2016年03月28日

子どもが「めんどくさい」を多発するとき?! 個性を認めて愛してほしい! 《家庭力UP↑講座》 



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「個性真理体」という言葉があります。

私たち人間は、それぞれ十人十色の違いがありますが、
一人ひとりは、大切な神様から与えられた存在です。

子どもも、同じ兄弟でも、
みんな違って、みんないい、という
個性を持っています。


昨年、地区の二世部長さんが
ご自身のお子さんの証しをしていました。

家族で、学校の運動会の話題になりました。
二人の娘さんは足がとても速く、
徒競走ではいつも一番。

そして、お兄ちゃんはとても足が遅いのです。
お兄ちゃんに徒競走の順位のことを振られると
一瞬気まずい雰囲気になりました。

その時、彼は一言
「それを言っちゃあ、お終いよ」
それで、場の雰囲気が盛り上がったそうです。

二世部長さんは、「彼は凄い!」
そう思ったと言います。


保護者面談でも
先生に言われたことがありました。

「学校で男の子と女の子の間で、
とてももめたことがあり、このままだと
大変な状況になるな。。。
そんなときがありました。
その時に、〇〇君の一言で
みんな爆笑して、別の話題に代わったことがありました。
なんというか、天才的ですね」

やはり、一人一人に
個性真理体というものがあるのだと
改めて実感したそうです。


「個性真理体」について、
以前紹介した内容ですが
多田講師の家庭力アップ講座からどうぞ。


今回は、愛が子供に届く三段階について紹介します。

その第一は、愛することで「個性真理体」を確立する。
このことについて学んでみましょう。


「個性真理体」は、自分の存在を肯定する感覚を育てます。
子供の心が、安定して、何事にも前向きになるのです。

皆さんは、「個性真理体」という言葉をご存知ですね。
これは二つの言葉から構成されています。
「個性」と「真理体」です。

まず「個性」というのは、神様と私たちは、親子ですから、
親なる神様は子供に、世界にたった一つの特別な個性を与えてくださり、
その個性を愛してくださっているわけです。

ですから、「個性」というのは、私たちの
他のどこにもない「独特性」のことです。

また、「真理体」というのは、神様が私たちに与えてくださった、
誰でもが持つ、普遍的に共通するものです。


人間には、目があり、口があり、鼻が、
誰にでも同じように顔についています。
すなわち、「真理体」というわけです。

目や口や鼻の大きさや形や太さなど、同じ人はいません。
これが「個性」ということになります。

私たちは、一人ひとりが、「個性真理体」として神様が愛で育み、
認めていただいている尊い大切な神様の子女です。


また、神様は家族というものも同じように
愛と真理で育んでくださっているわけです。

子供が、「個性真理体」として認められるためには、家庭の中で、

第一に、自分はここにいるべき存在だ。と感じることが大切です。
第二に、周りの家族は、自分の存在を喜んでいてくれる、と感じることです。
第三に、自分の存在が家族に幸福をもたらしている。
第四に、私は自分が好きだという感覚を持つ。
第五に、自分を愛してくれる人がいる。という実感が大切になります。

子供がこのような内容を実感してこそ、
「個性真理体」として家庭の中に存在できるようになるのです。


しかし、現実は様々な環境の中で、
また最も大切な親子の絆が薄くなることによって、
多くに子女たちは、心が正常に、つまり素直に働かなくなってしまい、
素直さが乏しくなっているのです。

それによって、子供の口から、「めんどくさい」とか、
「疲れる」とか、「自分が好きになれない」とか、
「忘れた」とか、「苦労したくない」という言葉が
多く出てくることが見受けられます。

これは、愛の減少感を感じている結果としての表現なのです。
つまり、「個性真理体」として認められていないのです。
このような言葉を発することで子供としての
メッセージを親たちに送っているのです。


ひとつの例題を紹介します。

26歳の独身の女性に一体一で4日間、原理講義をしたことがあります。
講義をしながらいろいろと話をしましたが、
その女性の話が「めんどくさい」とか
「忘れた」とか「疲れる」との話が多いのです。
なかなか気持ちが前向きにならないのです。

