2015年01月31日

日本で初めての聖地を、明治神宮とされたのは?! 《お父様日本訪問50周年》



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何千何万何億の人に自分が責任をもち、
天下を踏みしめる以上の心情をもって
日本を愛するという男が現れるなら、
愛するその心は歴史的であり、世界的であり、
天宙的であるという自信をもってください。
そのような人は神様を占領します




真のお父様が、日本訪問されてから
50周年を迎えたということですが、
1月28日から2月12日までのその期間、
どのような歩みをされたのでしょうか。

Peace TVにその一部がまとめられています。



真の父母様、日本訪問50周年

1965年1月28日、第1次世界巡回路程の
最初の訪問国として日本を訪問された。
1958年、崔奉春先生の日本宣教出発から7年後である。

真の父母様は、東京、名古屋、大阪、高松、
広島、福岡、札幌、仙台の8カ所に聖地を決定された。

日本巡回最終日の歓送会で、
「何千何万何億の人に自分が責任をもち、
天下を踏みしめる以上の心情をもって
日本を愛するという男が現れるなら、
愛するその心は歴史的であり、世界的であり、
天宙的であるという自信をもってください。
そのような人は神様を占領します」
と語られ激励された。

今年は、真の父母様の日本訪問50周年を迎える年である。



お父様が日本を巡回されたのは、
日本の食口たちと会いたい心情を持っておられたのと同時に、
聖地を決定されるためでもありました。

世界120箇所、最初の聖地を日本8箇所に
定めてくださったのは、本当に感謝です。

最初に日本で聖地を決められたのは、
明治神宮の地であり、そこは普段入ることができないので、
代々木公園の一角に聖地を変更したのは、
皆様もご存知かと思います。

お父様がなぜ、明治神宮にされたのか、
詳しいみ言は調べることができませんでしたが、
かつて、松本ママが最初の40日開拓伝道をしたのが、
まさに明治神宮外苑でした。

証しを紹介します。




明治神宮外苑での四十日間伝道


その当時(1960年)、韓国のソウルでは、
パゴダ(現、タプコル)公園で黒板講義をしていました。
その話を聞いて、「私も黒板講義をします。」と言うと、
それを正に待ち望んでいたかのように、崔宣教師(西川先生)は喜ばれました。

それで、崔宣教師が、小さな黒板を買ってくださり、
講義する場所を選んでくれました。
そこが、日本の中心聖地として、真のお父様が
最初に定めてくださった明治神宮の外苑でした。

そこには、とても大きな庭があるのですが、
夏には、多くの若い男女のアベックが集まりました。
そのときまで私は、伝道師になるということは、
本当に考えることもできず、また、路傍伝道をするなどとは
思いも寄りませんでした。
しかし、原理のみ言を聞くと、もうこれ以上、
じっとしていることができなくなりました。

私がうれしかったことは、韓国に主が来られたということでした。
電車に乗って、どこかに行くときも、
電車が速く進んでいるにもかかわらず、
心が急ぐので、電車が進んでいないような感じがしたのでした。

そのとき、私は、子供たちと兄、そして既成教会から反対されました。
また、そのころ、病院からは「六か月間、安静にしていなければならない。」
と言われましたが、“六か月後に死んでもよい。”という覚悟で伝道したのです。

私は、肺病にかかって、熱が上がったり下がったりするような中でも伝道したので、
特に兄とは、いすを持って争うこともあり、
薬をすべて投げ捨てたこともありました。

そのようにしても、本当に伝道することができなければ、
「神様。私を深い地獄に再び送ってください。」と祈りながら、家を出ました。

迫害が加えられれば加えられるほど、より一層、
崔宣教師が、私の心を奮い立たせてくれました。
後で知ったことですが、崔宣教師は、私がみ旨の道から離れないように、
背後で必死の努力をしたということです。

私は、崔宣教師が決めてくれた明治神宮外苑で、
1960年8月16日から開拓伝道を始めました。
その期間は、ちょうど四十日間でした。

崔宣教師は、朝、仕事をしてから、午後にはいつも来て、
木の陰に隠れて祈祷し、私がするのを見守ったりもしました。
それも、後で聞いて知ったことです。
それで、四十日間で多くの人を紹介して、崔宣教師に会わせたのですが、
実を結ぶことはありませんでした。

崔宣教師は、「この四十日伝道は、モーセがシナイ山に行って、
四十日断食をするのと同じなので、絶対に変わってはいけない。」
と言いました。
それで私は、「変われば殺してほしい。」と祈祷しながら、
その伝道期間を終えたのです。

開拓伝道.jpg

(証言:成和出版社より)



崔宣教師(西川先生)が最初に礼拝を捧げたのが、
お父様が早稲田の学生時代に下宿されていた
早稲田・高田馬場の地でありました。

そして、お父様の日本訪問の5年前、
松本ママが最初に40日開拓伝道をしたのが、
お父様が聖地を最初に定められた
明治神宮の地でありました。

偶然とはいえないような、奥妙なる
天の摂理を感じます。

松本ママは、この時には、
伝道の実りはなかったそうですが、
このあとにお茶の水の学生会館で
桜井婦人(旧姓:小河原さん)を伝道され、
そのあと、中央大学で、小室先生、
澤浦先生を伝道していかれました。
そして、日本の祖とも言ってもいいくらい
多くの人を伝道されました。

