東京は東の都、つまり
神の創造の始めの国、
エデンの都を指しているが、
名古屋は一番古い家、つまり
天宙における最も古い名高い家。
それはアダムの家を象徴しており、
古い故郷を思い出させる
1965.2.1
名古屋教会にて
☆
神の創造の始めの国、
エデンの都を指しているが、
名古屋は一番古い家、つまり
天宙における最も古い名高い家。
それはアダムの家を象徴しており、
古い故郷を思い出させる
1965.2.1
名古屋教会にて
☆
ちょうど50年前の、1月28日から2月12日、お父様が来日され、
韓国の八道に定めた聖地を、
日本に連結するために
8箇所の聖地を定めてくださいました。
東京、名古屋、大阪、高松、広島、福岡、札幌、仙台
これらの地は、草創期の先輩方が、開拓伝道し、
苦労の中で立てられた教会があり、それぞれの地で
食口たちが、待ち望んだお父様を迎えました。
その中でも名古屋は、松本ママによって、
大きな伝道の基盤が立てられたことで有名な地です。
松本ママの開拓伝道の証しを紹介します。
☆
私は、韓国から日本に来た後、東京以外には、
どこにも行ったことがなかったのですが、
伝道師として、初めて名古屋に行きました。
7月20日、東京を出発して、いざ見知らぬ土地に来て、
まず名古屋城に登って、市内を見渡してみました。
すると、その名古屋市全体が、
本当に死んでいるかのように見えました。
“今後は、すべてのことを自分自身で解決しなければならない”
と思うと、本当に寂しく、胸が詰まってきました。
開拓伝道に出発する前に、東京で約三十日間、
既成教会の復興会があったのですが、
そのときに、私たちが路傍伝道をしたので、
すでに統一教会の名前は、全国に知れ渡っていました。
名古屋でも、私は白い布に
「世界基督教統一神霊協会」という文字を書いて伝道していたので、
「新しい異端が出てきた。」と言って、ひどい迫害をしてくるのでした。
ある所に行ったときは、最初は、
み言を伝えると、よく聞いてくれるのですが、
後から行くと、「サタンだ。」と言って、追い払おうとし、
コップに水を入れて顔に浴びせてきたり、足げにされました。
また、国籍を尋ねる人に、「私は韓国人です。」と答えると、
「すぐに出て行け。」と言って、
首をつかまれて引き出されたこともありました。
そのうえ、私は寝る場所がなかったので、
駅のガード下や公園で寝たりしました。
☆
そのようにしている中で、ある夜、
扉の開いているある教会に入って寝ていたのですが、
明け方に、「主よ来たりませ!
このすべての乱れた世を早く復帰してください。」
と、切実に祈っている婦人に出会いました。
その傍らに行って、静かに座っていると、そのかたは私を見ながら、
「あなたはだれですか?」と、尋ねてきました。
私は笑いながら、「私は天の国から来ました。
とても偉大で、素晴らしい知らせを持ってきました。」
と言うと、その婦人は、私をつかみながら、
「その知らせを少し教えてほしい。」
と言って、頼んでくるのでした。
それで、そのかたに、「まず、私は家がないので、泊めてください。」
と、お願いしました。
その家に行くと、そこは、本当に豚小屋のような、番地のない家でした。
そのとき、そこで、「その天の知らせを教えてほしい。」と言うので、
原理のみ言を大まかにまとめて語りました。
ところで、知ってみると、そのかたは金さんという、
霊通するおばあさんでした。
そのときからは、その家に宿所を定めました。
お金がなくなったので、くず屋をおばあさんに紹介してもらい、
くず屋に行こうとすると、そのおばあさんが、貯金通帳を出してきました。
通帳を差し出しながら、おばあさんは、
「私が、これを持っていると、天から罰を受けるので、ぜひ使ってほしい。」
と言うのです。
それで、それを受け取って、YMCA青年会館を一か月間、借りました。
崔宣教師には手紙を書いて、パンフレットを送ってくれるようにお願いし、
本格的な伝道を始めるようになりました。
名古屋での四十日間、迫害がたくさんありましたが、
最後には勝利することができました。
☆
その中で、本当に残念だったことは、
私が、本当に一所懸命に伝道する中で、
既成教会の一人の女性に出会ったときのことです。
その女性は、名古屋のひばりが丘という所に住んでおり、
そこに行って、講義をしました。
ある日、「復活論」の講義をするため、
その日も黒板を担いで訪ねて行ったのですが、その人は不在でした。