3日目は、山にでも登ったらいいのではと提案してみましたが、
「疲れるから」とか、「めんどくさい」と言って受け付けてくれませんでした。

しかし本人は、仕事では、残業しても気にならないとのことでした。
どうしてなのかを聞いてみましたら、お金になるからとのことでした。
価値観が、心を中心にしたものから、
お金を中心にした考え方に変化しているのではないかと心配になりました。

それで、4日目にもう少し家庭のことを聞いてみると、
最初は、「忘れた」と言っていましたが、粘り強く聞いていくと、
実は母親がいつも妹と比較して、
「どうしてそんなに暗いのか」とか「することが遅い」
と本人に言っていたというのです。

少女の時代に、「個性真理体」として受け止めてくれる環境がなかったのです。
そして愛の減少感に敗北してしまっていたのです。

それゆえに、「めんどくさい」とか「疲れた」とか
「忘れた」ということを言っていたのです。


子供の心はとても繊細なのです。

親は、子供が「個性真理体」としての自覚ができるように、
環境を整えてあげましょう。



「個性真理体」
本当に素晴らしい言葉です。

私たちも外的な価値観
人間的な価値観で子供を見つめることなく、
神様が与えてくださった一人一人の個性を見つめ、
引き出してあげないといけないと感じます。

明日に続きます。


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2016年03月27日

真のお父様は、マグロ釣りのチャンピオン! 霊界が働く5つのポイント 《金元弼先生の「お父様と海」》2



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昨日は、金元弼先生の講話、
お父様がマグロ釣りのチャンピオンであるという
5つのポイントのうち3つを紹介しました。

まず、マグロ釣りの目的が明確であること、
二番目にマグロについての知識、
三番目に心を投入されるということでした。

今日は、残りの2つのポイントです。


四番目は、すべてのエネルギーを投入することです。

普通マグロ釣りには朝の五時に出発します。
というのは、漁場まで二時間かかるからです。
しかし、先生は四時に出発されました。

そして、帰るのは普通夕方の五時か六時ごろです。
なぜならそのころには魚がエサをかまなくなるからです。
しかし、先生はそれよりさらに一時間長くそこにおられました。

このように先生がマグロを釣っていかれるなかで、
「釣れた」と言ったら先生の船なのです。
それで一般の人たちは、本当に先生の船に注目するのです。

そして、波の様子を見ると、自分たちよりも
一時間早く出ているということで、
彼らもそれに倣って四時に出発するようになりました。
そうすると先生は、三時に出発されました。

ある時、一日中やってもなかなかマグロが釣れませんでした。
するとシーズンの時には二百艘のボートが集まるのですが、
全部のボートが帰っていくのです。

その時先生は、船にいるメンバーに尋ねられました。
「ここでマグロを夜に釣ったという話を聞いたことはないか」と。
すると彼は、「そういうことは聞いたことがありません」と答えたので、
先生もそのまま帰られたのです。

というのは、先生は、そういう話があったとするならば、
徹夜してでもマグロを釣る覚悟でおられたのです。
このように先生は本当に力を投入し、熱心に働かれたのです。


マグロを一匹取ると、釣りをやめて
帰らなくてはならないという法律があります。

ある時は、二匹まで取ってもよいという許可が下りたのですが、
二匹を昼までに取ってしまったので、早く帰るようになりました。
ところが港で魚を下ろして、家に帰るのではなく、
そのあとで他のいろいろな魚を釣られたのです。

マグロ釣りの時というのは、朝三時に出港するとすれば、
二時に起きなければなりません。

そして一日疲れて帰ってくるのですが、先生は夜にお話をしてくださり、
十二時以前に寝ることはできません。
ですから、数時間しか眠ることができないのです。

こういうことですので、マグロを早く釣れば、
少しは休めるかと思っていたのに、またやるということですから、
かえって早く釣るのがうれしくないほどです。
これほどまでに先生は熱心に力を尽くしていかれました。


そしてあまりにもよく釣るので、
人々は望遠鏡で私たちの一つ一つの動きを見守るようになりました。

そんなある日、大きな警備艇がやって来ました。
というのは、彼らが警備艇に訴えたからです。
「ムーニーは何か不思議なエサを使っているのではないか、
行って調べてください」ということだったのです。

