2015年05月06日

お父様の中に消えたい! 周藤先生の「焼き栗の証し」詳細



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先日、周藤先生の「焼き栗」の証しを書きました。
周藤先生の心情の素晴らしさによって、
不味い焼き栗なのに、美味しそうに食べられたお父様。
いや、実際に(霊的には)美味しかったと思います。

そんな周藤先生ですが、焼き栗を購入した理由がありました。
先回紹介した証しはTPマガジンに掲載されたものですが、
「証言」には、細かいそのいきさつが書いてありました。
先回と重複しますが、少し編集して紹介します。


777双の祝福の世話をさせて頂いた後、
私は韓国の先生方と共に、
お父様に連れられて映画を見に行きました。

そこで、ちょうど私の前にお父様とお母様が
座っていらっしゃったのですが、
お父様の後ろ姿を見た時、
お父様は髪を染めていらっしゃるはずなのに、
なぜか真っ白に見えたのです。
暗闇の中でしたがそれがハッキリわかったのです。
それで私はまた良い意味においてショックを受けました。

当時、お父様はまだ五十歳ぐらいですから、
真っ白になる年齢ではないのですが、
なぜこのようになられたかということを考えた時に、
私はお父様の通過されたご苦労の世界が偲ばれて、
たまらない気持ちになり、涙が出て止まりませんでした。

映画が終わるとお父様が立たれたので、
私たちはその後ろについて行きました。

その時、私は生まれて初めての感覚でしたが、
「この方の中に消えたい……」と、
今まで誰に対しても思ってみたこともない気持ちになったのです。

そしてしばらく歩いて、
あるレストランに先生ご夫妻が入られました。
私は入り口で焼き栗を一袋買い、
中に入って先生に差し上げました。
すると先生はその栗をみんなにお配りになり、
私にも一つ下さいました。
私は食べてみたのですがちっとも美味しくないのです。
ほかの人も変な顔をしていました。

ところが先生は一人「美味しい美味しい」と言って
食べておられるのです。そして食べ終わると、
「もう一袋買って来い」とおっしゃいました。
私が買って来ると、先生はまた美味しそうに食べられたのです。
私は“どうしてそんなに美味しくない栗が先生には、
美味しいのだろう、
『また買ってこい』と言うほどに……”と思いました。

しかしその瞬間にハッと感じたのです。
“先生は栗を食べていらっしゃるのではなかったのだ、
その時に私が捧げた心情を食べてくださっていたのだ、
そして私の心情を味わっていらっしゃるのだ”と。

田舎のおばあさんでも、心情を込めて捧げたものには、
どんな変なものでも先生は喜んで食べられる、
ということを聞いたことがありますが、
私はその時、本当にそうだと思いました。
本当に心情が通じる先生であり、言わなくても、
ちゃんと知っていてくださる先生であると思いました。

空間的な距離ではなく、心情の距離が先生との距離なのです。
結局、遠く海外に宣教師として行っても、
あるいは日本の北海道の小さな町で万物復帰をして歩んでいても、
そこにある心情は天に通じ、
天に通じる心情は先生に通じるということなのです。

私にとってはこの経験は
先生がどういう方であるかということを知った、
一つの貴重な経験でした。



お父様の晩年は、髪の毛を染めておられる・・・
そんな証しを聞いたことがありましたが、
もう50歳の時から真っ白であったと初めて知りました。

また、髪の毛が真っ白のお父様に対して、
お父様の苦労の心情を思いながら、
涙される周藤先生の心情も素晴らしいと思います。

そして、焼き栗を食べたお父様は、
周藤先生の心情を感じ取られたのでした。
お父様が周藤先生を愛されたのも本当によくわかります。

自分を殺そうとする怨讐をも愛していかれるお父様。
そんな御父母様を理解する存在になりたいと思うのです。
周藤先生の純粋に父母様をお慰めし、
「お父様の中に消えたい」と思うほどの
一つになりたいという心情圏、
相続していきたいと思うのです。

いつもどこでも私のとなりに神様が
そしてお父様がいてくれるという思いをもって
今日も歩みたいと思います。


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