昨日、森山先生の証しを紹介しました。
森山先生といえば、霊的、心情的なお話で
どれだけの人が感銘を受けたでしょうか。
きっと、お父様の元で、ますますご活躍されることでしょう。
さて、真のお父様は何よりも霊的に敏感であり、
さらには心情的な方であられます。
見えない霊的な存在であり、愛と心情の基である神様に
誰より通じ、似ておられるからかもしれません。
今日は、そんな真のお父様の霊的・心情的世界を
体験されたという、周藤健先生がお若いころの
「焼き栗の証し」を紹介します。
☆
周藤先生は真の父母様と韓国の先生方と共に、
あるレストラン行かれました。
その時、周藤先生は入口で焼き栗を一袋買いました。
中に入ってお父様に差し上げました。
するとお父様はその栗をみんなにお配りになり、
周藤先生にも一つ下さいました。
しかし、その焼き栗は全然美味しくありません。
ほかの人も変な顔をしていました。
ところがお父様は一人「美味しい、美味しい」
と言って食べておられるのです。
そして食べ終わると、「もう一袋買って来い」
と言われたのです。
周藤先生が買って来ると、
また美味しそうに食べられたのです。
周藤先生は「どうしてそんなに美味しくない栗が
お父様には、美味しいのだろう。
『また買ってこい』と言うほどに……」と思いました。
しかしその瞬間にハッと感じたのです。
「先生は栗を食べていらっしゃるのではなかったのだ、
その時に私が捧げた心情を食べてくださっていたのだ、
そして私の心情を味わっていらっしゃるのだ」と。
☆
お袋の味といわれますが、幼い頃に
家族で食卓を囲みながら、食べた記憶というのが
おいしいという味覚に結びつくのだといいます。
その時に感じた安心感や、愛情を一緒に食べたからこそ、
お袋の味は、究極的な御馳走になるのでしょう。
さて、お父様の心情的、霊的感性の鋭さは
本当に「神様のごとく」です。
周藤先生の心情を見抜いて、
お父様の真心を受け取ったがゆえに
実際には美味しくない焼き栗だったのに、
霊的には美味しかったのでしょう。
空間的な距離ではなく、
心情の距離が、お父様との距離なのです。
霊界におられるお父様ではありますが、
私の心情を見つめておられる
真のお父様であるということを
改めて知らないといけないし、
心情の世界をご存知であるお父様に
感謝していきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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