しかし調べてみても、何も不信なものはないのです。
同じものを使ってやっているのです。

そういう時に、マグロが引っかかったのです。
しかし、調査されている時だったので、それに対処することができず、
マグロはロープを切って逃げてしまいました。


このように、私たちがマグロをたくさん取るのが
不思議で不思議でならないのです。

そこで彼らが得た結論は、「ムーニーは魚までも洗脳する」
ということになったのです。
彼らは、エサを切るときに私たちがまじないをするのだと考えたのです。
そういうふうにしか、理解することができなかったのです。

マグロが釣れると先に港に帰るので、ツナを冷凍する人たちは、
最初に帰港する船はムーニーの船だ、あるいは他の船だと、
ビールを買って乾杯するようになりました。


先生は、このマグロを売っている人たちの生活をよく理解され、
マグロの販売価格を上げてあげなければかわいそうだと考えて、
そのマグロを高い値で買うようにされました。

また、先生が、何も釣れずに帰る場合、お母様を見ると本当に済まなく、
申し訳なく、そういう心を隠すことができなかったということでした。

それで先生は、魚で生活している漁師が釣れずに帰るとき、
それを迎える奥さんたちの心はどうだろうと、
そのような心を実感として分かったということでした。

ですから、先生はマグロが釣れないときには、
何か他のものでも釣っていくようにされたのです。


五番目は、祈りながら釣られたということです。

これら五つのポイントの基盤があればこそ、
霊界が働いてくれるということです。
万物復帰にしても、伝道にしても、
この先生の五つのポイントが適応されると思います。

そういうことですので、先生に倣って、まず目的意識をはっきりさせ、
その次に、知識と知恵のすべてを投入する。
三番目は、すべての愛の心を尽くしていく。
そしてすべての力を投入していく。
最後に、お祈りをささげる。
こうすれば、何事もできないものはないと思います。

先生はただチャンピオンになったのではなく、
結局サタンに勝利されたのだということを考え、
私たちはその伝統に倣っていきましょう。



お父様は、霊界の働くポイントをご存じであり、
それを実践していかれたので、マグロ釣りのチャンピオンになりました。

漁師たちが「魚を洗脳している」
そのように表現しているところが面白いですね(笑)

お父様はメシヤだから、なんの条件もなく勝利するのではなく、
原理原則通りに歩まれるから勝利されるのです。

マグロ釣りを通して、
海洋摂理を切り開いてくださり、
勝利のポイントを教えてくださった
真のお父様に感謝したいと思います。


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2016年03月26日

マグロ釣りは、神の解放、人類の解放、万物の解放?! 《金元弼先生の「お父様と海」》



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真のお父様は海を愛されました。
そして、魚釣りに精誠をこめられました。

金元弼先生が、お父様が
マグロ釣りのチャンピオンであると言う点を
5つにわけて解説してくださっています。


第一に、先生のマグロ釣りの目的ははっきりしています。

魚がたくさんいても、人々がどんどん魚を取り、また人口が増えると、
魚の資源はどんどんなくなり、食糧難が必ず襲ってくるようになります。
それで、先生は魚の養殖に非常に関心を示しておられました。

また今日のアメリカは、造船や水産業が非常に遅れている状態なのです。
それは、水産業に携わる人が一度海に出ると、三カ月以上帰ってこなくて、
奥さんたちがその帰りを待ち切れず、離婚率が高くなっていくからです。

ですから、離婚を恐れて若い人たちはなかなか水産業をやろうとしないのです。
それが水産業が振るわない、大きな理由の一つなのです。

そういう中で、アメリカを救い、世界人類の食糧問題を解決するという
遠大なる目的から、先生は水産業、造船業に早くから手を出されたのです。


先生は、生き物を殺すことに対して、
こういう理解を私たちにさせてくださいました。


「マグロは、いつかは年を取って死んでいく。
病気にかかって死んだり、事故で死ぬこともある。
また、他の魚に襲われて死ぬこともある。
いろいろな形でいつかは死んでいく。

しかし、万物には創造された目的があり、存在目的がある。
万物は、真の人によって愛の主管を受けなければならないのに、
人間が堕落したことによって、それを果たせずして死んでいくので、
万物には恨みがある。

