人類の真の父母として
来られた方は、
肉身の十字架ではなく、
心情の十字架を
背負っていかれるのだ
来られた方は、
肉身の十字架ではなく、
心情の十字架を
背負っていかれるのだ
☆
「日本統一運動NewsLetter」最新号に
李海玉サモニムの証しが載っていました。
一部のみ、編集して紹介します。
☆
真の父母様の路程を考えてみるとき、胸が痛い内容があります。
私はキリスト教の出身ですが、キリスト教が文化的に根を下ろし、
驚くべき影響力をもつように至ったのは、十字架があったからです。
イエス様がもし十字架を担わなかったならば、
十字架上でドラマチックに逝かれることがなかったならば、
あれほど多くの人々を感動させることはできなかったでしょう。
「私の罪の故にイエス様はあのように血を流して逝かれた」
という事実一つとってみても、人々は感動します。
これがキリスト教徒になっていく道なのです。
主の流された血の十字架を私も担うという心持ちで、
数多くのキリスト教徒たちが殉教の道を歩みました。
私たちの真の父母様はどんなお姿なのでしょうか。
私が統一教会に入って一番悩んで葛藤したのが、その点なのです。
イエス様はあのように十字架を担われましたが、
私たちのお父様はサングラスをかけ、かっこいい服を着られ、
立派な車に乗られ、立派な家に住んでおられました。
「お父様は私が想像してきたメシヤとはイメージが違う。
私はこれをどう受け止めるべきなのか」ということは、
統一教会人としての私の宿題、信仰の挑戦でした。
1998 年にブラジル・ジャルジンで理想家庭のためのセミナーがありました。
そのときにお父様がくださったみ言の中に、
「父母になると、子供から放たれる矢もすべて涙で耐え、
子女から与えられる喜びだけを記憶していこうと考える。
子女のためにすべてを犠牲にしていくのが父母の道だ」
という内容がありました。
そんな中、実際に大変な事件がアメリカで起きたのです。
孝進様の前夫人の事件です。
テレビに出たり、本を出版したり、
お父様に対する多くの非難を行いました。
お父様のそのみ言が、私の胸の奥に深く刻まれました。
「人類の真の父母として来られた方は、肉身の十字架ではなく、
心情の十字架を背負っていかれるのだ」
ということを初めて深く悟らされたのです。
その瞬間から、お父様が全く別人に見えるようになりました。
お父様はいつも孤独で寂しい方だと感じました。
お父様が歌を歌われても、まるで泣いておられるかのように見えました。
お父様の心情世界というものを感じさせて頂く契機となりました。
今は真のお母様も同じ道を歩んでおられます。
多くのご子女様がおられますが、ある子女様から放たれる
特別な心情の十字架(矢)を受け取っていかれるお母様なのです。
そのような父母様の痛みを目の当たりにしながら、
私たちはどのようにして子女という名前を相続できるでしょうか。
子女というのは、血統だけをもって受けるのではありません。
世の中に数多くの子女たちがいますが、
自分が生んだからと言って、子女たちの心情は分かりません。
心情を理解し合うというのは簡単ではないのです。
本当の子女になるとは、心情の子女になるということです。
天地人真の父母様が一生を通じて行かれた心情の十字架の道
に少しだけでも同参しようという心情になるとき、
「私が子女です」と天の前に言えるのではないでしょうか。
☆
人がどんな心情を持っているのか、
その人にしかわかりません。
ただ、本当に求めれば、理解することができるのだと思います。
統一教会に対して、真のお父様に対して、
さらには、真のお母様に対しても、
どんな動機、どんな思いで見つめるかによって、
深い心情の世界を推し量ることができます。
それが、李海玉サモニムが語られている
『心情の子女になる』という言葉だと思います。
『真のお父様の道は心情の十字架の道』
私がこのみ言を最初に味わったのが、
拉致監禁のときでした。
愛する親を『裏切って』偽装脱会して、
教会に戻るということ。。。
これは、私にとっては苦渋の選択であり、
言葉に表せない複雑な思いがありました。
しかし、お父様も愛するお母さんが、興南に訪ねてきたとき、
心を込めて持ってこられた食べ物や衣類を
すぐに他の囚人にあげてしまわれるという
あまりにも非人間的な行為を行いましたが、
お母さんの愛情を誰よりも知っていたお父様でした。
そんなお父様の心情の世界の一端を
拉致監禁のときに共有することができました。
『心情の子女』になることを肝に銘じながら、
孝行の心情で歩んでいきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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