真のお父様は、地獄の底をも
天国に変えていくことができるお方なのです。
天国というのは場所の名称ではありません。
愛がある所が天国なのです。
天国に変えていくことができるお方なのです。
天国というのは場所の名称ではありません。
愛がある所が天国なのです。
☆
今日は、周藤先生の説教、
とても長いので、一部抜粋して紹介します。
☆
カインは、いつも大きな基盤を握っています。
しかし、アベルはいつも何もないところから出発しなければなりません。
カインの背後にはサタンがいて、すべてを握っているのです。
無一文で裸一貫のアベルが、どのようにしてカインの手からすべてを、
神様に捧げさせることができるかということです。
カインの背後にはサタンがいて、そのサタンを屈伏させなければ、
カインの本心は目覚めないのです。
それでサタンを屈伏させるために、
サタンができないことを成し遂げなければならなかったのです。
サタンはお金を持っているので、お金を見せても屈伏しません。
また、サタンは人材を持っているので、人材を見せても屈伏しません。
そればかりか、サタンは権力、学問、哲学、神学をもってしても
屈伏したためしがないのです。
「原理」でサタンが屈伏しますか?
皆さんは「原理」があれば、サタンが屈伏すると思うでしょう。
しかし、そうではありません。
サタンは「原理」を実によく知っているのです。
真のお父様の偉大な発見は、サタンが及ばないその一点を見つけたことです。
それが犠牲の愛なのです。
本来、愛は喜びの愛ですが、復帰摂理における真の愛は、
犠牲の愛となって表れるのです。
この犠牲の愛、それだけはサタンができないことなのです。
皆さん、サタンが自分を犠牲にして他の幸せのために
尽くしている姿を見せたことがありますか?
サタンが祈祷室に入って涙を流しながら、
神様に「どうか、このかわいそうな人たちが、一日も早く解放されて、
あなたの前に帰ってくることができますように」
と、祈っているのを見たことがありますか?
サタンが路傍に立ち、一生懸命に人類の幸せのために
訴えるのを見たことがありますか?
サタンは自分を犠牲にして、他の幸せのために生きることはできないのです。
なぜなら、サタンの本質は自己中心だからです。
もし、サタンが自分を犠牲にして、他の幸せのために尽くすなら、
もはやサタンはサタンであることができないのです。
皆さんが、他のために犠牲になり、尽くすとき、
それまでついてきたサタンは、離れていくのです。
屈伏するのです。
「今までの君は自己中心だったから、おれと同じクラスメートだった。
生涯の親友だったのに、私を裏切ることをするのか!」
と言って、サタンはついに離縁状を出すのです。
これがサタン分別です。
真のお父様のメッセージの中心は、そのように己を犠牲にしたとき、
サタンはついてくることができなくなり、
皆さんの前に屈伏していくということです。
そして、サタンが去って行けば、カインの本心が目覚めて、
神様のみ言を聞き、そのカインが持っているすべてを捧げてくるのです。
これがサタン屈伏の秘訣、すなわち、長子権復帰なのです。
サタン屈伏のこの秘密を探し出し、その秘密が絶対的に
不変の真理であることを確信し、
生涯を懸けて実践してこられたのが真のお父様なのです。
☆
真のお父様は、興南収容所での証しをされたことがあります。
興南収容所の工場では、病気であっても働かなければなりません。
ある時、ある病人が働いて帰ってきて、
与えられた食事を一口、二口、口にした瞬間、
ガクッと倒れ、そのまま死んでしまったのです。
そこに二人の囚人が走って行きました。
それを見ていた真のお父様は、倒れた人を助けようと
走り寄ったのだと思ったそうです。
ところが彼らは、今死んだばかりの死人の口をこじ開け、
残っていたご飯を口から引き出して食べたというのです。
そのような所であっても、真のお父様はご自分に差し入れがあれば、
すべてを囚人たちに分け与えられました。
真のお父様は、サタンのできないことをしていらっしゃるのですから、
みな感動するのです。
ある時、囚人たちがお風呂から帰り、服を着替えようとすると、
自分たちの上着のポケットが少し膨れていました。
ポケットを開けて見ると、新聞紙に包まれた、
はったい粉(麦を炒って粉末にしたもの)が入っていました。
それを見た囚人たちは、どれほど感動したことでしょうか。
囚人たちは、それをだれがくれたのかと尋ねる者はいませんでしたが、
だれがくれたのかを知らない人もいませんでした。
それから囚人たちが廊下を通って外に出ようとした時、
真のお父様が外から帰って来られ、ばったり出会ったのです。
囚人たちと真のお父様は、しばらく見つめ合ったまま立っていたそうです。
すると、その囚人たちの目から、熱い涙がはらはらと流れ出たのです。
その涙は、感謝の涙であり、慕わしさの涙であり、尊敬と畏敬の涙だったのです。
それをご覧になっている真のお父様の目からも、熱い涙が流れ出しました。
その涙は、いとおしさの涙でした。
真のお父様は、「その時、先生の胸は喜びに震えたよ。
皆さんもそのような経験がありますか?」とおっしゃいました。
私たちが「ありません」とお答えすると、
「先生にはそれがあるんだよ」と語られたのです。
このように真のお父様は、地獄の底をも
天国に変えていくことができるお方なのです。
天国というのは場所の名称ではありません。
愛がある所が天国なのです。
興南という地獄において、生命より大切な食べ物を犠牲にしながら、
囚人たちが食べて幸せを感じるその姿を見て、
うれしくてたまらないという真のお父様の心情の前に、
どうしてサタンが文句を言うことができるでしょうか。
真の愛の前にサタンが屈伏したのです。
自分を犠牲にして、相手の幸せを喜ぶ、
その真の愛の心情の前にサタンはどうすることもできなかったのです。
☆
このみ言は、1979年12月30日聖日、
真のお父様が米国のベルベディアで、朝6時から語られた説教
「摂理から見たアベルの正道」を参考にして語られています。
11時間半にわたって語られたみ言の本質は、
「真のアベルの道は、真の愛、犠牲の愛の道」です。
私たち一人ひとりがお父様の基準を丸ごと相続するというのは、
簡単な道ではありませんが、少しでも相続できればいいのだと思います。
そして、それがまさに神氏族メシヤの道なのだと思います。
昨日も礼拝のあと、路傍伝道をしました。
35度、猛暑の中、熱中症になるんではないか、
それでも感謝して歩みました。
私一人では感謝できなかったかもしれませんが、
歩み続ける中、みんなの精誠の実りも
最後の最後にありました。
周藤先生の語られるように、
「サタンはこんな暑い中、路傍伝道はしないよな」
そんなことを思わされました。。。
また、途中であきらめて帰ってしまったとしたら、
どうだったでしょうか。
サタンは私たちをあきらめさせようとし、
決意していた思いを、途中で萎えさそうとしますが、
ヤコブがヤボク川で天使との組み打ちに勝利したのも
勝つまであきらめなかったからです。
そういう意味では、伝道はサタン分別なのだと実感します。
これからも頑張っていきます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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