2015年03月26日

(草創期の証し) 生きて答えてくださる神様! 《中村惣一郎先生2》



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1965.2.6 福岡


一人の青年が
神様のみ言を伝えるためにこの国に来て、
死んだのだということを知ったとき、
人々はその伝えようとしたことを学び始める




中村惣一郎先生の若き日の証し、続編です。
昨日は、真のお父様とお会いされた時の証しでしたが、
今日は、その前後の出来事を紹介します。


六四年九月には、当時、合併して百万都市となった
北九州市小倉に開拓伝道所長として赴任しました。

あるとき、約束の時間に合わせて、ある家庭を訪問しました。
すると、「申し訳ありません。今日は来客があって、
次の機会にしていただけませんか?」と言うのです。
しかし、玄関には来客らしき人の靴はありません。

その家を出たのですが、うそを言われて退く、何とも言えない気持ちでした。
天宙を神様の前に復帰すると言っていても、
結局、一人の十九歳の青年が、百万都市の片隅にいるにすぎないのです。
心がなえていきました。

高台の小倉城址公園に行き、夕日を見ながら、
「神様、私に必要なみ言を与えてください」と祈り、聖書を開きました。
使徒行伝一八章九節が開かれ、そこにはこのような聖句がありました。

「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。
あなたには、わたしがついている。
だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。
この町には、わたしの民が大ぜいいる」


神様が生きて答えてくださるという、忘れられない体験をしました。
このことは、私にとって何にも代え難い貴い経験でした。


六五年三月、前年の十一月から二月末まで一時滞在した福岡から離れ、
再度、北九州市小倉へ開拓に出発しました。
小倉の宿所は、前年の十一月に引き払っていて、すでにありませんでした。

小倉には、前任者から引き継いだ原理受講中の人がいました。
小倉駅近くのビルがその人の職場でした。
午後七時にそこで「復活論」の講義をする約束をしていました。

そのころ、私の住む場所は、まだ決まっていませんでした。
ですから路傍伝道の後、彼の職場の隣の雑居ビルの四階の踊り場で
約束の時刻を待っていました。
しかし、どうも風邪を引いたらしく悪寒があり、頭が回りません。
熱も大分あるらしく、講義がよくできそうにありませんでした。

“不十分な講義で人を生かすことができなければ申し訳ない。
きょうは、講義を中止する旨を伝えよう”と心に決め、立とうとするのですが、
何かが心に引っかかるのです。
行くのをやめて座って祈りました。

自分の心の中に、“不十分な講義をしては人を生かすことができない、
私が無理をして体調を崩してしまったら、
北九州の百万の人々を生かすことができない。
だから、きょうは講義をしないほうがよい”という思いがあるのです。

しかし、“自分は伝道師として神様のみ旨のために
すべてささげると誓った者ではないか、
北九州の百万の人たちのためと言っているが、
結局、自分自身の身をいたわっているのだ”と気づきました。

そのとき、

「一人の青年が、ある国に伝道に行って死んだとしたら、
“彼は何のためにこの国に来たのか”と人々は考えるだろう。
そして、神様のみ言を伝えるためにこの国に来て、
死んだのだということを知ったとき、
人々はその伝えようとしたことを学び始める」


と語られたお父様のみ言が思い出されました。

結局、私は自分の生命のことを思っていたのだと分かりました。
そして“うまく講義できなくてもよい、そして講義の後、倒れてもよいのだ。
それが北九州の人々を真に生かす道なのだ”と分かったのです。
このことを知らせるために、神様は私の心に
働きかけてくださったのだと悟りました。

講義を終えた後、ビル街の近くを流れる紫川沿いを歩いて、
一軒のバラックに向かいました。
手紙、電報などの届け先として住所を借りていたお宅でした。

歩いて行く左側が川、右側が公園でした。
さっきまでは熱があり、雲の上を歩いているようだったのが、
気がつくと、足がしっかりと地について歩いているのです。
それまでの熱も引いていました。
そして、北九州という地がいとおしくなり、
“私はこの北九州の土になるのだ”、“この大地を私の腕で抱き締めたい”
という思いに駆られました。
前から人が歩いて来るので、そうすることはできませんでしたが、
何回かしゃがみ込んで、「この北九州の土になります」と祈りました。

そうしてその後、前述のお宅に伺うと、福岡から電報が届いており、
そこには「異動により鹿児島に赴任せよ」とありました。



本当に素晴らしい証しです。
とても教えられることが多いです。

訪問先で断られ、心が萎えている時、
使徒行伝一八章九節を与えられ、
神様の勇士として立ち上がる姿。

原理講義を倒れてもいいからやろうと思って、
講義をしたあとに、熱が下がり、
任地を愛おしいと思われる姿。。。

神様が今、伝道している私たちに
勇気づけるみ言だと受け止めさせていただきました。

また、私も足りないながら、原理講義をさせていただきますが、
そのことがどれほど、貴い立場なのかも感じさせられます。

神様がともにある「私」であるという心情で、
これからも投入していきたいと思います。



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