2015年07月04日

(証し)「私にはメシヤが必要です!」 『一対一訓読』で心情が解放!!



10868014_407582376058833_6536827625093299097_n.jpg


ここでつらい鍛練を受け、
試練を受けるのは、
これから迫りくる試練の実戦場で、
敗者のつらさを味わわないためです。

ここで食べることは、
生涯の何ものよりも貴いのです。
ここで寝起きすることは、
どんなことよりも貴いのです。


93日路程も、36日目となりました。
お父様が数えで36歳のこの年は、
前年の梨花女子大事件、以南出監の余韻で
多くの迫害があった頃です。



韓国での、1955年以降の統一教会に対する
とんでもないデマは、悪いイメージとして後々まで残りましたが、
日本においても、1992年以降の
偏向報道が吹き荒れた影響が
いまだに残っているのではないかと思います。
統一教会をオウム真理教と同等の
恐ろしい邪教集団と思っておられる方も多いようです。

今日の証しも、そのように思っておられた方が
伝道された証しです。



「心を込めた『一対一訓読』で
ゲストの心情が解放される」

この方は、当時58歳で信仰の体験もなく、
神や霊界など見えない世界のことは考えることなく
現実的で、常識的に生きてこられた真面目で冷静、
人に配慮できる知恵のある方です。

初めて霊の親が訪ねて来て「統一教会」と聞き、
大変驚いたそうです。

それは、あれだけひどく世間から言われ統一教会はなくなったはず、
解散したと思っていたのにまだ存在しており、
しかもこのように訪問してきたからです。
また逆に、そこには何があるのだろう?と関心を持ったそうです。

霊の親が8か月間にわたり訪問し心情交流する中、
その情熱に負けて、受講決定したといいます。

しかし、来場したものの
DVD映像講義や2日修練会は一方的で、
洗脳されるような気がしたらしく、
警戒心が出てみ言が素通りして、
学ぶ価値を見いだせないまま4ヶ月が過ぎていきました。

その頃、一対一訓読の証しがあり、
「これだ!」と思い、ゲストと一緒に感動したいという思いで、
早速はじめました。
訓読は形式にこだわらず、知識のためでもなく、
一緒に考え、心で感じるようにスタートしました。

コーチングスタイルで原理講論の一言一句、接続詞も大事にして、
イメージして頂きながら行いました。
心を込めて一対一訓読することにより、担当する私自身もゲストも
共に気付いていない自身の神性、本性との出会いがあり、
驚きと感動と発見がたくさんありました。
これは、言葉では伝えきれません。

ゲストは統一教会も一宗教にすぎないと思ってきたのが、
一対一訓読で原理は統一教会の教理ではなく
人間にとっての根本原理だということ。
また、神様は創造の神、親であること。
そして人間はどんなに修業を積んでも消えない罪を
血統的に受け継いでいるので、
この原罪を清算し、神の血統へと
復帰されなければならない存在だという原理観を持つことができました。

一対一訓読でゲストの心情も解放され、
「私は結婚してみたものの価値観の違いでぶつかった時から
『結婚ってこんなもんか…』とあきらめて情を切ってきました」
と話され、でもこれは、
「私がサタンに自分を主管する権利を渡して
自分をごまかして生きてきたんだ…」
と気付かれ、「今までごまかして生きてきたけれど、
本心はごまかされなかった。
それで、心はいつも晴れなかった。」
と心の内を吐露されました。

これからは、神様に信頼される自分にならなければと思い、結婚40年目を
迎えられた今年、条件を立てて行くことを決意されました。

その翌日が、ゲストが還暦60歳を迎えた誕生日でした。
心晴れ晴れ迎えることができ、
「本当の正しいことを自分は捜してきました。
今度は正しい見つめ方ができるようになりたい。
だからメシヤが必要です」
と更に学んでおられます。



素晴らしい証しです。
2年がかりで投入しても、み言に相対しなかった人に対し、
「これだ!」と思って開始した
一対一訓読の中で、その人の心情が解放されていきました。

み言には力があり、
命を生かす貴い宝物です。
しかし、そのことを私自身が実感しなければ、
人に正しく伝えることができないのだと思います。

一対一訓読は『伝道哲学』だといいます。
ただ単にみ言を伝える手段ということではなく、
一対一で訓読することにより
その人に責任をもって、愛していく。
そして、私たちも、共に成長していくのです。

