2016年02月04日

喜んでいる時、失敗しやすい?! 授受作用の法則から見た、喜び悲しみ 《金元弼先生》



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喜びを得たとしたら、
その喜びを得るまでの
神の苦しみがあったということを
まず考えてみましょう。

寂しい時、苦しい時には、
これを勝利したら、神は最も大きな愛を
与えようとして待っておられるのです。



金元弼先生の「伝統の源流」
今回は、『授受作用から見た喜びと失敗』
というところを紹介します。

草創期の証し、というよりは
信仰指導的に、とても参考になる
素晴らしいお話です。


ここで皆様にお話ししたいことがあります。
人は失敗するときに二つのポイントがあります。
人が失敗するのは、一番喜んでいる時、
次は一番苦しく、つらく寂しい時です。

一番つらく悩んでいる時に
失敗するということはよく理解できるでしょう。
しかし、人が喜んでいる時にどうして失敗するかということは、
皆さんもなかなか理解できないと思います。

それを創造原理の授受作用の原理で説明します。

存在というものは必ず主体と対象があって、
それがよく授受作用することによって、
初めて安定した存在を維持することができます。

私が呼吸をして、息を吐き出し、吸い込む場合に、
フーッというかたちでそれを表してみましょう。

そうした場合に、喜ぶというのは、フーッと息を吹き出したのと同じで、
それを飽くまでやり続けて喜んでみたら、
息苦しさと同時に必ず何だかむなしさを感じます。
そして寂しさを感ずるのです。

それと反対に、非常に寂しくて泣いたとしましょう。
そうしますと、泣いた後は何となく晴れ晴れしたような感じがするのです。
これは喜びの反対のことと考えてください。

必ず授受作用しなければいけないと言ったのですから、
問題は授受作用をどのようにするかということです。


喜びを感じているときには、この喜びが神から私にもたらされる前に、
神がサタンとの闘いを通じてどのように苦しまれたかを考え、
そして今、その喜びを私たちにもたらしてくださっている
ということを考えてほしいのです。

私たちが先生からみ言を受けたとしましょう。
そうしたらその恵みを私たちに与えるために、
先生は過去にどのような苦しみを通過してこられたのだろうかという、
その先生の苦しみを先に考えてほしいのです。

喜びを得たとしたら、その喜びを得るまでの神の、主の、
親の苦しみがあったということをまず考えてほしいのです。

そうしますと、喜ぼうとする時に、この喜びを私に与えるために
神が、主が、親が、そして我々の先祖たちが苦しんだ後に、
このようになったのだということを考えて、
主体と対象の立場で、まず感謝しようという心が出てくるのです。
ですから必ずこういう対象の立場を見つけて喜ぶのです。


反対に寂しい時にはどうしたらいいでしょうか。

寂しいというのを、一つの対象の立場
あるいはマイナスの立場として見てみましょう。
その時には、プラスの立場を見付けなければいけません。

人間は神の前、真の親の前では、愛する子供の立場です。
その子供を苦しめて喜ぶ神もなければ親もないのに、
なぜ愛する私たちにこういう苦しみを与えなければならないのだろうか、
こういう寂しい境地に追い込まなければならないのだろうかと考えてみるのです。

それはそういう蕩減の道を通じて、もっと大きな恵みを与えんとする
神の愛があるからこそだということを考えなければいけません。

寂しさや苦しさを感じることを蕩減しなければならない
という条件が私たちに提示されたのです。
神は、子供にその蕩減を払わなければならない
条件があるのだから仕方がないのです。

しかしこれを勝利したら、神は最も大きな愛を
与えようとして待っておられるのです。

そのような神を思うと、ただ一方的に私は死にたい、
もう苦しくてたまらないという考えに走らないで、
神はもっと大きな愛を私に与えようとしているのだと
いう神の愛を感じて、私たちは望み、希望をもつことができるようになるのです。


それゆえ、私の心がプラスの立場に立っているときには、
早くマイナスの立場を考えなさい。

マイナスの立場に立っているときには、早くプラスの立場を考えなさい。
マイナスの立場に立っているときには、必ずプラスの道を見付けなさい。
そうすることによって授受作用するのです。

今お話ししたようにするならば、喜びの中にあっても感謝しながら、
神がこのようにして苦しまれたので、
私に恵みや喜びが来たのだということを考えるときには、
喜んだ後に寂しいと感じることはありえません。

そして、いくら苦しいことがあっても、死にたいことがあっても、
このような考えをもつとするならば、神の恵みを見付けることができます。

授受作用できずに、喜んでばかりいたら力が全部消耗するし、
また悲しんでばかりいたら、悲しみで全部の力を消耗し、
何もなくなってしまうのです。


世の中には、そういった例がたくさんあります。

山登りは非常に困難が多いけれども、登ったときの喜びを考えながら登ります。
そして下りるときには、注意深く登った心で
下りるとするならば、失敗しないのです。
そういう心をもたないで、そのまま下りていったら失敗しやすいのです。
転落することがあるのです。