その女性の母親が私に、「私はこれ以上、あなたの講義を聞きません。」
と書かれた紙と、お金を封筒に入れて私に差し出し、
母親が、「申し訳ありません。」と言うのでした。
私は、お金をほうり投げて痛哭しました。
そして、「ひきょう者。」と言って、叫んだのです。
当時、私は名古屋で、一日に五十円のどんぶりご飯一杯と、
水ぎょうざ一杯で暮らしていました。
それは、私自身、“一日三食を食べる資格はない。”と考えたからでした。
そのような中で、家がとても遠いにもかかわらず、
私は、“女性一人を立てれば、名古屋教会は立てられるはずだ。”と信じて、
熱心に精誠を尽くしたのでした。
私は、あまりにも腹が立って、
「お金をもらいに来たと思うのか!」と言いながら、
庭にお金をほうり投げ、
「あなたはキリスト教徒なのに、
なぜ、イエス様の悲しい心情を知ろうとしないのですか?」
と言って、泣きながら出てしまいました。
あまりにも悔しくて、無念で、悲しみが込み上げてきて、
ひばりが丘という山の中に入って行き、独りで泣きました。
このころの私は、友といえば、落ちて転がっている食べ物や、
果物を拾って食べて生きている小さな鳥たちだけでした。
そのようにして、外から帰って来ては、いつも泣く生活でした。
金おばあさんの家に帰って来るときも、
家に入る前には、笑い顔をつくろうとするのですが、
家に入ってからは泣いてしまいました。
☆
また、牧師の家に訪ねて行って伝道すれば、よく追い出されました。
ですから、しまいには、しかたがないので、
「今は終末です。審判が下ります。」と言って、伝道をしたのです。
そのように伝道する中、ある人に出会いました。
そのかたにも、終末が近づいたことを話すと、
「本当に、最近、テレビやラジオを聞くと、
そのような現象がよくあるのですが、
本当にそのような気がします。」
と言いながら、共感する気配を見せました。
それで、そのかたを一所懸命に伝道すると、
そのかたが私に、「親しい友人がいるのですが、そのかたを紹介するので、
そこに行って、お話ししてください。」と言うので、そこを訪ねて行きました。
そこで、紹介してくれた人に会い、
「翌日の午前九時に、友達三人と一緒に講義を聞く。」という約束をしました。
そこで、「神様のみ言を、よく聞くことができるようにしてください。」
と言って、一所懸命に祈祷しました。
翌朝、朝食も食べずに、黒板を担いでバスに乗りました。
そして、「メシヤの降臨とその再臨の必然性」を講義したのです。
「イエス様の十字架は予定されたものではなく、当時の人々が、
責任を果たすことができなかったので、そのようになったのです。」
と語ると、驚き関心を示したので、さらに「堕落論」を講義しました。
その中には、おばあさんが一人いたのですが、み言に感銘を受け、
後日、「自分の家の幼稚園を献納します。」と言ってきました。
その幼稚園を献納してくれた時から、
急速に教会の形が整うようになりました。
教会の建物ができるようになり、献金が五万円も入ってきました。
その時が、まさしく四十日伝道が終わる時でした。
すなわち、このようにして、名古屋に教会ができるようになったのです。
その当時、崔宣教師は大阪にいました。
私は、あまりにもうれしくて、これを知らせようと、
大阪の崔宣教師に、
「ナコヤ(名古屋)ノサタンノクヒ(首)オチタリ」
と、電報を打ちました。
その電話局では、「この言葉は間違いではないのか?」と言うのでした。
名古屋教会では、竹内みつ江さんなど、多くのかたが伝道されました。
☆
昔、映画『道をもとめて』でしたか、
その中で、この証しの内容がそのまま出てきますね。
視聴された方も多いと思います。
(数年前には漫画化、アニメ化もされています。下記)
どんなに迫害されても、
決して屈せずに歩んでいかれた
松本ママの精神は、
本当に素晴らしいと思います。
ちなみに昨日は1800双の祝福40周年記念日でした。
1800双の先輩の皆様、おめでとうございます。
松本ママ、あるいは先輩方の精誠を含めて、
今の私たちの教会の礎が築かれていることに対して、
改めて感謝したいと思います。
マンガ 炎の伝道師 松本道子の奮戦記
DVD 炎の伝道師 松本道子の奮戦記(アニメ版)
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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