真の人に主管され、その真の人に喜びを与え、
真の人の喜びを通して神に喜びを返すことができ、
それによって万物も神の喜びのためにあったということで、
その存在目的を達成していく」


ですからツナは、真の人のために犠牲になったという場合に、
その恨みは晴らされ、初めて存在目的を達成することができるのです。

こういう原理的な観点から見るときに、マグロを釣ることのできる人は、
メシヤと、メシヤによる真の子女しかいないということになるのです。

先生が取らなくても、いつかは全部死んでいき、
そうすると万物の恨みは全部残っていくのです。
それで先生において、その恨みを晴らしていくということが、
マグロを釣る目的の一つでした。


そして先生はそれを取るばかりでなく、どんどん養殖して、
人類の食糧難を解決するということにもかかわっていかれたのです。

オーシャン・チャーチの設立も、そういうきっかけからだったのです。
ですから先生がマグロを釣る目的は、神の解放、
人類の解放、万物の解放と、はっきりしているのです。


チャンピオンになった二番目の要因は、先生のマグロについての知識です。
先生はそれまでの知識に、常に新しい知識を加えていかれました。

まず先生は、ツナの生態から研究し始められました。
何が好きで、どういう所に好んで行くのか、
いつよくエサをかむのかということから始められたのです。

それは、多くの本を読まれたということではありません。
先生は、人の話を聞きながら考えられたのです。

次に先生は、釣るのに道具が必要ですから、まず釣り針を研究されました。
いろいろな釣り針を集め、どれが一番良いのかを常に考えられました。

そして先生が直接使ってみて、いろいろと構造を変えたり、
そればかりでなく、それにつなぐロープについても、
太さなどをいろいろ検討していかれました。
そのように、すべての道具を一つ一つ検討されたのです。

次に、エサを垂らすにも、いくつ垂らせばいいのか、
それもどのくらいの深さで垂らせばいいのかということも研究されました。
このようにして、すべての知識を得て、マグロ釣りにそれらを投入されたのです。


三番目に、先生は、マグロを釣るのに本当に心を投入していかれました。

というのは、先生はマグロを「魚の女王」だと言っておられ、
女王を迎えるためには、それ相応の道具を準備して
迎えなければならないと考えておられるのです。

魚を取ることを正業としている人は、
三週間かけて一匹取るのでは費用がたくさんかかって大変です。
それで彼らは、浮きの代わりに空きビンを使うのです。

しかし、先生は、そうしてはいけないということで、
当時四ドルほどの浮きをきちんと買って、
きれいにテープを巻いて使われました。

そればかりでなく、ロープを入れるかごにしても、
本当にお金をかけた良いものを使われました。
ロープも先生が買われ、直接深さを決めて使われました。

そして、エサをどんどんまかれるのですが、それは腐ったものではなく、
お金をかけて良いものを使われました。

世の中の人たちは、ただ切って投げるのですが、
先生はそれを喜ばれず、私たちがエサを切る時でも、
きれいに切って、真心をこめてまくことを願われました。

私たちがリンゴを切ってもらうとき、きれいに切ってあるのと、
でたらめにただ切ってあるのとでは、美しいほうを食べるでしょう。
万物も人間と同じで、魚もそうなのです。


また、船の上で動くときも、音を出して動くことを禁じられました。
その音が、マグロがエサに近寄るのを妨げるからです。
そして、エサなどを切っていると船の中が汚れるのですが、
先生は常にきれいにすることを願われました。

また、マグロがエサをかむ時間があり、
その時間帯が過ぎると、数時間は静かなのです。
そういう時間は疲れるので、ある時本を読んでいると、
「本を読むのではない」と言われました。
それは、釣りにすべての真心を尽くしなさいということです。

(月刊『ファミリー』一九八八年四月号掲載)



お父様は万物を心から愛しておられるのだと感じます。
それは、神様がどのようにマグロを創造していかれたのか、
その御心情を何よりもご存じだからではないでしょうか。

また、釣りをするときの精誠も本当に素晴らしいと感じます。
マグロは船の様子はわからないのですが、
マグロのためにもエサにも心をかけ、
船の中も整理整頓される真のお父様なのです。

釣りは伝道にも通じると言われます。
お父様の精神を相続していきたいと思わされます。

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