2015年04月18日

〜召命〜 「神様が君たちを召したんだよ!」 



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私はあなたをまだ母の胎につくらないに先に、
あなたを知り、
あなたがまだ生まれないさきに、
あなたを聖別し、
あなたを立てて万国の預言者とした


(エレミヤ書より)



「『私』は神様に召されてこの場にいるのだ」
そのことを今このときに、強く認識していかないといけない。。。
最近、そのように感じさせられています。

「召命」について
本部の多田講師が、み言などを引用されて
語られた内容を参考にまとめました。


お父様が、在米の日本人婦人たちを集めて
修練会を開催されたときのことです。
開口一番「なぜ君たちは祖国を離れてこの国に来たのか」
と問いかけられました。

その時、お父様は黒板に大きく
「召命」と書かれたのです。

「神様が君たちを召したんだよ。」
と言われました。


聖書に出てくる多くの人々は
神様に召されて立ち上がっていきます。

預言者エレミヤも神様に召されていきました。



主の言葉が私に臨んで言う、
「私はあなたをまだ母の胎につくらないに先に、
あなたを知り、
あなたがまだ生まれないさきに、
あなたを聖別し、
あなたを立てて万国の預言者とした」  

「あなたはただ若者に過ぎないと言ってはならない。
だれにでも、全て私が使わす人へ行き、
あなたに命じることをみな語らなければならない。
彼らを恐れてはならない、
私があなたとともにいて、あなたを救うからである」


(エレミヤ書より)


また、ヤコブはベテルの地において、
神様と出会っていきました。
 
ヤコブは眠りから覚めて言った。
『まことに主がこの場所におられるのに、
わたしは知らなかった。』


(創世記28・16)


新約聖書にもあの有名なパウロが
ローマ人への手紙に記しています。

神はあらかじめ知っておられる者たちを、
更に御子のかたちに似たものとしようとして、
あらかじめ定めてくださった。
それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならしめるためであった。
そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、
召した者たちを更に義とし、義としたものたちには、
更に栄光を与えて下さったのである。



原理講論にも以下のようにあります。

神の再創造摂理である救いの摂理も、・・・一つから始まって、
次第に、全体的に広められていくのである。
神の摂理が、全てこのようになっているので、
救いの摂理のための予定においても、
まず、その中心人物を予定して召命されるのである。



何よりも、真のお父様ご自身が
神様からの召命を受けて立ち上がっていかれました。

私は自分では何もわからなかったので、
すべてのことを神に尋ねました。
「神様、本当にいらっしゃいますか?」
と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。
「神様にも願いがありますか?」
と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。
「神様、私が必要ですか?」
と尋ねて、
こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。
 



在米の日本人婦人たちに語られたみ言は、
お父様が私たちに伝えたいみ言ではないでしょうか。
神は私たちを召されたのです。

神様は、私のような幼い、足らない、小さい者ではありますが、
しかし、お父様をはじめとして、
復帰摂理に現れてきた中心人物たちに対してそうだったように、
「あなたを私が召したのだ」
そんな言葉を私たちに投げかけておられると思います。

最後に、お父様が神様に対して誓った決意のみ言を紹介しながら、
お父様が語られたみ言は、今の私たちにも語られているみ言である
そのことをともに認識していきたいと思います。


ある時には、一人なりに
神に対して逆らったことがあるんであります。
一人の男として生まれて、
こういうような天地の秘密の内容を暴露することによって、
世界は動揺し、自分の一生がメチャクチャになる。
この道以外におさめる道はないのですか、
と何回も拒否した立場がある。

しかし神は、
『君が責任を持たなければ誰かがしなげればならない。
誰かがしなければならない』と。

それで奮起して三十余年の歴史を費やして
まだ果たされていないこの道に、
戦いをその合戦を続けていかなければならない、
そういう立場に立っている。
それがどうして落胆するでありましょう。

