「統一教会 News Online」
に以下の内容が紹介されていました。
私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。
私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。
私が人を憎む時 私は存在価値を失います。
今からちょうど80年前の1935年、
真のお父様が16歳(数え年)の時、
このような一節から始まる詩「栄光の王冠」を書かれました。
(この詩は、2002年に米国で開催された「国際詩人協会会議」で
最優秀作品にも選ばれています)。
「栄光の王冠」は、真のお父様がイエス様から
天の召命を受けられた当時の
心理的な“混乱”の中で書かれたもので、
そのことは、自叙伝『平和を愛する世界人として』にも記されています。
「明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。
しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。
(中略)
到底自分には果たし得ないと思って、
不安と恐怖におののく毎日でした。
(中略)
泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、
私はその恐れを詩に書きました」
天一国3年天暦1月13日(陽暦3月3日)に挙行された
「天一国基元節2周年記念式」において、
真のお母様は、祝福家庭の責任を強調されながら、
次のようなみ言を語って下さいました。
「祝福家庭は責任を果たすべきです。
私だけの、私の家庭だけの祝福で終わらせてはなりません。
私の隣人と氏族と私の国に、真の父母様が
真の主人だということを証さなければなりません。
その道こそが、皆さんが今日、この時代に
真の父母様と同参したという“栄光の王冠”を
受ける位置であるということを肝に銘じて下さい」
祝福家庭とは、人類の救世主であり
再臨主、真の父母、万王の王であられる真の父母様を、
70億人類の中で先駆けて知った者たちです。
そのような祝福家庭の一人ひとりが現在、
真のお父様がイエス様から召命を受けられた時のような
切実な心情を、自らも抱いているかどうか
自問しなければならないでしょう。
記念式の中で、現在世界的に広がっている
悲惨な状況を案じながら、
真情を吐露される真のお母様を想う時、
冒頭の「栄光の王冠」の一節をはじめとして、
この詩に込められた真のお父様のご心情にも想いを馳せざるを得ません。
「栄光の王冠」は次のように締めくくられています。
しかし 裏切った者たちを愛する時
私は勝利を収めるでしょう。
もし あなたも 私のように愛するならば
私はあなたに栄光の王冠を捧げましょう。
この詩のごとくまさに生きてこられたのが、
真の父母様の生涯であったことを祝福家庭は知っています。
基元節2周年を迎え、記念式で真のお母様が語られたみ言、
祝福家庭の責任と使命を改めて肝に銘じながら、
決意を新たに出発する日こそ、基元節の“本義”ではないでしょうか。
そして、“栄光の王冠”を受けるにふさわしい祝福家庭として、
信仰の“原点”に回帰し、真の愛によって
勝利していくことが、今願われています。
☆
真のお母様は、「今、いろいろな問題が起こっているけれど
私の代で起こって良かった」
そのように語られていると聞きました。
本当に全てに責任を持ち、
「真のお父様の果たせなかったことを
私が必ず成す」
そのように決意しておられる
真のお母様であると感じます。
お父様は、15歳のとき、
人類の幸福、世界平和を考え、
深刻に真剣に祈られました。
そのような祈りの中で、
イエス様との出会いがありました。
メシヤとして召命を受けてから
前人未踏の真理探究をしてくださり、
7度(たび)の監獄等の十字架をも
越えてくださいました。
お母様は、弱冠17歳で
天の花嫁となったときから、
「私がすべての責任を負う」と、
決意してくださいました。
そして誰一人として歩んだことのない
真の母の道を、私たちのために
歩んでくださいました。
まさしく「中断なき前進」とは
お母様の歩まれた人生そのものといえるでしょう。
今も、お父様とお母様は、深刻真剣に
一心一体で歩んでくださっているのだと思います。
そして、祝福家庭である
私たちにも願われているのだと感じます。
栄光の王冠
Crown of Glory
私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。
私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。
私が人を憎む時 私は存在価値を失ってしまいます。
しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます。
今宵 私は手のひらに頭を埋め 苦痛と悲しみに震えています。
私が間違っているのでしょうか。
そうです。私が間違っているのです。
たとえ だまされたとしても 信じなければなりません。
たとえ 裏切られたとしても 赦さなければなりません。
憎む者までも ことごとく愛してください。
涙を拭いて 微笑みで迎えてください。
人をだますことしか知らぬ者たちを
裏切りながらも 悔い改めのできない者たちまでも・・・。
おお主よ! 愛するという痛みよ!
私のこの苦痛を御覧ください!
熱きこの胸に 主のみ手を当ててください!
私の心臓は 深き苦悩ゆえに 張り裂けんばかりです。
しかし 裏切った者たちを愛した時 私は勝利を勝ち取りました。
もし あなたも 私のように愛するならば
私はあなたに 「栄光の王冠」をお捧げします。
(Rev. Sun Myung Moon 1935年)
自叙伝p64(*訳は上とは違います)
Crown of Glory
私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。
私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。
私が人を憎む時 私は存在価値を失ってしまいます。
しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます。
今宵 私は手のひらに頭を埋め 苦痛と悲しみに震えています。
私が間違っているのでしょうか。
そうです。私が間違っているのです。
たとえ だまされたとしても 信じなければなりません。
たとえ 裏切られたとしても 赦さなければなりません。
憎む者までも ことごとく愛してください。
涙を拭いて 微笑みで迎えてください。
人をだますことしか知らぬ者たちを
裏切りながらも 悔い改めのできない者たちまでも・・・。
おお主よ! 愛するという痛みよ!
私のこの苦痛を御覧ください!
熱きこの胸に 主のみ手を当ててください!
私の心臓は 深き苦悩ゆえに 張り裂けんばかりです。
しかし 裏切った者たちを愛した時 私は勝利を勝ち取りました。
もし あなたも 私のように愛するならば
私はあなたに 「栄光の王冠」をお捧げします。
(Rev. Sun Myung Moon 1935年)
自叙伝p64(*訳は上とは違います)
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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