭氏が急にまじめになり、
別人のようになったのを目撃していたからである。
☆
黄煥ァ氏が訪ねたときの統一教会は、
創立当時の場所(ソウル市城東区北鶴洞)にあった。
みすぼらしい建物に黄煥ァ氏は驚いた。
黄煥ァ氏に「統一原理」を講義したのは、劉孝元氏である。
午前十時から夕方まで、教会の理念を学んだ。
黄煥ァ氏は、講義の内容が理論的に展開されているのに感動を覚えた。
☆
講義が終わって黄煥ァ氏がその部屋から出ようとすると、
講義をした劉孝元氏は出口の方に行って、
六、七人の男女が座っている方に向かい、黄氏について報告を始めた。
そのときその部屋で、名勝地や有名な俳優の写真を
ハサミで切る仕事をしていたある若い青年が、
黄煥ァ氏に顔も向けずに口を開いた。
「学生はまじめに学校で勉強でもしているべきなのに、
何のためにこのようなところにやってきたのか」
それは、吐き捨てるような言葉だった。
それを聞いた劉孝元氏は恐縮したようすで、
黄煥ァ氏に代わってそのジャンパーを着ている青年に対し、丁重に次のように語った。
「この学生は、よく講義を聞いていました。
延禧大学数学科三学年に在学中の優秀な学生です」
初めて教会を訪ねた黄煥ァ氏は、青年の言葉に不愉快な心情を一瞬感じたが、
にっこりと笑った。
この出来事を試練として受け止めたのである。
黄煥ァ氏を見詰めたその青年は、黄氏がほほえみを浮かべたのを見て
それ以上何も言わなかった。
そのジャンパー姿の青年こそ、文鮮明師(当時34歳)であった。
☆
初対面の真のお父様に一喝された黄先生。
このとき、「試練として受け止めた」
というのが本当に素晴らしいと思います。
常識的に考えて、躓いていたなら、
もしかしたら、お父様の元に来なかったかも知れません。
やはり、真の父母に出会うというのは、
簡単なことではないし、
ある条件が必要なのだと感じます。
また、みすぼらしい建物が教会だった・・・
これも昔ならではのことかも知れません。
しかし、黄先生ご自身が、真理を求めていたし、
さらに、聞いたみ言が素晴らしかったので、
外的なことに躓かなかったのだと思います。
黄煥ァ先生の証し、明日も続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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