『雄々しく、尊く、尊く、目的に向かって、
神のために進んでいこう』
その決意は、日が変わろうとも年が変わろうとも
頭の毛が白くなろうとも、その心情は、変わりません。


(1975.2.13)



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2015年04月17日

今日は80年目の復活の日?! 「実体復活の日」のみ言 1961.4.17



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イエス様の復活は霊的な復活であり、
実体の復活を成して
その目的を達成したのちに
祝わなければならない

イエス様の望みである
新郎新婦の基準を完結してこそ、
初めて私たちが望む
地上天国が成就される




今日4月17日は特別な日です。
今年の復活祭は、4月5日でしたが、
真のお父様は1935年陽暦の4月17日、復活祭の日に
イエス様との出会いを通して、特別な出発をしていきました。
その日から、80年を迎えました。

この日が特別な日であるがゆえに
1960年4月17日に、真のお父様は
三清公園というところで復活節礼拝をされ、
「心情復活の日」を宣布されました。

さらに翌年1961年4月17日には、
銅雀洞国立墓地の裏山で復活節の礼拝をされ、
「実体復活の日」を宣布されたのです。

「実体復活の日」に関して語られたみ言です。


4月17日、この日はイエス様が復活なさった日です。
どれほど良い日でしょうか? 
イエス様の祝福を受ければ、
霊界で勝利したイエス様の土台の上に立つようになります。
皆さんは、天下の大怨讐と戦って勝てる
勇者の姿で現れなければなりません。

この道を無難に越えれば、天国に行くことは問題ありません。
イエス様の復活は霊的な復活であり、実体の復活を成して
その目的を達成したのちに祝わなければなりません。
完全な復活をしてこそ、イエス様に対して兄弟だということができます。
神様は涙と嘆きでこの日を迎えられました。
完成復活とは何ですか? 
創造目的を達成した実体の復活です。



これから実体復活ができる一つの存在になろうとするなら、
彼は歴史的な基準を蕩減して、現実の戦いで
倒れないで勝利しなければなりません。
それでこそ実体復活をすることができます。
そうなる日が実体復活の日です。

この基準が立てられてこそ
「悲しみの世の中よ、元気でいろよ。私たちは元に引き返す」
と言えるのです。
実体の時代が来るのです。

歴史的な闘争過程を経て、
イエス様の望みである新郎新婦の基準を完結してこそ、
初めて私たちが望む地上天国が成就されるのです。



歴史的なすべての基準を完成して、
「何でも守ることができる」と言ってこそ、
再臨の一日を迎えることができます。
今やこの地にイエス様の使命を引き継ぎ、
神様の心情を引き継いで来られる方がいらっしゃるなら、
その方がこの世界の主人公です。
実体復活は、心情まで通じなければなりません。
その日は、天地が回る日です。

実体復活の日が来ようとするならば、
実体の父母がいなければならないし、
実体の子女がいなければなりません。
皆さんは実体復活を通して栄光の位置に進み出なければなりません。
そのためには戦いをしなければなりません。
そうして栄光の主権を立てなければなりません。
この道は、死のうが生きようが行かなければならない道です。




とても濃いみ言であると思います。

1960年は真の父母様が御聖婚をされた年です。
1935年にイエス様に会われてから、
単独、メシヤとして歩まれてきたお父様が
御聖婚を通して、父母として立ったがゆえに、
その年を起点として、
私たちも復活することができる道を示してくださいました。

お父様の召命と勝利、そして
お母様の召命と勝利、これがなければ
私たちの実体復活、つまり、祝福を受け、創造目的を完成
するという私たちの道もなかったということになります。

一つひとつの峠を越え、
道を切り開いてくださった真の父母様に感謝しつつ、
お父様が15歳のときに、
イエス様から特別な啓示を受けたときのことを思いながら、
今日の重要な日を歩んでいきたいと思います。


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2015年04月16日

(証し)教会に来ていなかった3名の二世たちを礼拝に導く! 青年FEの秘策とは!?



