統一教会の祝福結婚により、日本にお嫁に来ている
韓国人女性は数千人おられるといいます。
また、それ以上に多い数の日本人が
韓国や世界中にお嫁に行き、
または宣教地、赴任先として活躍しています。
今日は、6500双の祝福を受け
日本にお嫁に来た韓国婦人の証しが
とても心に残ったので、紹介したいと思います。
(一部、編集しています)
☆
私は元々、日本をとても嫌っていました。
しかし1988年に挙行された6500双の祝福は、
ほとんどが韓日、日韓のカップルでした。
私は頭では『全てを真の父母様に任せる』
と思っていながらも、
体は日本人との祝福を避けようと
隊列の後ろの方へ引っ込んでいました。
真のお父様はそのような私の心とは裏腹に、
「大学出身者は全員前に出るように」
と言われました。
私は仕方なく真のお父様の前に出て行ったのですが、
その時真のお父様から頂いた写真が
私の夫の写真でした。
私達夫婦は夜遅くまで本当によく
原理とみ言の話をしました。
今も記憶に残っている彼の言葉は、
「中心者はいつも最悪の場合を設定して、
準備していなければならない。
そうしてこそどんな状況が起こっても
対処できるのだ。
人間が99.9999%完成したとしても、
サタンは0.00001%の未完成な隙間を
潜って入ってくるかもしれない。
だからいつも謙遜でなければならない」
本当に厳格な言葉でした。
このような夫の一言一言は、彼が霊界に行った今でも
私の人生の指標となっています。
今考えてみれば神様は
その後の私の暮らしをよくおわかりになり、
夫を通してそのように厳格に
訓練させて下さったのだと思います。
☆
1995年5月5日午前11時、
突然夫が倒れ救急車に運ばれていきました。
まさかそれが最後になるとは夢にも思いませんでした。
夫は病院に運ばれ直ぐに手術を受けましたが、
脳出血で既に血液が脳全体に広がり昏睡状態となりました。
そうして8日後霊界へと旅立っていってしまいました。
全く信じられず、あり得ない現実の前に
私は茫然自失となってしまいました。
その後続いた昇華式と整理整頓する過程は、
全ての人々が私を真ん中に置き、
代わる代わる頬を叩いていくような気分でした。
私の周りで一体何が起こっているのか、
昼なのか夜なのか、何月何日なのか、
自分が誰であるのかさえ忘れてしまうくらい、
全てのことが止まってしまったような状態でした。
それでもすぐに現実に立ち向かわなければなりませんでした。
前が真っ暗な中、正気に戻ると、
私は義父母と幼い子供二人の保護者になっていました。
私は気を引き締め、まず生計を立てるために
家の近くのレストランでアルバイトを始めました。
いくら韓国で大学を出て、
世界日報で6年間記者生活をした経歴があっても、
ここは日本です。
私は幼稚園生よりも日本語ができず、
風習も文化も何も知らないただの外国人であり、
異邦人に過ぎなかったのです。
毎日仕事の合い間を縫って新聞の記事をメモし、
レストランの同僚に聞きながら
一生懸命日本語を勉強しました。
夜には運転教習所に通い普通自動車運転免許を習得しました。
朝食を食べ、一歳と二歳になる子供たちを
自転車の前と後ろに乗せ保育園に送り、
そのままレストランに行き、約9時間立ちっぱなしで仕事をし、
終わるとすぐに保育園に飛んで行き、
子供たちを連れて家に戻る生活が毎日続きました。
このような生活がいつまで続くのかわからない未来に対する不安と、
私も夫のように突然死ぬかもしれないという不安、
そうなれば子供たちはどうすれば良いのかなどと、
緊張と心的負担、経済的負担などが重なり
一日一日どうすればいいのかわからず、
毎日疲れ果てて孤独でした。
結局胃潰瘍になり5年間も苦労しました。
家の中もめちゃくちゃでした。
義父は、違う宗教に熱心で、家も顧みず、
経済的にも社会的にも何もなく(仕事もしていなくて)、
村の自治体の人々はもちろん、兄弟とも仲が悪い状態でした。
一方義母は弱い体で、仕事をしながら一人
息子の為だけに生きて来た人でした。
そのような息子が自分よりも早く三十二歳で
霊界に行ってしまったので、
統一教会と韓国の女に奪われ早く死んだのだと
考えるようになりました。
そうでなくても嫁と姑の関係は難しいというのに、
日本人の姑と韓国人の嫁、さらには(その嫁は)
統一教会人というから言うまでもありません。
毎日が戦争でした。
☆
そんな中、私の唯一の楽しみは、年に一度
韓国の故郷に帰る事でした。
一旦、清平修錬苑に寄ってから行く故郷は、
唯一、私の心が休まる空間でした。
しかし故郷に帰れば緊張が解けるせいか、
食べては寝ての繰り返しで、体全体の力が抜け、
到底起きている事が出来ない状態でした。
楽しい時間は過ぎ、日本に帰る日が近づくと、
自然と緊張し表情が固くなり始めます。
その時から私は神様に
「お父様、また戻らねばなりませんか?
行かなかくてはいけませんか?」
と子供のようにしがみつき尋ねました。
空港のリムジンバスが終点に到着するまで祈りましたが、
神様は何の答えもくださらず、
私はいつも「もう一度頑張ってみます」と覚悟して涙を呑み、
重い足を運びました。
そのような生活の中でも私は神様に祈祷を捧げました。
それは「神様、十年間は家の中を整理いたします。
ですから十年後に摂理と関係ある仕事をさせてください。」
と祈りました。
2005年義父が亡くなった翌年から、
私は在日同胞団体である民団の事務所で働く事になりました。
摂理と関係した仕事をさせてくれるよう
祈った私の祈りは叶えられたのでした。
☆
義母とは生きている間に本当に多くの事がありました。
常に悩み、いつも苦痛の対象でもありました。
それ程沢山ぶつかったのです。
葛藤は夫が聖和した3ヵ月後から本格化しました。
義母は私に、「子供たちはうちの戸籍に入れるから、
あなたは韓国に帰るなり、他の人と結婚しても構わない。」
と言ったのです。
ひたすら一人息子だけを見つめ生きてきた義母は、
その息子が死んだ後、
私にそれまでのすべての恨みをぶつけ始めました。
両親の反対を押し切り統一教会に入った事、
韓国の女性と結婚した事、
早くにこの世を去った事など全てを
私のせいだと思われているかのようでした。
ある日私は義母にこのように言いました。
「孫達の愛全てを、この嫁の愛までも
全て体験しなければなりません。
家庭の平和、幸福が何なのか知るまで、
お母さんは絶対死んではならないし、
絶対死ぬようなことはありません。
私の許可無しにはいけません。」
その言葉を聞いて義母は涙を沢山流しました。
しかし義母が変わるのは簡単なことではありませんでした。
何かある度に
「この家から出て行け!」
と言われました。
私はその度に
「お父様、お母さんの世話をする者は私しかいません」
と祈祷すれば
「絶対にお前には面倒見てもらわないから何も言わず出て行け!」
と立ちはだかります。
その言葉を聞くと何度も家を出ようと思いました。
本当に家を出て行く準備をしたこともあります。
しかし初めて家を出て行こうと準備した時、夫が夢に現れました。
夢の中で夫は一緒に引越しの準備をしてくれました。
しかし準備が終わると最後の瞬間に、
背を向けていた夫が私に向かって
「ところで、絶対引越ししなければならないのかい?」
と聞くのでした。
あまりにも鮮明なその夢に私は引越しを取り止めました。
また一度は、今度こそ家を出て行ってやると意気込んでいると、
娘が私に
「お母さん、お爺ちゃんとお婆ちゃんが病気になったら誰が見るの?」
と一言言ったのです。
その言葉を聞いてまた考え直したこともありました。
そんな中、2001年義母が白内障で
手術をしなければならない状況になりました。
私は義母を病院に連れて行き、入院の手続きをしました。
それからは義母が
「家を出て行け!」
とは言わなくなりました。
その時から義母は私を信頼し始めたようです。
義父が亡くなった後、突然義母は険しい顔になってしまいました。
後で話を聞いてみると、義母一人だけ残し
私たちがどこかに行ってしまうようでそうしたのだそうです。
私が「お母さんを置いてどこに行くって言うんですか。
お母さん、私と子供たち無しで生きていけますか?」
と言うと泣きながら
「絶対生きていけない。」
という義母の手を握り、泣いた記憶が新鮮によみがえります。
義母は聖和する前、病院に連れて行く車の中で私に言いました。
「お前がいて、私の人生は幸せだった。
初めはお互いよく分からなくて、誤解もして喧嘩もしたけど、
私の人生は本当に幸せだった。ありがとう!」
と言われました。
思ってもみなかった義母の言葉に、
私はどれ程泣いたかわかりません。
聖和式が行われる間、義母が私の横に来て何度も
「私は幸せだ。だから泣かないで笑いなさい!」
と言われているのが霊的に分かりました。
過ぎ去った歳月はあまりにも惨めだったので、
あまり振り返りたくありません。
しかしそれは決して嫉ましいとか、悔しいからではありません。
むしろその歳月を通して神様が私と共に闘って下さり、
泣いて下さり、癒して下さった事がとても多く、感謝する次第です。
大母様が夢に出てこられ、
霊界の夫と電話を繋げて下さった事もありました。
義父が霊的に現れて共に朝の訓読会をしたこともありました。
難しい峠を越える度に、
「よく頑張った!」
と満面の笑みで慰労して下さる真の父母様を夢でも、
現実でもどれ程たくさんお会いしたか分かりません。
難しい状況であったからこそ感じる事ができた愛が
あまりにも大きく、私は本当に幸せな人間だと思っています。
ありがとうございます。
TPマガジン昨年の4月号より
☆
とても、長い証しですが、
皆様も吸いつけられるように読んでしまわれたと思います。
この方は、地域の母子福祉会総会で
「模範母子家庭」に選ばれ、表彰を受けました。
担当者の方から
「私は地方から嫁いできて、
同じ日本人でも言葉や風習が通じず
鬱病になるほどでした。
あなたは外国から嫁に来て、
日本に来て間もなく夫を失くし、
幼い子供二人を育てながら義母とも一緒に暮らし、
大変苦労されたでしょう。
だから今までの生活を慰労し功績を称えたいのです」
そのように言われて表彰を受けたそうです。
限界の限界を乗り越えて、
ご両親を愛し尽くしていかれました。
お義母さんから、
「本当に幸せだった、ありがとう」
この言葉はどれほど嬉しかったか知れません。
私は日本人であり、日本の地で生活していますが、
多くの食口たちは、韓国や海外にお嫁に行き、
そこで苦労していることを知っています。
言うにいえない苦労を抱えている姉妹から
相談を受けたこともありますが、
その時、私からは、それほど的確なアドバイスを
してあげることができなかったように思います。
ですから、この婦人の歩みこそ、
海外で苦労している食口たちに
少しでも励みになるのではないか・・・
そんな思いを持って、今日は紹介させていただきました。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
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曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)