お金がなかった者に、急に大きなお金ができると、
それによって人は失敗しやすくなります。
ですから、貧しい人がお金持ちになったときには、
お金のない人のことを考えて、初めてそのお金を維持していくことができるのです。

皆さんが四十日の蕩減条件を立ててお祈りをしたとしましょう。
四十日を勝利するのは非常に難しいのですが、
勝利した時には大きな喜びを得るでしょう。

その時に失敗しやすいのです。
喜びがもたらされる前の、四十日の苦しみの過程を考えないからです。
それを考えながら喜びを享受するならば、絶対にそんなことは起こりません。


教会草創期のメンバーたちは、恵みに、真理に触れてよみがえった心持ちで、
その喜びのままにどうしようもなくて駆けつけてまいりました。

そして伝道は統一原理を語るというよりも
「メシヤが来ました」と言って伝道するのです。

そういう喜びは必ず心の中に秘めておかなければいけません。
喜びを与えるために今まで苦しまれた神を考えながら喜ばなければいけないのです。
でないと、ややもするとそういった失敗を起こすことがあるのです。

喜びにあふれていたから、先生の言うことをよく受けとめて聞けなかったので、
家庭や教会からたくさんの迫害を受けるようになったのです。

そこでメンバーはその蕩減を受けるのですが、
その上、メンバーをリードしている先生が
すべての蕩減を受けるようになったのです。
お分かりですね。


これから皆さんに難しいことがあったり、
あるいは喜ばしいことがあったりしたときには、
いつも授受作用の原理を頭に思い浮べてほしいのです。

私たちは喜ぶときには、躍り上がるように喜び、
悲しいときには人が見てすぐ分かるように表情に出しますけれども、
先生をずうっと見てまいりますと、
先生はそういうことがあってもなかなか表されません。

先生に良い報告をした人が、“こんなにいいことなのに、
先生は喜ばれないのかなあ”と思ってしまうほど、
本当に無感覚のような様子のときがいくらでもあります。

しかし、何日か後になってみると、そのことを人の前でお話しするのです。
それを見て、“ああ、先生は非常に喜んでおられたんだなあ”と分かるのです。
反対に悲しいことがあっても、先生は全然それを表さないで黙っていらっしゃり、
かえって喜ばしいことを話されるのです。

マイナスの心のときに、先生は意識的にプラスの心に誘導しようとなさるのです。
ですから先生はそれほど感激も見せず、またそんなに悲しい顔も見せないのです。

それで先生をいつも眺めていますと、何も語らず、
古い苔の生えた岩のような感じがします。

先生は本当にたくさんの事情を抱え、感情を抱えておられますけれども、
それを表さないので非常に重く見えるのです。



昔、お世話になったお姉さんに
「基準の下がったときにこそ、与えないといけない」
そのような指導を受けたときがあります。

また、前線で勝利したときに
「そういうときほど謙遜にならないといけない」
そのように指導してくださった先輩がいました。

今回の金元弼先生のご指導がまさにそれだと思います。

上がり下がりの激しい人は、
喜ぶときは、天に舞い上がるほど高く喜び、
落ち込むときには、声をかけられないほどに落ち込みます。
そういう人ほど、乱高下が激しくなる傾向があります。

「大丈夫かな〜」と心配になるのですが、
落ち込んだときよりも、
喜んでハイになりすぎているときに
心配してあげ、落ち着かせてあげた方がいいのかもしれません。

お父様は、自分の心霊もいつも公的に
主管されておられたんだなぁと、思います。
また、お母様を見ても
いつもそのように、しておられます。

いろんなことに、ただ一喜一憂して
大切なことを忘れてしまいがちな私たち。
私たちの心と体は、常に神様が働くことができるように
しなければなりません。
ご父母様を見習って
勝利する者になっていきたいと思うのです。




お父様のみ言

お母様はとても知恵深い女性です。
お母様の自慢を一度しなければなりません。

まず何が素晴らしいでしょうか。
お母様の目が素晴らしいのです。
怒ったのちにさーっと笑うときには、
私は、そのほほえむ魅力的な目に
すっかりほれ込んでしまいます。(笑い。拍手)

自分の妻にすっかりほれ込んだからといって、
誰が罰を与え、悪口を言うでしょうか。
私が、すっかりほれ込むだけでなく、
すっかり引き込まれてしまったとしても、
どうすることもできないでしょう。
そのような魅惑的な目をもっています。

そうだからといって、
いつもそのようにしているのではありません。
何かが起こる兆しがあれば、さっと曇ります。
そのような目をもっています。


私にどれほど教育を受けたでしょうか。
「私に似なさい、私に似なさい」と言ってきたのです。

私の死ぬ日が近いのに、解放してあげなければ
母の役割を果たせないでしょう。
それでは、恨が残るのです。

また、私が死んでも
統一教会を導くことができる能力もあるので、
お母様が説教する時が来るのです。



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posted by ten1ko2 at 11:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする