2015年03月28日

(証し)「アメージング グレイス」! 私の出会った御父母様 《中村惣一郎先生4》



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ここまで勝利できたのは、
結局、先生じゃないよ。
すべては神様がなされた

Amazing grace!
How sweet the sound!
(驚くべき神の恵み
なんと甘美な響き!)──



中村先生の証し。
今回で一区切りにしたいと思います。
真のお父様、お母様と出会われた証し、
懐かしい思い出の数々です。



71、2年の秋、真のお父様が私たちを
韓国に呼んでくださったことがありました。
そこでは、いろいろな話をしてくださり、
私たちに責任と使命と方向を与え、
勇気づけてくださいました。

私たちが帰国する日のことです。
朝六時に真のお父様は青坡洞から水澤里の修練所においでになって、
右手にはめるようにと言われて、統一マーク入りの指輪を下さいました。

そして、バスに分乗して乗り込む私たちを、
真のお父様はバスのステップに上がられて、見送ってくださったのです。

私たちは「行って来まーす」と、意気揚々と出発したのですが、
お父様は、私たちの二台のバスをおひとりで
手を振りながら見送ってくださいました。

今、子供たちが大きな責任を与えられ、
励まされて出発していこうとしているのですが、
その子らの行く手には困難や苦難の多いことをご存じなのです。
“子供たちがそれを乗り越えていけるだろうか”と、
見守りながら送り出されるお父様のお姿でした。


また、ある年の秋のことです。
地区長たちを清平に呼んでくださったことがありました。
当時は、バスが清平の修練所に入ることができず、
手前の清平ダムの入り口から「天勝号」で船着き場まで行ったものでした。

船着き場に着くと、真のご父母様が私たち一行を出迎えてくださいました。

そこで、真のお父様とともに山を歩きながら、
み言を伺うという時間を過ごしたのです。
お父様は、帽子をあみだかぶりにして、そでをまくり上げられ、
まるで牛飼いのようなスタイルでした。

そうこうして、夕暮れになりました。
ずっと向こうの山の端に日が沈もうとしています。
真のお父様が「目をつぶれー」とおっしゃいます。
私たちは目をつぶりました。
静寂の中に風の音と鳥の声だけが聞こえるのです。

しばらくたって、お父様は
「宗教的指導者は、一週間に一回は自然に触れるんだよ」
と語られるのでした。

お父様と出会ったときの一場面、一場面が懐かしく思い出されてなりません。


1983年夏、お父様に招いていただいて、
米国マサチューセッツ州のプロビンスタウンでマグロ釣りをしたときのことです。
そのときは興進様や韓国の先生がたも一緒でした。

ある日、嵐が来るから早めに帰港するようにという連絡が入り、
私たちは午後五時くらいに上陸しました。
私と池田幸浩さん(777双)は、マリーナの周りを歩きながら
迎えの車が来るのを待っていました。

そこへ普段着姿のお母様がやってこられました。
私たちがごあいさつ申し上げると、お母様は「お父様はまだですか?」と、
日本語でお尋ねになりました。
そこで、「もうすぐお帰りになると思います」とお答えしました。

それからお母様は、持っておられたドーナツをぽっと割られて、
それを私たちに下さったのです。
それは、あまりにも自然な行為でした。

とても不思議な感じでした。
“これは何なのだろう?”と、真のお母様を通して体験した感覚の世界を
自分なりに尋ね求めてみました。

私たちであれば、「これ、ドーナツだから食べなさい」と言われれば、
それに対して「ありがとうございます」と答える。
そのような会話を交わすのが普通であろうと思うのです。
しかし、そのときのお母様の印象は、
そうではなく、もっともっと近い感じでした。

そして“そうだ、ご自身のご子女様と同じように扱ってくださっている。
ご自分のご子女様と他人の子女との差がないのだ”
ということに思い当たったのです。
同行されていた興進様に対してお母様がお接しになるのと、
私たちへの対応とが全く違わなかったのです。

よく、「カインの子女を愛して、それからアベルの子女を愛する」
と言いますが、
真のお母様におかれては、その差がないのです。


また、私が米国にいたころのことでした。
私はそのとき、リージョナル・コーディネーターという、
韓国の先生がたのアシスタントのような立場にありました。
そのような日本人は、いつも最前列に座るように言われ、
私たちはお父様のごく近くに座っていたのです。

お父様は、「アメージング グレイス」*(下に訳)という歌がとてもお好きでした。
これは、奴隷商人が悔い改めて作った歌だと言われています。

お父様が、イーストガーデンに責任者を集めてみ言を語っておられたとき、
「ここまで勝利できたのは、結局、先生じゃないよ。
すべては神様がなされた」と語られ、
「この歌を歌おう」とおっしゃったのです。

「先生は、神様もできないことをやったよ」と、
クリスチャンが聞くと驚くようなことも言われるお父様ですが、
それがお父様のすべてではありません。

「アメイジング グレイス ハウ スウィート ザ サウンド……」
「自分は失われていた、取り戻され、目が見えなかったものが
目が見えるようになった、何をもってあなたをたたえよう」
という歌です。

一番を歌い、二番を歌われて、「もう一回歌おう」と言われるのですが、
お父様の声が聞こえないのです。
お顔を拝見すると、目が涙でうるんでおられました。
そのとき、“お父様は神様の大きな愛を知られた、
だれよりも謙遜なかたでいらっしゃる”と思いました。

み言を聞いてから遅い歩みでしたが、
別の道を行こうと思ったことはありませんでした。
そして一つひとつ導かれて神様の大きな広い愛を知るようになったのです。

初めから自分が望んで神様の元に帰ろうとしたのでもなく、
“教会には行くまい”とさえ思った私でした。
そんな私をここまで導いてくださったのは、
神様の愛と、真のご父母様のみ言と愛でした。
そして、私を後押ししてくれた良き先祖たちの協助があって、
このようにこのみ旨の道に来ることができたのだと思います。

神様の恨を解こうとして孝の道を歩まれる真のご父母様の前に、
少しでも孝をささげる者になりたいと思います。



私たちを真の子女様と同じように接してくださる真のお母様。
神様を心から愛しておられる真のお父様。

真の父母様との出会いは
永遠の宝物であることを感じます。

心情の限界がきたときに、
真の父母様を思う心を持つことで、
父母様と近づくことができると思います。

御父母様とは、直接接することの出来ない立場ですが、
「私」のようなものにも同じ思いをもっておられるとするなら、
真の父母様を慕い求めて歩むことが重要であると
改めて感じさせていただきました。


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*「アメージング グレイス」の参考の訳を掲載します

アメイジング・グレイス(驚くべき神の恵み)
なんと甘美な響き!
私のような哀れな者を 救ってくださった
道に迷っていたが 今、探し出された
光を失っていた(何も見えなかった)のに、今は見える

神の恵みは 私の心に畏れを教え
神の恵みは その畏れを解放してくださった
なんと貴重な 恵みを受けたのだろう!
それが私が初めて(神を)信じた瞬間だった

多くの危険、労苦、罠を
くぐり抜けここまでやってきた
神の恵みは このように私を救い出してくださり
そして、わが家(天国)まで導いてくれるだろう

アメイジング・グレイス(驚くべき神の恵み)
なんと甘美な響き!
私のような哀れな者を 救ってくださった
道に迷っていたが 今、探し出された
光を失っていたのに、今は見える

       作詞:ジョン・ニュートン





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2015年03月27日

(草創期の証し) お父様のみ言を完全に実践してみたら…?!  《中村惣一郎先生3》



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神の目的、真なる因縁を求めていけば、
必ず神に会うことができる。
それは宇宙の法則のようなものである




中村先生の草創期の証し、その3です。

50年前、初めて真のお父様に会われた若き日の中村先生が、
再臨主である真のお父様との因縁を復帰するため、
お父様のみ言通り、神の目的に徹して歩んでみようと
決意されました。
その挑戦の結果、得られたものはなんだったでしょうか。
感動の証しです。



三月の中旬に鹿児島に移動してから、私は一つの目標を立てていました。
それは「歴史的父との因縁を復帰し、内的勝利の基準を確立せよ」というものでした。

創造理想を抱かれた神様は、人間の堕落以降、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、
そしてイエス様を通して歴史を導いてこられました。
そして今、この地上に再臨主を送られました。
その時代に私は生きているのです。
そのような私を訪ねてくださった神様との歴史的因縁を復帰すること、
そしてそのような内的因縁をいつも心のうちに抱きながら生活すること、
それが私の目標でした。

真のお父様が、六五年一月二十八日に第一次世界巡回で来日されたとき、
歓迎式典で語られた「神の目的」というみ言が『成約新聞』に掲載されました。
そのみ言を福岡にいるときに読んだのですが、
そのみ言は「神の目的、真なる因縁を求め続ければ、必ず神様に会うことができる。
それは宇宙の法則のようなものである」というものでした。

そこで私は、この年の七月二十日から八月末まで行われた夏季開拓伝道のときに、
このみ言を実践しようと決意しました。
“神様に出会いたい、生きて働かれる神様を確信したい”と思ったからです。
そして夏季開拓の四十日間、「神の目的」、それのみに徹しようと思ったのです。