それにしても、伝道師の中の伝道師というべき松本ママが
「伝道師になるということは、
本当に考えることもできず、また、路傍伝道をするなどとは
思いも寄りませんでした」
と、言われているのは、思いもかけない言葉であり、
今の私たちにも励ましの言葉であると感じます。

天の事情、心情を知り、
真の父母様を知った立場の私であり、
父母様と親子の因縁を結ばせていただいた者なので、
本心においては、「伝道したい」
そのような思いを祝福家庭であれば、みなが持っていると思います。
そんな思いを先立てながら、歩んでいきたいと思います。


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2015年01月30日

お父様は、この日を待っていた! 《50年前のご来日エピソード》



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「自分はこのために生まれてきた
と思って取り組みなさい」
と、お父様は言われますが、
お父様の生活は正にそのような生活でした。
いつも真剣、いつも命懸けのお父様です。



昨日掲載した、『先駆者たちの証言』石井夫人の証し。
皆様にもっと紹介したいと思わされたので、一部、掲載いたします。




「統一教会草創期の思い出」
石井トミ子


お父様が日本に初めて来られたのは、1965年1月28日です。
このとき、初めてお父様にお会いしたのですが、その少し前、
李貞玉先生を通してお父様からお手紙をいただきました。

その手紙には、「父母の心情、僕の体となって多くの人を育ててください」
と書かれてありました。

この言葉は、幼い私にはあまりにも高度な内容でした。
しかし、幼い者に期待してくださるお父様の心遣いを感じ、
とてもうれしく思ったのです。


お父様のご来日の主な目的は、聖地を決定するためでした。
世界120ヵ所の聖地を決める一番最初が日本だったのです。

名古屋には、開通して間もない新幹線で向かいました。
新幹線に乗られたのは、お父様、崔元福先生、
西川先生と久保木先生、それにわたしでした。

わたしは、お父様とは通路を隔てた反対側に座りました。
そして、食事を取るときのことです。
お父様は「トミちゃん、ちょっと食べる?」と言われ、
お弁当をわたしに下さるのです。

普通でしたらおそれ多くて、「結構です」となるはずですが、
「いただきます」と言って受け取りました。
そのときは、お父様とわたしたちは親子の関係であると思って、
素直にいただいたのです。

するとお父様は、「トミちゃんのもちょうだい」と言われました。
食べ始めたお弁当から、お父様に何か差し上げることなど
できることではなかったのですが、
わたしの弁当をお父様に差し出しました。
すると、お父様はそこから何か一つを取られたのです。

お父様は、なぜそのようなことをされたか、真意はよく分かりませんが、
緊張しているわたしの心を解きほぐす目的もあったのではないかと思います。


お父様に対する第一印象は、外的にはプロレスラーの力道山のように見えました。
また、自分では推し量ることのできないほどスケールの大きなかたであると感じたのです。

幼いころ、父に連れられて初めて海を見たとき、
故郷に流れる新潟の信濃川からは想像もできない広さだったことと同じでした。

当時、わたしたちは西川先生を「パパ」と呼んでいました。
ところが、お父様にお会いすると西川先生がとても小さく感じられ、
父親というよりも兄のように思えたのです。
霊的にそのように見えたのかもしれません。

お父様の額による三本のしわを見て、次のように思いました。
「普通であれば自分か自分の家庭のために苦労してできるしわなのに、
このかたは人類のために苦労されて深いしわをつくられたのだ」

わたしはお父様の接待をしていたので、近くでお父様を拝見する機会がありました。
お父様の唇も口元もとても荒れておられたのです。
日本に来られる前、韓国を巡回されながらみ言を語り続けて来られたことを後で知りました。

 
また、普段、拝見することのできないお父様の一面をかいま見ることがありました。

テーブルの上を片づけるためにお父様が休んでおられる部屋に入ったときのことです。

お父様のいびきが聞こえてきました。
テーブルとお父様が休まれているベッドの間には、ついたてがあったのですが、
ベッドの方を見るとお父様の寝ておられる姿が目に入ったのです。

そのときのお父様の姿を見て驚きました。
英語の本を手に持たれ、その持っておられる左の腕を上げたまま、
いびきをかいて寝ておられたのです。

普通であれば、本を持った腕が下に下がるはずであり、
またそうでなければ、本の重みで指の間から本は落ちるはずです。
お父様のみ旨に対する執念の一端を、かいま見た思いでした。

「先生はね、英語のセンスがそんなにいいわけじゃないんだよ。
若い人のようにはできない」

このように言われていたお父様が、英語を一所懸命に勉強しておられたのです。
お父様の近くには、英語の堪能な崔元福先生もおられるので、
英語の勉強など、それほどまでにしなくてもよいのではないかと思うのですが、
お父様はそうではないのです。

「自分はこのために生まれてきたと思って取り組みなさい」
と、お父様は言われますが、お父様の生活は正にそのような生活でした。
いつも真剣、いつも命懸けのお父様です。