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私はあまりにも無力です
でも神様と一緒なら
何でも出来る気がしてなりません!
足らない精誠を受け取ってくださり
私を通過体として彼ら1人1人を教育し
導いてください。
そのためなら
何でも捧げる心情で歩んでいきます!



今回は、他教会の青年の証しを紹介します。
青年FE(フィールドエデュケーター)になって、
教会にまったく来ていなかった3名の高3生を
歓迎礼拝に導いた証しです。


もともと私自身も、小学校5 年生から大学に行く前までは
教会にすら行っていませんでした。

この連結問題に取り組み始めたのは、昨年の11月頃だと思います。
電話がけなどは勿論やったこともありませんし、
面識のない高3メンバーに何を話したら良いのか全くわかりませんでした。
3人の担当になりましたが、
3人とも全く礼拝に参加していない弟たちでした。
どのようにして連結していいのかも分からず、
とりあえず精誠条件を立てようとし立てたのはいいものの、
何を祈れば良いのかも分からないほどでした。

街頭伝道で出会う人は、面識があるので意識し祈ることは出来ましたが、
面識がない人のために祈ることは呼名祈祷ぐらいしかありませんでした。
ただただ精誠条件をやり続けていくうちに、
祈祷の中でハッと気づかされる言葉がありました。
「君はどのくらい真の父母様を知っているの?」という内容でした。
よくよく考えたら全然知らないのではないかと気付き、
精誠条件として「真の父母様の生涯路程」を訓読するようなりました。

祈祷学やさらには祈る順番など学び実践しました。
まず世界のために、次に自国のために、
そして意識している人のために祈っていく中で
自らの祈祷が深くなっているということも実感できるほどでした。

ある時、礼拝で「最も重要なみ言とは何か?」という問いに対しての答えが
「天の父母様」だと言われました。
親として万感の思いで呼ぶように、
親子の心情を大切にする内容だと強く感じる場となりました。
祈祷は親子の対話であり、今までは一方的に祈っていたものも
徐々に変わるようになりました。

「愛する天の父母様、真の父母様。
高3生の連結が叫ばれている中で、
私にも3人ほど責任を与えられました。
正直、私1人の力では何をすることもできず、
あまりにも無力であると思います。
ただ、神様と一緒ならどうでしょうか?
私は何でも出来る気がしてなりません。
だからこそ、私の足らない精誠を受け取ってくださり、
私を通過体として彼ら1人1人を教育し、導いてください。
そのためなら、何でも捧げる心情で歩んでいきます」
と祈祷すると鳥肌が立ち、そこに涙している自分がいました。
 
自分1人ではないという実感しかありませんでした。
その後は、「愛する天の父母様」というだけで涙することもあります。

外的なことを言うのならば、男性は長電話を好まないこと、
久しぶりに来た兄弟姉妹に対して
「久しぶり」と言わないようにすること等大変な事が多いです。
また、連結問題は外的なことも重要ですが、
伝道する側の内的な姿勢が最も大切であると実感できた期間でもありました。

歓迎礼拝には3人を無事連れてくることができました。
「勝利の秘訣は一体化すること」
まずは縦的に繋がれるかが大切なことだと感じています。



素晴らしい証しです。

3名をつなげるためにただならぬ努力をしていきました。
その基本が訓読と祈祷です。
また、ただの条件ではなく、
深刻に切実にみ言と祈りをしていったことでしょう。

その背後には、「3名の命を天に連結する!」
という強い責任心情だったと思います。

そういう熱い思いが高3生の心に響き、
礼拝に参加するようになったと思います。

これは、私たちにも通じることだと思います。
氏族メシヤとして、本当に自覚を持ち、
み言と祈りを深刻に切実に捧げていかないといけないと感じます。


(トップ写真は
ヨーロッパの2世たち)


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