それ以後、生活のすべてをそこに集中しようとしました。
夏季開拓の間、電車、自転車を使わず、食事も簡単にしました。
九州に「棒ラーメン」というものがあるのですが、それを主に食べ、
調理に十分間ほど、食べるのも数分間で終えました。
“二十四時間その目的しかない”、そのような生活をしようとしたのです。

そのころ、東京の中央大学の学生、関西の近畿大学の学生、
名古屋の高校生と私という、四人の男性が鹿児島にいました。
その四人で鹿児島の真夏の炎天下を歩きました。
三人の兄弟たちが歩いている十五メートルほど先を、
いつも私が早足で歩いていました。
神様の目的のみに徹したいと思ったからです。
きっと、兄弟たちは“おかしな教会長だ”と思っていたことでしょう。

開拓伝道が始まってから二十日を過ぎたのですが、何も起こりませんでした。
なかなかみ言を聞く人がいませんでした。
しかし、“何かが起こる。奇跡のようなことが、残された期間の中に起こる”
という、不思議な確信がありました。

すると、ある人が「面白い人を紹介する」と言うのです。
その“面白い人”とは、社会主義を勉強しているが、
聖書をも読んでいる女性だということでした。
その女性は、労映(労働者の映画鑑賞サークル)の副委員長をしている人でした。

不思議だったのは、その女性と話している間に、
“この人は、神のみ旨に献身しなければならない”
という思いがとても強くわいてきたことでした。
序論の講義をした後、土日を挟んで月曜までの四日間ほどで講義を終了しました。

その当時の教会は、教会といっても二軒長屋のうちの一軒でした。
隣室で兄弟姉妹が祈る中、すべての講義が終了しました。
講義を終えたお祝いにと兄弟姉妹たちが聖歌を歌ったとき、
その女性の目から涙が流れました。
そのとき、“生まれた!”と思いました。

私がその後、鹿児島から千葉に異動になったあとに分かったことですが、
実は、その女性は共産主義の活動をしていたのですが、
いろいろな疑問を感じ、葛藤しながら自分の生きるべき真実の道を探していた人でした。
そして統一原理と出会って、そこに解答を見いだしたのでした。
彼女は友人たちを伝道し始めました。
そのかたが新国田鶴子さん(七七七双)です。

開拓伝道の残りの十日間ほどは、波乱万丈の出来事が連続しました。
今まで通教していた青年が献身的に歩むことを決意し、
鹿児島大学の学生、看護学生の計四人が、
東京で行われた四十日開拓伝道報告会に出席しました。
そして、そのうち二人が三日修練会に参加して献身的に歩むことになったのです。

こうして、「神の目的を求めていけば、必ず神に会うことができる。
それは宇宙の法則のようなものである」というみ言が現実のものとなったのです。

このように、お父様のご来日を起点とした、この四十日間の開拓伝道期間は、
私の信仰生活にとって一大転換期となりました。



「絶対的な主体があれば絶対的な対象は生まれる」
そのようなお父様のみ言があったと記憶しています。
私たちがお父様と完全にひとつになれば、
絶対的な主体になり、そのことによって対象圏が
生まれてくるというのです。

中村先生の証しは、まさにそのような歩みであると
感じさせていただきました。
「神の目的、真なる因縁を求め続ければ、必ず神様に会うことができる。
それは宇宙の法則のようなものである」
このみ言を現実化するために、
中村先生はどれほど精誠を込めて、歩まれたことでしょうか。

私たちも路傍伝道を始めて2年になりますが、
何か、飛躍していかないといけないと感じさせられています。

昨日、ちょうど夢を見ました。
かつての青年支部にいて、
伝道出発式をしているところでした。

ひさしぶりに青年の前に出るので、
何か、違和感を覚えていたところで目が覚めました。

当時を振り返ると、本当に幼い立場であり、
反省するところも多いのですが、
それでも気概と情熱は、ものすごかったと思います。

中村先生の証を相続しつつ、
過去以上の気概を持って歩むことを
天が願っていると感じさせていただきました。



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2015年03月26日

(草創期の証し) 生きて答えてくださる神様! 《中村惣一郎先生2》



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1965.2.6 福岡


一人の青年が
神様のみ言を伝えるためにこの国に来て、
死んだのだということを知ったとき、
人々はその伝えようとしたことを学び始める




中村惣一郎先生の若き日の証し、続編です。
昨日は、真のお父様とお会いされた時の証しでしたが、
今日は、その前後の出来事を紹介します。


六四年九月には、当時、合併して百万都市となった
北九州市小倉に開拓伝道所長として赴任しました。

あるとき、約束の時間に合わせて、ある家庭を訪問しました。
すると、「申し訳ありません。今日は来客があって、
次の機会にしていただけませんか?」と言うのです。
しかし、玄関には来客らしき人の靴はありません。