私自身がみ言によって生みかえられている、という
自信と確信の波動を持って
これからも多くの人たちにみ言を伝えていきたいと思います。


応援のクリックをお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ


青坡洞本部教会を中心とした内的基盤

狭くて不便な空間

 先生の家に入ると、そこは真っ暗な洞窟の中と同じで、どこから入ってどこに抜けるか分からない、一方にだけ通じた道のようです。寄付をもらいに入ってきて、「金はない」と言えば「それはそうだろう、こんな所に金があるか」と、そのように思うのです。

 しかし先生は、洞窟のような、とても小さくて、ちっぽけな家に住みながらも、世界を一度料理してみようという夢をもっています。この夢の中で踊りを踊って、別の夢の中でも同じ踊りを踊ることができてこそ、二つの世界を主管できるということを知らなければなりません。それは先生が見ても、むちゃくちゃです。

 この狭い空間に人が多くて不便だと感じ、逃げ出したい人があれば、席を早くたってください。狭い場所に多くの人が座っているので、無理なことは分かります。しかし、我々だけがこれを知っているのではなく、神様は一層よく御存じなのです。先生は神様に「我々の教会を建ててください」という祈祷はしませんでした。こういう場所にいることを、むしろ光栄に思っているのです。昨晩も、あの門の後ろで押したり引いたりしながら、互いが入ろうとして大騒ぎでした。それを哀れだと思わず、眺めておられる神様の切ない心情を慰めてあげるために、「一時はこんなことがあっても良いことではないですか」と祈祷できる気持ちをもって参加した人がいなければなりません。このような環境は、悲惨な境遇にある我が民族だけがもつことができる、真実なる財産であり、蕩減復帰できる材料となるのです。

 ここでつらい鍛練を受け、試練を受けるのは、これから迫りくる試練の実戦場で、敗者のつらさを味わわないためです。ここで二重三重の試練を受けて、新しい信念で武装しなければなりません。ここで食べることは、生涯の何ものよりも貴いのです。ここで寝起きすることは、どんなことよりも貴いのです。


痛哭と涙で染み付いた祭壇

 ここは、血のにじんだ涙の歴史がある所です。ここは、天と共に、地と共に、天地人類が、心情をぶちまけて痛哭する祭壇です。祭壇は悲惨なものです。歴史的な祭壇であるこの家に入る時、門の外から涙を流しながら入ってこなければなりません。私には豪華絢爛な家よりも、この家のほうが貴いのです。たとえひびが入っていたとしても、そのひびは歴史的な風霜を表しているのです。歴史的な痕跡なのです。皆さんは、この家の傷を見ながら、「お前の傷はいまだにいやされていない」ということを感じなければならないのです。

 この家は、歴史的な行事を行った場所であり、天と地が痛哭した場所です。多くの人々が痛哭した場所です。血を流し、身もだえしながら訴えた場所です。永遠に忘れられない事情で結ばれた、涙の痕がにじんでいる所なのです。涙でにじんだ神聖な祭壇です。みだりに入ったり出たりする所ではありません。先生は、そのようにはしませんでした。

 先生が精誠を尽くしたこの基地を、皆さん自身が蹂躙してはなりません。皆さんはこの青坡洞の路地に入る時、統一教会はさすがに神の六千年歴史を経てきた、天のみ旨を成してきた教会であると感じなくてはなりません。そのような青坡洞の路地を行きながら、すすり泣き、涙でにじんだ歩みができない人は、天の人にはなれないのです。私はそのように信じています。

 この床で涙し、この床にひれ伏して祈祷する時、この場所が、神様が千年、万年待ち焦がれた願いの一つの拠点であるということを感じたことがありますか。骨髄が痛哭し、血と肉がふるえる心情で、我が身のすべての意識を忘れ、涙のみをもって始め、涙のみをもって終えた悲しみとやるせなさが「私」を占領したことがありますか。自分の環境を忘れ、訴えたことがあるのですか。そのようなものが皆さんの生活の中になければなりません。

 みすぼらしい本部を眺めながら、「私が精誠を尽くしてきた所が、こんなことでいいのか!
私はいかなる犠牲の代価を払っても、この本部を、どんな教会の本部よりも立派なものにしてみせる」と決意し、その場で天の前に、涙とともに訴える人がいるなら、その人は誰よりも次元の高い、天の懐に抱かれ得る、良い同志になるだろうと思います。

真の御父母様の生涯路程 より


※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)