お父様が帰国される1965年2月12日、羽田空港に見送りに行きました。
お父様が乗られた飛行機が見えなくなるまで手を振り、祈りをささげました。

するとそのとき、横で美植ママはさめざめと泣いていたのです。
美植ママは、わたしにこのように言われました。

「トミちゃん!  先生は、この日をどれほど待ったかしれないのよ」



英語の本を持つお父様の手に
お父様の凄まじいまでの執念を感じます。

「自分はこのために生まれてきたと思って取り組みなさい」
み言は語られる前にご自分で実践しておられる
真のお父様であり、その姿を
私たちも実践していきたいと思わされています。


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2015年01月29日

「あの草餅の美味しさを忘れられない」 50年前のお父様が、今日本に来られている?!



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先生は「誰よりも日本を愛する条件を立てる」
こんなことを考えたのです。

とても大きな杉の木を抱き締め、
涙を流して泣いたこともあります




昨日は、真の父母様ご来日50周年の記念すべき日でした。
各教会でも特別集会が行われたことと思います。
お父様の当時の映像を通して、
若き、情熱あふれたお父様を見つめる
貴重な時間を与えられました。

昨日、桜井婦人の記事を書きましたが、
群馬では、実際に桜井婦人をお迎えして、
当時の証しを聞く機会を持ったそうです。
やはり、映像や文字よりも、生で聞いた方が、
感動がより伝わるのではないか、と思います。
ちょっと、羨ましい感じです。。。

今日から50年前の1965年1月29日は、
お父様が早稲田の留学生の時下宿された
三橋家を訪問された日です。
その時の様子を、石井トミ子さん(石井光治元会長夫人)が
述懐しておられます。


真のお父様は、到着されたその日私に、
「トミちゃん、先生はね。
日本留学時代に下宿した家に明日行ってきたい」とおっしゃり、
紙に漢字で「三橋」と書かれました。
私が「みはしさんですね」と申し上げると、
「これは、みつはしと読むんだよ」と言われたのです。

真のお父様が下宿された家のおばさん(三橋イトさん)に対しては、
「三橋さんは田舎(栃木県安蘇郡)に帰ると、
美味しい草餅を持ち帰り、
日本人と差別することなくみんなに分けてくれた。
本当に美味しくて忘れられない」
と語られたのです。
その草餅が美味しかったのでしょうが、
それ以上に戦前、朝鮮人に対する差別がとても激しい状況の中で、
日本人と分け隔てなく接してくれたことが、
心に残って忘れることができなかったのではないでしょうか。

翌1月29日に真のお父様ご一行は、
留学時代に下宿された場所(現在は、新宿区西早稲田二丁目)に行かれ、
2時間ほど捜され三橋イトさんに会われました。
その日の夕食は食べて来られる予定でしたが、
久保木修己会長(当時)と途中ではぐれたため、
ご一行は夕食を食べずに本部教会に戻って来られました。
そのときの真のお父様のお顔は、本当ににこにこされていました。

三橋イトさんと会われたとき、真のお父様はドル紙幣を渡されたそうです。
一緒に随行したのは、崔元福先生と崔奉春・申美植先生ご夫妻でした。
申美植先生の話によれば、三橋イトさんは真のお父様が
偉い国会議員にでもなられたような印象を持たれ、
崔元福先生をお父様の奥様のように思われたそうです。


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真のお父様を偲びながら、早稲田・高田馬場に、
「聖所巡礼」と題して、訪問した方も多いと思います。
当時のお父様のご様子をみ言からうかがい知ることができます。



なぜこんなことをやったのか? 
やりたくなければやりません。

先生は「誰よりも日本を愛する条件を立てる」
こんなことを考えたのです。

いろんな所に行きました。

とても大きな杉の木を抱き締め、
涙を流して泣いたこともあります。



早稲田大学の高田の馬場の道を、
日に二度づつ通いました。
よく通ったでしょう。

これを思って「あ、近い所に来たから、
昔を思い出して行って見て、
神に対して祈祷したその祈祷の情が、
現在日本の一角に成就した感謝の祈祷をしに
行きたい」というのです。

先生はこのように考えているのです。
もしも先生がこのようにしないで、そのまま帰ったら、
皆さんがそんな心で早稲田の戸塚町へ、
高田馬場から歩いてくれることを望みます。

そこにある曲がった道、
そこにある電信柱など、
先生の涙が染み込んでいると考えて、間違いありません。

(真の御父母様の生涯路程1 などから抜粋)



「日本への初愛の因縁を忘れることができない」
と語られた真のお父様。

昨日の集会を通して、
「こんな若いお父様が今、地上におられたら、
そんなお父様に喜びをお返ししたい、
そうどれだけ決意して歩めるだろうか・・・」
そんなことも思いましたが、
よくよく考えてみると、
「霊界においては、若いころの姿になる」というのですから、
映像で見たお父様が、その如く、霊界におられるのだ、
そのように思わされました。

私たちが意識すれば、
そんなお父様がともにおられるのだ、
そう思いながら、歩んでいきたいと思います。


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posted by ten1ko2 at 13:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする