北朝鮮の刑務所の
耐え難い環境の中でさえ、
お父様は一日三回ずつ
私たちのために祈られました。
その愛を
どのように表したらいいでしょうか。
耐え難い環境の中でさえ、
お父様は一日三回ずつ
私たちのために祈られました。
その愛を
どのように表したらいいでしょうか。
☆
聖歌の編纂委員として活躍しておられる
天野照枝先生の書かれた『聖歌のめぐみ』という本があります。
4番『栄光の賜物』を解説している文章に
金元弼先生の証しが書かれていました。
興南解放後のお父様のご様子です。
☆
北朝鮮の刑務所の耐え難い環境の中でさえ、
お父様は一日三回ずつ私たちのために祈られました。
その愛をどのように表したらいいでしょうか。
解放されたお父様は、
歩いて平壌にまで来られました。
お父様が牢屋を出るときは、子女は走って侍り、
慕って、迎えに行くべきだったのに、
それをしませんでした。
神様はそれを喜ばれず、叱りたいのです。
お父様はその神様の心を知って、
人を遣わして、今からでも食口が迎えにきた
条件を立てさせようとされました。
そのようにして捜されたのです。
牢屋にいるとき食べないで、
ためておかれたはったい粉を持ち帰られ、
練ってお餅を作り、残った食口に分け与えられました。
お父様は苦しみに追われる生活はなさらない。
もっと苦しみを追求される方です。
父母は子のために、そう生きるのです。
☆
ただでさえ生きることが大変な状況なのに、
毎日、食口のために三回祈りを捧げ、
しかも、牢獄で取っておいたはったい粉で餅を作り、
食口たちに分け与えられた真のお父様でした。
お父様の愛の基準というものは
かくも凄まじいものであると感じます。
興南の辛い路程の中で、食口たちの存在が
お父様の大きな支えだったのでしょう。
会いたくて会いたくてたまらなかった
愛したくて愛したくてたまらなかった
お父様であったのだと思います。
食口たちに対しては、
弟子という基準を超えて、愛する子供という
感情しかなかったのではないでしょうか。
しかも、食口を叱りたい神様を慰めるために
自ら食口たちを訪ねていかれたのです。
神様と私たちを結びつける
仲保者の立場になって歩まれるのが、
真のお父様なのです。
興南解放は1950年。
真のお父様が30歳のときです。
30歳のお父様の真の愛の世界。
愛の基準はあまりにも高いので、
その高みにどこまで近づくことができるのか、
果てしない道のような気がするのですが、
しかし、その方を『真のお父様』
とお呼びすることができることが
ただただ感謝だと思うです。
※ 冒頭の写真は、調布教会HPのコンテンツ『Google Mapで訪ねる主の路程』の中で最初に発表された収容所の写真です。同コラムを書いた方によると、この収容所は、日本が戦時中に連合国の捕虜を収容していたものであり、興南近くの『興徳里』にあります。真のお父様が興南で強制労働されていた時期にこの収容所は存在していましたが、お父様が収容されていたのは『徳里』の収容所ですが、ここに収容されていたという決め手がありません。参考資料・参考情報としてとらえていただければ幸いです。
「栄光の賜物」
はるかに輝く栄えの光
強く生きよ自由の生命(いのち)
この地の果てまで目覚め立て
生命の光 永久(とわ)にあり
生命の光 永久にあれ
呼びて求むる栄えの主よ
大いなる姿は 天地(あまち)を抱き
「蘇(い)きた生命はいずこに」と
尋(たず)ぬる君を如何(いか)に迎えん
尋ぬる君を如何に迎えん
死から蘇きたこの我は
蘇かしたお方に抱(いだ)かれて
永久の愛と恵みの声
いついつまでも喜びを
いついつまでも讃(ほ)めまつれ
栄えに入るのも主の恵み
愛に満つるも主の恵み
崇め崇めて奉(まつ)れども
足らぬこの身を如何にせん
足らぬこの身を如何にせん
作詞:文鮮明先生
1950年11月
興南解放後、平壌で弟子たちを探す
40日路程の最中に作られました。
興南解放後、平壌で弟子たちを探す
40日路程の最中に作られました。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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