「皆さんが殴りたいならば殴ってください」
死を覚悟すればサタンは逃げるのです。
死を覚悟すればサタンは逃げるのです。
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黄煥ァ(ファン ファンチェ)先生が、地区長をしておられたときの証しです。
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1960年、全州教会のときに、40日夏季、冬季開拓伝道が始まりましたが、
夏季開拓伝道の時に面白いエピソードが一つあります。
お父様が地区長たちとそのほか何名かを立たせて、
「開拓伝道をしている人たちの開拓地を巡回しなさい」と命じられ、
40日間の交通費としてお金を三万圜(ファン)下さったのです。
それをもってバスに乗って巡回してもいいのですが、
私は自転車に乗って巡回をしたいと思い、自転車を一台買おうとしました。
ところが、そのお金では買えない金額なのです。
お金はないし、自転車は買わなければなりません。
そこで一計を案じ、小学校の先生をしていた兄に手紙を出しました。
「結婚しますので、結婚費用を七万圜郵送お願いします」と書いたのです。
兄はまだ入会もしていませんでしたが、
両親の亡きあと、父親代わりをしていた兄は、四万圜くらい送ってくれました。
それと交通費とを合わせて、少し高い
日本製の七号の自転車を購入して、それで巡回したのです。
真夏に、オートバイでもなく自転車をこいで、
開拓伝道をする食口たちのところを訪ねていくのですから、
汗でびしょぬれになりました。
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開拓地で食口たちに会うときには、
挨拶もいらないし、説明が必要ないのです。
地区長が現れると、待っていた兄弟は、涙で何も言えないのです。
そういう場面がどこに行ってもありました。
ご父母様は「今回の夏季四十日開拓伝道の期間は、
決して白米を入れてはいけない。純粋な麦飯だけ食べるように」と言われ、
ご父母様も40日間麦飯を召し上がられました。
ですから全国の食口たちも、
開拓に行った人たちも、麦飯だけをとりました。
私が巡回するときには、米や豆など
いろいろなものを粉にしたものを持っていきました。
その粉をミスカルと言いますがそれを水に溶かすと、
そのままそれが簡単な食料になるのです。
出発するときにそれを包んで自転車の後ろにつけていったのです。
開拓地で待つ人にも何も食べるものがありません。
そこで器二つに水をくんでくるように言い、
そこに何さじずつか粉を入れて、溶いて飲みました。
それが一食のご飯に代わったのです。
*
開拓地では、面白い話がたくさんあります。
食口たちは家の中で寝ているわけではありません。
歓迎してくれる所などはないのです。
外で寝るのですが、農村に行くとどこでも、
八角形の屋根をしたチョンヂャ(亭子)という休憩所があります。
農作業をするときに、そこで一休みしてお茶を飲んだり、
食事をしたり、ちょっと横たわって寝たりする所です。
床はありますが戸も何もなく、屋根だけ覆っているというものです。
全羅南道の和順という所に行った時のことです。
私もそこで一緒に寝ました。
蚊が飛んできて刺しますが、しかたありません。
しかし、乗ってきた自転車は七万圜くらいの、
当時としては相当高額の自転車ですから、盗まれては困るのです。
そこで、自転車を柱の横に止めて、帯でくくり、
それを自分のズボンにかけておきました。
そして上着を脱いでその上にかけたのです。
なぜかというと、自転車と自分がつながっていることが
見ても分からないようにするためでした。
そうすれば自転車は自転車なりに、人は人なりに眠っているように見えます。
実際は、誰かが自転車を引っ張っていけば、
自分も引きずられていきますから、盗まれないですむという仕掛けなのです。
自転車を守るために、そのようにした面白い思い出がありました。
*
ある村に行くと、「統一教会というとんでもないものが入ってきた」
「伝統的な氏族の村に、外部の者が来て、風俗を乱す」などと言って、
村中の人たちが棒を持って殴ろうと、夜集まってきたこともありました。
そんなときいつもやることは、逃げたり恐れ怖がるような態度をとらず、
殉教してもいいという気持ちで、堂々たる姿勢をもって言うのです。
「何か私に悪いところがあって、皆さんが殴りたいならば殴ってください。
ただ私は農村の啓蒙のために、
また皆さんに素晴らしいみ言を伝えるために来ただけであって、
皆さんに損害を被らせるようなことは何もしていません」
すると、棒を持って集まってきたものの、
結局は殴らないでそのまま去っていくのです。
死を覚悟すればサタンは逃げるのです。
初期のころはそのようにいろいろな迫害がありました。
日本では、初期に伝道に行ったといっても、
こんなに棒を持って集まってきて殴ろうとするような環境はなかったと思います。
☆
兄弟たちが最前線でただ一人、開拓伝道をしている所に、
地区長が、自転車に乗って、突然訪問される。。。
兄弟にとって、これ以上の喜びはないでしょう。
これは1960年の証しです。
1960年といえば、4月に御父母様の御聖婚、
また3双の祝福が行われました。
日本においては、1959年に最初の礼拝が行なわれたので、
やはり開拓伝道の歩みをしていた頃だと思います。
あまりにも多くの迫害、困難を越えて、
多くの実りをあげていきました。
精誠が神様と霊界を動かして、
導かれていったのだと思います。
今は、時代も大きく変わり、
環境に恵まれています。
しかし、教会長は、
「今、このときこそ、開拓精神を持って、
宣教精神を持って、歩む時である」
そのように私たちを叱咤激励してくださいます。
昔の先輩たちの精誠に感謝しつつ、
私たちもそれ以上の心情圏を持って
歩んでいきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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