その家を出たのですが、うそを言われて退く、何とも言えない気持ちでした。
天宙を神様の前に復帰すると言っていても、
結局、一人の十九歳の青年が、百万都市の片隅にいるにすぎないのです。
心がなえていきました。

高台の小倉城址公園に行き、夕日を見ながら、
「神様、私に必要なみ言を与えてください」と祈り、聖書を開きました。
使徒行伝一八章九節が開かれ、そこにはこのような聖句がありました。

「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。
あなたには、わたしがついている。
だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。
この町には、わたしの民が大ぜいいる」


神様が生きて答えてくださるという、忘れられない体験をしました。
このことは、私にとって何にも代え難い貴い経験でした。


六五年三月、前年の十一月から二月末まで一時滞在した福岡から離れ、
再度、北九州市小倉へ開拓に出発しました。
小倉の宿所は、前年の十一月に引き払っていて、すでにありませんでした。

小倉には、前任者から引き継いだ原理受講中の人がいました。
小倉駅近くのビルがその人の職場でした。
午後七時にそこで「復活論」の講義をする約束をしていました。

そのころ、私の住む場所は、まだ決まっていませんでした。
ですから路傍伝道の後、彼の職場の隣の雑居ビルの四階の踊り場で
約束の時刻を待っていました。
しかし、どうも風邪を引いたらしく悪寒があり、頭が回りません。
熱も大分あるらしく、講義がよくできそうにありませんでした。

“不十分な講義で人を生かすことができなければ申し訳ない。
きょうは、講義を中止する旨を伝えよう”と心に決め、立とうとするのですが、
何かが心に引っかかるのです。
行くのをやめて座って祈りました。

自分の心の中に、“不十分な講義をしては人を生かすことができない、
私が無理をして体調を崩してしまったら、
北九州の百万の人々を生かすことができない。
だから、きょうは講義をしないほうがよい”という思いがあるのです。

しかし、“自分は伝道師として神様のみ旨のために
すべてささげると誓った者ではないか、
北九州の百万の人たちのためと言っているが、
結局、自分自身の身をいたわっているのだ”と気づきました。

そのとき、

「一人の青年が、ある国に伝道に行って死んだとしたら、
“彼は何のためにこの国に来たのか”と人々は考えるだろう。
そして、神様のみ言を伝えるためにこの国に来て、
死んだのだということを知ったとき、
人々はその伝えようとしたことを学び始める」


と語られたお父様のみ言が思い出されました。

結局、私は自分の生命のことを思っていたのだと分かりました。
そして“うまく講義できなくてもよい、そして講義の後、倒れてもよいのだ。
それが北九州の人々を真に生かす道なのだ”と分かったのです。
このことを知らせるために、神様は私の心に
働きかけてくださったのだと悟りました。

講義を終えた後、ビル街の近くを流れる紫川沿いを歩いて、
一軒のバラックに向かいました。
手紙、電報などの届け先として住所を借りていたお宅でした。

歩いて行く左側が川、右側が公園でした。
さっきまでは熱があり、雲の上を歩いているようだったのが、
気がつくと、足がしっかりと地について歩いているのです。
それまでの熱も引いていました。
そして、北九州という地がいとおしくなり、
“私はこの北九州の土になるのだ”、“この大地を私の腕で抱き締めたい”
という思いに駆られました。
前から人が歩いて来るので、そうすることはできませんでしたが、
何回かしゃがみ込んで、「この北九州の土になります」と祈りました。

そうしてその後、前述のお宅に伺うと、福岡から電報が届いており、
そこには「異動により鹿児島に赴任せよ」とありました。



本当に素晴らしい証しです。
とても教えられることが多いです。

訪問先で断られ、心が萎えている時、
使徒行伝一八章九節を与えられ、
神様の勇士として立ち上がる姿。

原理講義を倒れてもいいからやろうと思って、
講義をしたあとに、熱が下がり、
任地を愛おしいと思われる姿。。。

神様が今、伝道している私たちに
勇気づけるみ言だと受け止めさせていただきました。

また、私も足りないながら、原理講義をさせていただきますが、
そのことがどれほど、貴い立場なのかも感じさせられます。

神様がともにある「私」であるという心情で、
これからも投入していきたいと思います。



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